戦乱の続く過酷な社会のなかでも、民衆は生きていた―。
人権のかけらもない人身売買や乱取り、人智を超える神仏との共存、繰り返す飢饉と疫病。
著者は、そんな戦国時代こそが日本の大きな転換点だと主張する。
戦国時代を経て、社会はどのように変わったのか。現代の常識と戦国時代の常識の違いを明らかにしながら、戦国時代が今を生きる我々に残したものを探り、歴史学者が問いかける現代の課題を考える。
笹本正治(ささもと・しょうじ):1951年山梨県出身。77年名古屋大学大学院文学研究科博士前期課程修了。同大文学部助手を経て、84年信州大学人文学部助教授、94年同大教授。2009~14年同大副学長。16年~長野県立歴史館館長。専門は16世紀を中心とする日本史学。著書は『甲信の戦国史―武田氏と山の民の興亡』(ミネルヴァ書房)『中世の音・近世の音―鐘の音の結ぶ世界』(講談社学術文庫)『災害文化史の研究』(高志書院)『山に生きる―山村史の多様性を求めて』(岩田書院)など多数。
この著者はかつて私が武田信玄に、はまった時期に読みまくった著者である。
「生活者の視点」からの「地方においての戦国時代」、とも云うべき数々の名著を書き上げている。
いったん、いくさが起きればどのように周辺の住民に影響が及ぶかに常に重きをおいて書かれてある。素晴らしい著者である。
本屋で久々に見かけたので買い求めてみた。
かつてどこかで読んだものばかりで新鮮さはなかったが、一つだけ、御伽草子の例の「ものぐさ太郎」と、戦国時代の風習、乱取りについて書かれてある所は記憶に残った。
ものぐさ太郎は、戦国時代(室町時代、南北朝時代には存在したようだ)の「解死人 げしにん」の風習を伝えるものとして貴重だということは知ってはいたが、話の導入に戦国の遺風、乱取りが組み込まれていることに驚いた。
乱妨取り(らんぼうどり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて、戦いの後で兵士が人や物を掠奪した行為。一般には、これを略して乱取り(らんどり・乱取・乱捕と呼称された。
概説
当時の軍隊における兵士は農民が多く、食料の配給や戦地での掠奪目的の自主的参加が見られた。人身売買目的での誘拐は「人取り」と呼ばれた。
兵農分離を行い、足軽に俸禄をもって経済的報酬を与えていた織田信長、豊臣秀吉などは「乱暴取り」を取り締まり、「一銭切り」といった厳罰によって徹底させることが可能であった。
ただ、このものぐさ太郎の場合、通りがかった見目好き女性を勝手に手籠めにするというのだから驚きだ。
後年、こういうことは、厳しく禁じられてゆく。それは当たり前だ。
2023-04-08
解死人の風景 : 差別があたりまえだったころ 石瀧豊美 著 イシタキ人権学研究所 2003年 「身代わりの作法」と共同体 八兵衛地蔵に思う
元禄7年(1694年)、年の瀬のこと、福岡の町で、一人の浪人が身代わりに立ち、罪をかぶって処刑された。
男の名は、森八兵衛。肥後の国出身の浪人だった。
福岡の須崎で火事場の喧嘩から、唐人町の火消しが他町の火消し3人を殺すという事件が起きた。相手の町は報復の気構えで武装を解こうとしない。
福岡の町中が緊迫した空気に包まれた。
その時、名乗り出たのが、肥後浪人・森八兵衛だった。
町の人たちの困窮を見かねて進んで身代わりに立つ八兵衛。
その八兵衛に、唐人町では永代供養を誓って感謝した。
これが唐人町に今も残る八兵衛地蔵の由来である。
被害者が火消し3人というところからすれば、加害者は複数とみるのが自然だろう。
ところが処刑されたのは一人、しかも「身代わり」であった。こう見てくると、法の執行の目的は「加害者の処罰」にはないことがわかる。
むしろ唐人町全体から一人の人間(まさしくスケープゴートであろう)を差し出すことが求められたのである。
戦国の作法―村の紛争解決 1987藤木 久志 (著)によれば、
そういう場合、村があらかじめ扶養している乞食が差し出される場合が多かったという。
中世の説話「ものぐさ太郎」について、藤木氏は「村のために犠牲となるような存在を、日常的に村として扶養していたという、中世の村の生きた現実のうえに成立していた可能性が大きい」と指摘している。
いわゆる「解死人げしにん」の風習である。
「ものぐさ太郎」は、竹を4本立て、その上に「こも」をかけただけの小屋に住んでいて、日頃は村人の施しによって生きていた。
ところがある日、都から夫役(労力の提供)がかけられた時、当然のように「ものぐさ太郎」が都に上ることになる。
施しを受けることと、共同体の犠牲になることとが、表裏一体のものと考えられているのである。
目 次
まえがき
■近世編 差別する側のまなざし
1 人間観拡大の歴史としての部落史
コラム① 吉田松陰の平等観
2 「身代わりの作法」と共同体―八兵衛地蔵に思う
コラム② 八兵衛地蔵の伝説
3 再び「身代わり」と共同体について―なぜ浪人が選ばれたか
4 親孝行と「身代わり」―薄れゆく共同体の原理
コラム③ 身代わりと人柱
5 坊主頭と「欠入り」―「正房日記」の世界/処刑を避ける知恵
6 戦国武将と「走入り」―「髪そり、墨衣着して」/「駈込み」に通じる降伏儀礼
7 アジールとしての寺院―博多の虚無僧寺・一朝軒/武士が相次ぎ「駈込み」
8 剃髪の意味するもの―制外と「無縁」の原理
9 髪を切る―漂流者の「作法」
コラム④ ヤマトタケルとオトタチバナ
10 「お救い」が語るもの―なぜ長髪は忌避されたのか
11 福岡の門の話―髪結は番屋に住む?
12 帰ってきた男―福岡藩と陰陽師/身分観念の再考促す
13 「山論」の作法―儀式としての「鎌取り」/百姓身分を象徴
14 牛馬に判決を読み聞かせた話―人間-動物、関係性を問い直す
15 職能集団としての乞食―北京-江戸、時空越え類似性
表紙解説 「福岡藩の身分」
16 「士農工商」というまぼろし
コラム⑤ 非人は人外之者
17 「七分の一命事件」の現在
コラム⑥ 五木の子守歌
石瀧豊美(いしたき・とよみ)
1949年,福岡市に生まれる。大学は物理学科で,独学で歴史研究の道に入る。イシタキ人権学研究所所長,福岡地方史研究会会長,福岡県地方史研究連絡協議会(福史連)副会長,(社)福岡県人権研究所理事,福岡教育大学非常勤講師。明治維新史学会,教育史学会,軍事史学会に所属。
bak********さん
2006/12/26 11:15
1回答
解死人
歴史のことなんですけど、南北朝時代にあった解死人ってなんですか?
ベストアンサー
ben********さん
2006/12/26 11:24(編集あり)
解死人とは殺人者の身代わりのことです。
解死人制(げしにんせい):加害者側の集団から被害者の集団に対して、「解死人(下死人・下手人)」と呼ばれる謝罪の意を表す人間を差し出すという紛争解決慣行。
解死人には本来手を下した犯人がなるべきもので、それを被害者側に送り、その人物の処刑を被害者側に委ねるという意味をもっていた。犯人その人ではなく、その集団に属する人間なら誰でも身代わりになってもよいというのが一般的な通念だった。
引き渡された側は、その解死人を処刑はせず原則的には解死人の顔を見ただけで返し、名誉心を満たしていたようだ。