まさにタイトル通り。インドのパル判事に次ぐ東京裁判判事団の叛乱である。
ただパル判事の場合は被告全員無罪であったものがレーリングの場合はかなり違う。
ぶつかる国益 判事たちの熱き闘い
極東国際軍事裁判(東京裁判)判事団の中で、誰よりも日本を探訪し友を作り、
日本人を理解しようとしたオランダ判事ベルト・レーリンク。
2年9カ月の東京滞在で綴った日記と70通の書簡から見えてくる
「戦争犯罪とは何か」――。
多数派の判事の判決の要旨を見るにつけ、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱くようになった。
これは極秘の話ですが、この判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容です。
1948年7月6日。友人の外交官への手紙より
とニュルンベルク裁判での判決を東京裁判に強引に当てはめようとする判事たちへの反発が書かれている。
レーリンクは、当時の国際法から見て「平和に対する罪」によって死刑を適用すべきではないと主張した。他にも、
1東京裁判の管轄権は太平洋戦争に限定すべきである。
2共同謀議の認定方法には異議がある。
1についてはソビエトロシア連邦が厚かましくも解決済みの張鼓峰事件、ノモンハン事件を加えるよう要求。
真っ赤な侵略戦争である自分の対フィンランド戦争1939には頬かむり。
我々は日本にいる間、東京や横浜をはじめとする都市に対する爆撃によって、市民を大量に焼殺したことが、念頭から離れなかった。
我々は戦争法規を擁護する為に裁判をしている筈だったのに、連合国が戦争法規を徹底的に踏みにじった事を、毎日見せつけられていたのだから、
それは酷いものだった。勿論、勝者と敗者を一緒に裁く事は不可能だった。
東條が「東京裁判は勝者による復警劇だ」と言ったのは、まさに正しかった。
事後法で罪を裁く事は出来ない事を前提として、
国際裁判所が、正義に基づいて処罰を加える事を求められているにも関わらず、自ら正義の法理を適用しているか否かを審査する機能や義務さえ与えられないで、
単に戦勝国の最高司令官の定めた法規を適用しなければならない。
かようなことを本裁判所が認めるとすれば、それは国際法の為に、このうえなく有害な事をした事になるであろう。
とも述べ、裁判そのものを強く批判している。
また、同じく晩年に応えたインタビューの中では、日本とドイツが戦争を開始した理由の違いについて触れ、
手続き上にも問題がいくつかあり、不公平な点がありました。
一例をあげると、中国における共産主義の脅威があった事を立証する機会を与えてほしい、との求めが被告側から出されました。
そうした脅威があった為に、日本は行動を起こしたと立証しようとしたのです。
ドイツの場合は、ヨーロッパ大陸での大国になろうとして戦争に突入していったのですが、日本は、これとは違います。
結局、裁判では、立証の機会は認められませんでしたが、アンフェアだったと思っています。
日中戦争が始まった年である1937年10月、当時のローマ法王で平和主義者として知られる
ピオ11世(在位1922-39)がこの日本の行動に理解を示し、全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼びかけています。
法王は、「日本の行動は、侵略ではない。日本は中国を守ろうとしているのである。
日本は共産主義を排除するために戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、
信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ」といった内容の声明を出しました。
この声明は当時の日本でも報道されました(「東京朝日新聞」夕刊、昭和12年10月16日および17日)@@@@@@@@@@@@@
もっともっと取り上げられていい人物だと思う。本書がもっと広まることを祈る。
併せて読みたい
レーリンク判事の東京裁判―歴史的証言と展望 1996/B.V.A. レーリンク (著), A. カッセーゼ (著), B.V.A. R¨oling (原名), Antonio Cassese (原名), 小菅 信子 (翻訳)