藤原不比等についていろいろ考えている。
私たちが関わっている、論じている日本古代史というものについて、単に藤原不比等で知られているもの以上に現在に影響を及ぼしているのではないという気がしてる。
森浩一先生がすでに、
京都の歴史を足元からさぐる 洛北・上京・山科の巻 2019/1/31森 浩一 (著)学生社

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ここでも先に注意しておきたいことが一つある。奈良盆地全域を「大和」と表記し、大和政権とか大和の古墳文化などということが当たり前のように使われている。
しかし、「大和」の二字の表記も8世中ごろに初めて使われるので、古墳時代、まして弥生時代に「大和」の二字表記できる地名はない。
使用する漢字によって人々に誤解をうえつけるのは、暗黙のうちに大和中心主義に加担していることになる。
学問とは真実の探求のために死に物狂いの努力を続けることである。
黒塚古墳の発掘で三角縁神獣鏡が化粧具ではなく葬具として大量製作されたことが明らかになっても、まだ黒塚古墳の三角縁神獣鏡を「卑弥呼の鏡」というような非歴史的な言葉を使ってよんでいる鏡の専門家なる人がいるのは、もはや茶番を超えている。
↑あまり取り上げられていないが、1962年の段階ですでに、三角縁神獣鏡は日本製であると言い切った神発言とならぶ、これもまた神発言であると思う。
誰とは言わないが、この時期に書かれた、邪馬台国畿内説にたつ歴史学者、考古学者の書いたものに珍妙な「大和の古代文化」なる表現が見られる。
こういうのも全て、藤原不比等の策略に引っ掛かってしまったものだと極論できるのではないか?
豊日別宮 女神信仰と邪馬台国 田中了一著・2000年 自費出版 邪馬台国だけではなく、「倭国」の実態も、もしかしたら、この辺りにあったのではないか?

九州北部に、大宰府を取り囲むように造られた謎多き神籠石の遺跡のことは知っているだろう。
山口県や四国にまで発見されたが、なぜか、古事記・日本書紀には一切記述がないというアレである。
ズバリ、これが卑弥呼の居城ではないかというのが田中了一氏の見解である。
とくに福岡県にある御所が谷の遺跡に注目したい。
今でも立派な水門が残っているが、たかが排水のためにこんな立派な水門をつくらないだろう。
タイトルにある表紙の写真がそれである。
私はこの水門で、まじない札と禊の神事が行われていたのではないかと思う。
御所が谷、神籠石という名称も何やら意味深ではないか。
それにこの近辺は、古来より、神代の昔から美夜古(みやこ)と呼ばれていた。
「……しかもこの地域は中臣郷であり、祭神官を司っていた中臣氏にふさわしい祓郷村や、祓川があり、中臣氏に神事のありかたは、祓うということをもちいていた。
また伊勢斎宮の地に祓川があり、このことから欽明は斎宮を立て、天照大神を祀った御神体は中臣郷の祓川そばにある豊日別宮こそが、伊勢の源神であり、神鏡に魂を入れ御神体として運ばれ、斎宮の祓川は源神の聖地に流れる祓川にちなんだものとみられる。」
武田幸男という歴史学者がかつて、古田武彦の九州王朝説(大宰府、八女、久留米あたりに首都があったとする)に対して、「西は衆夷を服すること六十六国」ではおかしいではないかと、鬼の首を取ったように書いていたが、そういう疑問も豊前にみやこがあったとすれば完全解決する。
10.邪馬台国 魏志倭人伝より
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸南(行)して、邪馬壹(臺の誤り)国(やまとこく)にいたる。女王の都とするところである。水行十日、陸行一月である。
官に伊支馬(いきま)がある。次(官)を弥馬升(みまと)という。(その)つぎを弥馬獲支(みまわき)といい、(その)つぎを奴佳(なかて)という。
七万戸ばかりである。
豊後国風土記(8世紀前半)にも豊前仲津郡中臣村とあり、倭名類聚抄(931年 – 938年)にも中臣郷とある。
中臣氏は、ここに、九州北東部に確かにいて、邪馬台国の高級官吏だったのではないか。
奴佳鞮 なかて? ぬかて?ズバリ これが中臣氏ではないか?
藤原不比等1997 いき 一郎 (著) 三一書房
たった20年ばかり(親父の鎌足を含めれば5,60年)の仕事で 藤原レジーム(藤原氏独裁政権)を作り上げた不比等は凄いと思う。
不比等が精魂を傾けた最大の仕事が、「修史」作業だろう。
古事記、日本書紀を完成させ、風土記の編纂も手掛ける。
しかし、不比等のしごとのうちで、最も成功したのはおそらく、「聖徳太子の創造」(主に大山誠一説)であろう。
「藤原不比等の能力のひとつに、文字づくりがある。
天皇という字の使用は720年の日本書紀完成以前という説が成立するならば、この重要な字の案出、使用には当然、不比等がかかわっていたと考えられる。
また、ヤマトは倭、大倭の訓となったが、この読み方も、邪馬台国論の基本にかかわる大きな判断の分かれ目となる。
不比等は、倭をヤマトと読ませ、大和とするなかで、巧みにヤマト=日本、ヤマトを日本の古代の中心に置き換えてしまったのである。
これはずる賢いすりかえ、移動、引き伸ばしである。しかし、中国の記録にはそうは書いていないのである。」(藤原不比等1997/いき 一郎)
【平城京と『記紀』完成】720年不比等が閉じた「日本」という物語
むらくも歴史チャンネル チャンネル登録者数 1.93万人
8,890回視聴 10時間前
2026/09/26 #平城京 #日本書紀 #藤原不比等
710年、都は藤原京から平城京へ。
そして712年に『古事記』、720年に『日本書紀』が完成します。
新しい都と、新しい歴史。その両方の中心にいたのが、藤原不比等でした。
『日本書紀』が完成した720年、不比等もまた世を去ります。
偶然と呼ぶには、あまりに整った符合です。
今回は、持統天皇の死から平城京遷都、記紀の編纂、そして不比等の死までをたどります。
あわせて、記紀に大きく書かれなかった饒速日命・天火明命と、その名を伝えてきた神社の記憶にも光を当てます。

第一章 問題の所在――中臣氏は本当に畿内古層の大豪族だったのか
中臣氏は、最初から畿内の大豪族だったのではなく、六世紀から七世紀にかけて、王権再編の中で祭祀氏族として急速に浮上した集団だったのではないか。そして、藤原不比等の時代に、その由緒が畿内中心に再構成されたのではないか。
この疑問を考えるとき、注目すべき場所がある。
それが、豊前国仲津郡中臣郷である。
第二章 豊前仲津郡中臣郷――草場に残る中臣氏の痕跡
豊前国仲津郡には、かつて中臣郷、あるいは中臣村と呼ばれる地域があった。現在の行橋市草場周辺から、みやこ町田中一帯、今川中流域に比定される地域である。
これは単なる後世の地名ではない。古代の戸籍には中臣部の存在が見え、『豊後国風土記』系の伝承にも仲津郡中臣村が登場する。つまり、豊前東岸には中臣に関わる地名と人々の痕跡が、かなり古い段階から存在していたことになる。
ここで重要なのは、「中臣郷」という地名が全国にありふれたものではないという点である。もし中臣郷が各地に無数に存在する一般的な地名であれば、豊前の中臣郷を特別視する必要はない。しかし、確認できる中臣郷は多くない。その一つが、豊前仲津郡に存在する。
つまり、中臣・藤原氏の起源は、畿内だけで完結しない。
豊前中臣郷、宇佐の姫、秦氏、景行天皇伝承、徳永川ノ上古墳、豊後の太子伝承。これらを重ねると、中臣氏は最初から畿内の大豪族だったのではなく、豊前を含む複数地域に展開した祭祀・統治系集団であり、その一系が藤原氏によって畿内中臣氏として本宗化された可能性が見えてくる。
藤原不比等は、その古い記憶を知っていたのではないか。
そして不比等は、その記憶をそのまま残すのではなく、記紀、国家祭祀、聖徳太子伝承、秦氏由緒の中に再配置した。中臣氏は天児屋根命を祖とする国家祭祀氏族となり、藤原氏はその正統性を受け継ぐ政治氏族となった。
だが、その背後には、豊前の中臣郷がある。
宇佐の姫がいる。
秦氏のネットワークがある。
そして、畿内史の表面からは見えにくくなった、豊国の古い記憶がある。
中臣・藤原氏の起源を考えるなら、畿内だけを見ていては足りない。
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古代国家の形成にあたって、藤原不比等の果たした役割の大きさを、いち早く本格的に論じたのが哲学者の上山春平 京大教授である。
「続・神々の体系」中公新書 昭和50年 ← とくにこれがお勧めだ。

大山説は、著者も明記するように、上山氏の神祇革命説の継承・発展である。
これまで日本人が教えられて来た古代史は、すべて『日本書紀』を鵜呑みにしたものであった。
『日本書紀』を批判的に論ずる研究者はほとんどいなかったし、いても、政治の力で異端視され押さえ込まれてきたからである。
古事記は日本語で日本書紀は中国語で書かれた|日本語の砦となったフルコトフミ
地図をなぞって日本古代史を考える チャンネル登録者数 5520人
5,764回視聴 2026/09/18
古事記は日本語で書かれ日本書紀は中国語で書かれた
このシンプルな事実の意義、意味について語られることが少ないような気がします@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
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「中国人」を生み出したのは、日本だった。これが私の独断でないことを示すには、毛沢東の次の言葉を引用すればじゅうぶんだろう。
日本の軍閥はかつて、中国の半分以上を占領していました。このため中国人民が教育されたのです。
そうでなければ、中国人民は自覚もしないし、団結もできなかったでしょう。
日本の独占資本や軍閥は、中国人民に良いことをしてくれました。
もし、感謝する必要があるならば、私はむしろ、日本の軍閥に感謝したいのです。」
(1961年、毛沢東主席の黒田寿男ら日本社会党議員への談話)
日本をつくったのも実は1300年前のシナ人である。
白村江の戦で、唐と新羅の連合軍に大敗した倭人国家は、関西地域に引きこもって、各地に山城を築き始める。
戦争に負けた相手の律令制を取り入れ、シナの天皇大帝という皇帝制度?を日本式にアレンジして京都に都をおいて政治を始めたのは藤原不比等である。
東洋史学者の岡田英弘氏によれば、それ以前、邪馬台国もシナ人(華僑)がつくったという。
私はその説に、話し言葉の語順が全く違うことから反対だが…
