折口信夫の角川文庫本(昭和50年版)を読み返していたら、「ごろつきの話」(昭和3年 古代研究 民俗学篇③ 所収)という過去、何度も目にしていた文章をまた読んだ。
この本は全編素晴らしいが、とくに感動したのがこの部分ーー
無頼漢(ごろつき)などといえば、社会の瘤のようなものとしか考えておられぬ。
だが、かつて、日本ではこの無頼漢が、社会の大なる要素をなした時代がある。
四、 治外法権下の悪行
彼らは後々までも、ことに徳川初期において諸大名たちを弱らせた事実についても、考えておかねばならぬ。彼らが大名を弱らせたには、弱らせるだけの理由があったのである。
諸大名が出世したには、みな彼らの手を借りている。彼らは、戦国の当時には、ほとんど傭兵として、諸国の豪族に腕貸しをしている。のちに大名になったもので、彼らの助力を受けていないものはほとんど一人もいない。
また、彼らの中から出世したものもある。
上州徳川の所領を失うたという徳阿弥父子が、三河の山間、松平に入り婿となるまでの間は、遊行派の念仏聖として、諸方を流離したのである。
「ごろつきの話」P30
↑ところどころ、私の認識と違っているところがあるが、昭和3年の段階で、これは見事というしかない。弾圧にも遭わず((笑))こうやって文庫本にも載せられているのは見事である。
史疑幻の家康論 礫川全次/著 批評社2000.2

Version 1.0.0
↑『史疑・徳川家康事蹟』を徹底解説した名著から、引用する。
「……その時に天の助けが来たのである。信長の方から、友好の申し出があったのである。元康(じつは元信)はよろこんでこれに応じ、清須城訪問となった。
和議は成立し、永禄5年(1562)4月に、にせの元信、世良田二郎三郎元信は、松平蔵人家康と名を改めた。
信長の一字をつけて竹千代を信康と名付け、信長の娘である9歳の特姫・五徳とめあわせた。
こうして、松平家康の時代となったのである。
一方、岡崎の旧臣たちは、朽木が倒れるようにしだいに後を絶っていった。
重臣の酒井将堅忠尚は、家康の下風に立つのを憤り、反逆をくわだてたが、敗れて、猿投山の山里に隠遁した。
松平信孝も反逆をくわだて、明大寺村で討ち死にした。
水野信元は讒訴されて殺された。
最後に反家康の旧臣を一掃したのは、一向宗の門徒一揆である。
家康公に反抗するものはほとんどこの一揆に加わって、ほろぼされた。」

春日局が、本能寺の変の現場指揮官、豊臣秀吉によってのちに処刑された斎藤利光の娘だと知ったのは、もうずいぶんむかし、八切止夫の本であった。
本能寺の変、発生当時、3歳だった彼女が、3代将軍家光の乳母になったのは、父親が処刑され首をさらされた京都・粟田口に掲げられた乳母募集の表札をみて応じたものだったという。(「春日局・今日は火宅を遁れぬるかな」福田千鶴著 68ページ)
ここまではいい。
だが、初期徳川政権の徹底的な明智光秀人脈優遇政策を知ると、この逸話も怪しいものと思えてくる。
1582年 本能寺の変 春日局(斎藤福)当時3歳。
1590年 この頃、徳川家康は、小田原の陣中で天海僧正(じつは明智光秀?)と出会う。この時、天海僧正は武田家の祈禱師だった。
1600年 関ヶ原合戦 ④ ⑤ ⑥
1604年 家光誕生。春日局(斎藤福)乳母となる、
1614年 大阪冬の陣
1615年 大阪夏の陣
1616年 徳川家康死す。75歳。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1623年 家光、3代将軍に ① ② ③
1643年 春日局亡くなる。天海僧正病没。
① 家光の子の徳川家綱の乳母には、明智光秀の重臣の溝尾茂朝の孫の三沢局が採用されている。
それだけではない。
② 斎藤利宗:春日局の実兄もまた、明智家滅亡後は、加藤清正に仕えていたが、後に徳川家光に5千石の旗本として、取り立てられている。
③ 息子の稲葉正勝も家光の小姓に取り立てられ、元和9年(1623年)に老中に就任、寛永9年(1632年)には相模国小田原藩主となった。
④ 明智光秀の孫の織田昌澄は大坂の陣で豊臣方として参戦したが、戦後に助命されている。
⑤ 山崎の戦いで明智側についた京極家は、関ヶ原の戦いの折に西軍に降伏したにもかかわらず戦後加増された。
⑥ 一方、光秀寄騎でありながら山崎の戦いで光秀に敵対した筒井家は、慶長13年(1608年)に改易されている。
↑こうしてみるとにかく、明智光秀人脈を選んで引き立てたと考えざるをない。
もちろん当然、徳川家康は天海僧正が明智光秀であること知っていたからこそのこの人選ではないだろうか。
① ② ③はまだわかる。春日局が将軍家光の乳母として権勢をふるった時期の優遇政策だ。この部分は省いてもいいだろう。だが、④ ⑤ ⑥は違う。
三百年のベール―異伝 徳川家康 (学研M文庫) 2002/2/1 南条 範夫 (著)

Version 1.0.0
家康の出生の秘密に端を発して、徳川300年にわたる身分社会のベールが大胆な構想と縦横無尽な筆致によって暴かれる。
明治35年に刊行された『史疑』を素材に、闇に葬られた真相を解き明かす南條文学の傑作。
静岡の県吏・平岡素一郎は、ふと目にした史書の一節をきっかけに、将軍徳川家康の出自と生涯の秘密を探りはじめる。
やがて、驚愕の真相が浮かび上がった―。「家康は戦国大名松平家の嫡子ではない、流浪の願人坊主だったのだ」。
そして、その隠された過去からは、さらに意外な歴史が明らかにされてゆく。
明治に実際に刊行された幻の奇書『史疑・徳川家康事蹟』を素材に、大胆な構想で徳川家300年のタブーに挑んだ、禁断の歴史ミステリー。
↑これは、ほぼ史実であろう。明治35年に、徳富蘇峰の経営する民政社から発刊。だが、すぐ、徳川家の弾圧により発禁本となる。
隆慶一郎の傑作「影武者徳川家康」がここから想を得ているし、漫画「カムイ外伝」がそうである。ベースとなるアイデアはここから取っている。
「武家として覇権を握るには、源平いずれかの姓をとらねばならないという観念は、よっぽど強かったのだね。
織田信長も始めは藤原氏を称していたが、後に平氏を名乗って平資盛の子孫だと言っている。
ところでこの新田源氏と徳川氏を結合させる為に、徳川氏は後々まで、色々苦心していますよ。
慶長16年(1621)に、増上寺の観智国師に命じ、土井利勝・成瀬正成と共に、上野国新田庄に派遣して、新田氏の旧蹟を捜索させ、菅野沢にあった義季の父・新田義重の古墳を大田に移し、大光院という寺を建てて、遠祖を祀るという形をとっています。
その上、徳川家康が死んでからのことですが、寛永16年(1639)、天海僧正は、東照公の遺命と称して新田郡世良田郷の長楽寺の住職を追っ払って、その寺を自分が占領しているのです。
天海僧正は、上野国新田庄得川郷の満徳寺という寺にあった新田家の系図一覧を、公儀御用と称して取り上げている。
三百年のベール―異伝 徳川家康 (学研M文庫) 2002/2/1 南条 範夫 58ページ
↑徳川家康の影武者説も、こんな状況証拠がボロボロある。
いわゆる「正統な歴史学」のお歴々にあっては、自分たちに都合のいい文書ばかり読んでいないで、こういう証拠にも目を向けて欲しい(笑)
二人の家康前書
徳川家康の出生に疑惑を投げかけた村岡素一郎の史疑 徳川家康公事蹟
https://shizuoka.veritas.jp/sigi/01umare.html
↑ このサイトが複雑な問題を簡潔にして、よくまとめている。
徳川家康の影武者説 – Wikipedia

ここからは私の妄想である(笑)
【家康の陣地跡】
家康軍が陣を置いた「今井村」は、現在の小田原市寿町辺り、小田原城の東方にありました。
この陣跡に建つのが「徳川家康陣地跡の碑」です。
石碑には「神祖大君営址ノ碑」という文字が刻まれています。
1590年 この頃、徳川家康は、小田原の陣中で天海僧正(じつは明智光秀?)と出会う。この時、天海僧正は武田家の祈禱師だった。
「…じつはな、拙者は、じつは…惟任日向守、明智十兵衛光秀よ…」
それは唐突な告白だった。
明智十兵衛光秀といっても、2,3度遠くから見ただけでよく面相がわからない…
無言の時が流れる…
「出自のことで、いろいろお困りであろう、拙者に一任してくださらぬか…」
↑こういう会話があった可能性が高い。そうでなくては、初期徳川政権の徹底的な明智光秀人脈優遇政策というのを理解できない。
この論点、掘れば掘るほど深い闇がある…
ただ唯一、理解できない、わからないところとして、松平元康が徳川家康に成り代わったとして、まるっきり別人がいきなり「おれが松平元康」だと、名乗りを上げたとして、納得できない人はいなかったのかというところだ。
だから、初期徳川家康の取り巻きの数人はこの事実を知っていた。なにも、すべてを徳川家康ひとりで行ったことではない。それは不可能だ。
ホントの松平元康の側にも、「こいつに賭けてみよう」と思った旧臣がいたに違いない。
そういった「共同作業 共同謀議?」の結果としての、流浪の願人坊主・徳川家康であったに違いないと私は考えている。
フレデリック・フォーサイスの傑作「ジャッカルの日」のラストシーンを思い出す。
墓場で葬られる「ジャッカル」彼を追った警部と部下の会話。
「……ジャッカルとはいったい何者だったんですかねえ……」



