初代天皇たる神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)は、天孫・ニギノミコトの曾孫である。
歴史的実在/非実在にかかわらず、その名が皇統譜に記載され、記紀に東遷伝承が採録されていることは事実である。
このことは、神武伝承が歴史的に形成されたことを意味する。
それでは、なぜヤマト王権の始祖王たる神武は日向で生まれ、母系を隼人とし、そしてまた東遷にあたって多くの事蹟が伝えられるのであろうか。
本書ではこれらの課題に対し、「不可解であるから後代の造作・捏造である」という無責任な立場をとらない。
神話/伝承は恣意的な後筆によってその地位を確立できるようなものではないゆえである。
記紀をはじめとする文献、そして富雄丸山古墳出土蛇行鉄剣などの考古的成果を駆使し、神武伝承が歴史的に必然性をもって成立したこと、そしてその時期が限定されることを説得的に提示する。
著者について
1948年、奈良県生まれ。1971年、龍谷大学文学部史学科卒業。以降、奈良県内で教諭として教壇に立つかたわら研究活動を行う。1992年に初の単著『鹿と鳥の文化史』(白水社)を刊行、以降コンスタントに著書を刊行する。2002年、「古代日本の王家と氏族の研究」によって皇學館大学(学長・大庭脩)より文学博士号。この間、龍谷大学・堺女子短期大学非常勤講師、龍谷大学仏教文化研究所客員研究員、奈良県王子町史編纂委員等を経て、2007年に龍谷大学文学部史学科教授となり、2017年に定年退官するまで勤務した。専門は日本古代史。
この奈良県生まれの書いた本は優れものである。
邪馬台国畿内説、邪馬台国九州説ともに大いに関連する問題である。
私は素人なので出会ったことはないが、神武天皇が実在したなどというと、一部の考古学関係者からは目を剥いて反発されるらしい。
困ったことである。
あれだけの事績、お兄さんの墓まであるんだから、実在したのは当然ではないか??
アマゾンレビューの無量大数さんのまとめが素晴らしいのでそのまま使わせていただく。
星5つ中4つ 神武天皇東遷伝承についての話が興味深い 2024年12月1日に日本でレビュー済み
1.神武天皇東遷前に九州の隼人の集団が大和を含む畿内に移住していた。
森浩一先生がたくさん書いてるが、畿内に神武東征以前から多数の隼人がいたのは歴史的事実。有名なのは「隼人の盾」である。

隼人の楯(はやとのたて)は、奈良県奈良市の平城宮跡より出土した、古代在京隼人が使用した8世紀前半頃の木製の盾。
『延喜式』に見える「隼人楯」の記述と合致する特徴を備えた奈良時代の考古資料である。
飛鳥・奈良時代、南九州の薩摩・大隅地域の人々は、当時の律令政府により擬製的な化外の民(夷狄)として扱われ、「隼人」と呼ばれた。
史料上での隼人は、『古事記』の神話部分や仁徳天皇条などに見え、早くから登場しているが、
確実な史実としての記述が認められるのは、7世紀後半にあたる天武朝11年(682年)7月の飛鳥京への朝貢記録(『日本書紀』)からとされる。
これ以降801年(延暦20年)の朝貢停止(『類聚国史』)・805年(延暦24年)の風俗歌舞停止(『日本後紀』)に至るまで、ほぼ6年毎に朝貢し、都(藤原京・平城京)で兵部省傘下の隼人司に統括され、宮城警備や宮中儀礼行為への参加、竹製品の製作などの課役に従事した。
狗奴国という名称について
ネットを漁った限りでは、この狗奴国の 狗という言葉に言及した考察はないようだ。
狗という言葉は、そのものずばり 犬である。
いま、現代日本からみれば、ずいぶんの命名だが深い意味があってシナ人がつかってる
狗奴国 ← 犬の遠吠えしてたり、犬の子孫だというバンコ神話が残ってたり犬との親和性高いから薩摩隼人?
狗奴国 ← 犬の遠吠えしてたり、犬の子孫だというバンコ神話が残ってたり犬との親和性高いから薩摩隼人?
南には男王卑弥弓呼が治める狗奴国があり女王国と不和で戦争状態にあった
狗奴国が邪馬台国に勝利してヤマトに合流したのかもしれない
魏志倭人伝にも、邪馬台国との戦いの結果がかかれていない
隼人が大量に京都周辺に移住してる(させられた)大隈隼人とか
早稲田大学名誉教授の水野祐氏(歴史学)はかって、「奴国が伊都国にほろぼされ、その敗残勢力が筑後川を越え九州山地を横切って九州南部に拠点を移し、頭に「狗」をつけて「狗奴国」になった。
その後、この勢力が「神武東遷」として大和に入ったのが大和朝廷である」と言う説をとなえていた。(「古代王朝99の謎」角川文庫:角川書店 昭和
60年11月10日発行)
最終的に水野氏は、仁徳王朝がこの狗奴国の流れを継ぐ王朝であるであるとしていた。
1000キロの海を渡った「大王の棺」: 九州から大阪、実験考古学の航海が解く古墳の謎 2008/澤宮 優 (著)現代書館 近畿の古墳の石棺のピンクの石って熊本産なんだろ?おまえら、嫌いな国の、地方の産物に囲まれて死にたいと思う?これこそ東遷の証拠じゃねえか

日本古代の国家形成: 征服王朝と天皇家 (講談社現代新書 128) 1967/10/1水野 祐 (著)

この関係の数冊を読んだが、わざわざ熊本からピンク石を運んだのは一体誰だったのかについての考察がないのが残念である。
私はこの事実を知って、水野裕先生の「狗奴国、九州の覇王になった」説を思いだした。
狗奴国は女王卑弥呼の邪馬台国と長らく対立してて、以降の文献に記載はないが、けっきょく狗奴国が勝利して東遷を開始したのではないかとの説である。
盤瓠(ばんこ、槃瓠とも書く)は、中国の伝説上の犬。
『捜神記』によると、昔、高辛氏が犬戎に攻められたとき、帝は犬戎の将、呉将軍を打ち破ったものに賞金と娘をめあわせるというお触れを出した。
すると、五彩の毛をもつ槃瓠という犬が、呉将軍の首を噛み切って戻ってきた。帝は犬に人をめあわすわけにはいかないと考えたが、娘自身は、帝の言葉に嘘があってはいけないと、自ら槃瓠に嫁ぐことにした。
両者は南山にはいり、娘は3年間に6男6女を生んだ。帝は子供たちを呼びよせたが、かれらは人間生活になじまず、山の中で暮らしていた。かれらの子孫が蛮夷の祖となったという。
同じ伝承は『後漢書』南蛮伝にもあり、それによれば、槃瓠の子孫は現在の長河(湖南省)の武陵蛮(現在の湖南省・湖北省を中心に居住していた中国古代の非漢民族であるという。
狗奴国(くぬのくに/くぬこく、くなのくに/くなこく、こなのくに/こなこく)は、中国の三国時代の歴史書『三国志』(西晋の陳寿の作)のうちの『魏書』の中の「東夷伝倭人の条」に記載されている邪馬台国と対立していた倭人の国である。
『後漢書』東夷伝では拘奴国と表記する。
3世紀(弥生時代末期から古墳時代初期)の倭国で邪馬台国の尽きるところである南に位置する。(其 ← 地続きの南に位置している!!)
2.神武天皇東遷時に神武天皇は大和の吉野川流域の隼人集団に対し他の集団と対照的に武力を行使していない。
これは彼らを表敬訪問したものである。彼らは神武天皇に協力した。
3.畿内の隼人集団は、ヤマト王権によって蝦夷のように強制的に移住させられたものではなく自由意思で移住した。
4.これらの隼人集団から天皇の皇妃を何人も出しており、蝦夷集団の扱いとは大きく異なる。
5.考古学的にみても南九州地方に出土が集中する蛇行鉄剣が奈良市の富雄丸山古墳(4世紀後半に築造)や奈良県宇陀市の古墳から出土している。
富雄丸山古墳は、ナガスネヒコの墓だよ。周りは前方後円墳だらけのなかに、ポツンと円墳である富雄丸山古墳がある。
巨大な蛇行鉄剣というのも、南九州地方の匂いがする。
神武天皇の歴史学 (講談社選書メチエ 794) 2024/1/15 外池 昇 (著) 神武天皇は間違いなく実在した… そんなことがテーマになるくらいGHQに頭やられてるってこと。

神武天皇の墓所の候補は3か所もあった。
GHQの工作が効いてて、現在の歴史学会も神武天皇はいなかった説が主流である。
なぜかというと、神武天皇は確かに存在したとする歴史学者は皆追放されたからだ。
著者も肝心の資料に触れられていないとの恨みが残った。
建国神話の社会史-虚偽と史実の境界 (中公選書 102) 2020/古川 隆久 (著) 中央公論新社

菊池山哉(さんさい:大正-昭和の郷土史家)はその著書のなかで、洞村の区長宅で多くの老人たちから聞いた洞村内部の話を次のように伝えている。
洞村は神武天皇陵拡張のため平野へ移転し、今は街路整然といしている。もとは畝傍山の東北の尾の上であり、『古事記』『日本書紀』は神武天皇陵と伝えているところと一致する。
神社を生玉(いくたま)神社という。祭神は神武天皇とのことだが確かではない。
この部落は、神武天皇陵の守戸であると伝承している。
神武天皇陵は、畝傍山の東北の尾の上の平らなところで、丸山宮址のところとも、生玉神社のところとも伝えられている。
旧家は、御陵と伝えられているところの下で、『ひぢり垣内(かいと)』ととなえ井上、辻本、楠原、吉岡などが本家。ともに日向からおともしてきた直系の家来で、そのため墓守になったと伝えている。
今の御陵は真実の御陵と方向があべこべである。
洞村の人々が九州から来て、神武天皇の墓守をしたという伝承は、洞村のすぐそばにある丸山が真の神武天皇陵であることを支持しているように見える。
4,奈良県高市郡 8,高市郡、白橿村、元洞 P376 「長吏と特殊部落」 昭和22年 多摩史談会
↑直接、話を聞きに行ったのが菊池山哉ただ一人というのが悲しいが…
九州王朝論者からみた掃部(かもん)という職掌名、「日本原住民と神武東征:失われた民「クマビト」の歴史」田中勝也著 新泉社 1982.10

問題は、この伝説にちなむ場所にあるのではなく、その伝説の内容にある。
貴人の家などでは、日常生活においてこの蟹払いが特に要求されたに違いない。
そして重要な点は、この蟹払いの作業が1つの官職になったと「古語拾遺」が伝えている点である。
そしてこの官職が発生したとすれば、海岸部を主要な領域とする国家の宮廷においてであっただろう。
ところで「延喜式」にもこの蟹守の官職が記載されている。
紛れもなくこれは、沿岸部に発祥した王権が、内陸部王権の大和朝廷に持ち込んだものである。
よみがえる古代王朝 (古代の地平を拓く 3) 2019/5/31河村日下 (著) 九州王朝論者が、九州王朝論者を論ず…

第9章 巨大古墳の謎を解く
1, 巨大古墳築造の目的
いわば、巨大前方後円墳の特徴である「突発性」と「偏在性」とは、「謎」と同義なのである。352ページ
それなのに、巨大前方後円墳の出現には、段階的、漸進的という経過が見られないのである。351ページ
重なる分布とその時代背景
ここに一つの分布図がある。この分布図を、「全国未開放部落分布図」という。
制作者は、早稲田大学部落問題研究会 年代は昭和11年 353ページ
古田武彦は作家・住井すえとの対談で、この分布は、古墳、それも前方後円墳の分布と一致していることを論じている。
古田武彦の発見は事実だった。
被差別部落は前方後円墳の分布と一致する。355ページ
ひたすら造るというよりも、「ひたすら造らせ続ける」… これが前方後円墳築造の目的だった。
巨大古墳の「突然編位性」は、大量の労働力の確保と無縁ではない…
と、ここまで解明したのはさすが古田武彦信者であると言いたいところですが、ここからが良くない。
この筆者は、狗奴国が負けて、負けた狗奴国の人間が巨大古墳づくりのこき使われたと言ってる。
私はあべこべに、狗奴国が最終的に邪馬台国を蹴散らして、奈良盆地に進出したものだと思ってる。
この筆者は現に、
そんな中で、畿内には、九州の影がちらつく前方後円墳が存在している。
巨大古墳を築くだけでも、多大な労苦を伴う一大作業だ。
それなのに、そこには、阿蘇山の溶結凝灰岩ピンク石が使用されているのである。
奈良県、大阪府はもとより、畿内にこのような溶結凝灰岩を産出するところはない。
畿内の巨大古墳に、九州の影がちらつくのは、なぜだろう…
