畿内ではありえぬ「邪馬台国」 関川尚功京都講演 私に言わせれば、これこそが邪馬台国論争の終末点。邪馬台国畿内説の学者は、頭がわるいとしか思えない…

どきどき古代史

 

最新研究!AIと3D地図で解明する古代日本…邪馬台国の場所と神武東征の謎


古代ずんだミステリー チャンネル登録者数 13.8万人

6.8万回視聴 3 週間前 ✪ メンバー優先 なぜ邪馬台国は見つからないのか?
最新研究のAIと3D地図で調べ直したら邪馬台国の場所はここだった!
そして神武天皇の謎まで解明した!
暴かれた神武東征の史実とは一体…!? …

 

ヤマトという地名も北部九州から移った

考古学者・森浩一、最後のインタビュー(足立倫行「倭人伝、古事記の正体」2012)

 

伊都国の平原古墓は、すべての銅鏡が破砕して墓に埋納されていたことで有名ですが
奈良県桜井市の前期の外山茶臼山古墳でも、2009年の再調査で、実に81面の
銅鏡が埋納され、ことごとく破片だったことがわかりました、2つの墓は
100年ほど年代が隔たっていますが、弥生時代の近畿には墓へ銅鏡を入れる風習も、
その銅鏡を割る風習もなかったことを考えると、北部九州の強い影響は明らかです

また「魏志倭人伝」では、中国人が倭地の朱や丹に関心を持っていたことが記されていますが、伊都国の平原古墓や井原鑓溝古墓では棺の中に大量の朱が使われました

近畿でも、前期の前方後円墳では遺骸の周囲に朱を撒くことが知られており、
奈良天理市の大和天神山古墳では約40キロもの朱がキビツに埋納されていた
これなども、北部九州からの風習の伝播でしょうね

そもそも、ヤマトという地域名、いずれ国名になる名称自体が北部九州からの東遷の結果です

 

↑関西人なのに、この認識! ただただ、立派というほかない。

 

奈良と福岡に共通する地名の謎|邪馬台国と大和王権の関係は?出雲にも似た地名


古代ずんだミステリー チャンネル登録者数 13.8万人

8.7万回視聴 5 か月前 ✪ メンバー優先 なぜ邪馬台国は見つからないのか?

なんだってーっ!?
福岡と奈良に同じ名前の地名がたくさんあるってどゆこと?
しかも地名の位置関係までそっくりだとか… …
273 件のコメント
.

@bobcat-v2p
1 日前
邪馬台国かどうかは置いておいて、九州から東への移動はあったのでしょうね。
神武東征の話に繋がっているのかなと。

@norisenbei4165
3 日前
北部九州→奈良の移動はありうるけど、奈良→北部九州はおよそ考えにくい。
なので、邪馬台国はやはり北部九州。

@ジントニック-l6v
12 日前(編集済み)
自分は邪馬台国は九州説です。
九州から奈良に移動したなら鉄器の数が少なすぎる?
普通便利なものがあったら持っていきますよね?
自分の考えとしては、奈良から九州に移動してその後も交流があったから奈良にも少量の鉄器があったのでは?

↑書き込みも、みな短いながら素晴らしいものばかり !!

 

古墳私疑: アマにはアマの視点・疑問がある 2001/11/1井戸 清一 (著)浪速社 いったいどこの誰がこのような僻地に、このような壮大な古墳を築いたのか?

古墳私疑: アマにはアマの視点・疑問がある 2001/11/1井戸 清一 (著)浪速社 いったいどこの誰がこのような僻地に、このような壮大な古墳を築いたのか?
古墳私疑: アマにはアマの視点・疑問がある 2001/11/1井戸 清一 (著)浪速社 いったいどこの誰がこのような僻地に、このような壮大な古墳を築いたのか?

 

移住した人たちが出身地の地名を新しい地名につけるのは、古今東西かわらぬ人情である。

いま由緒ある地名が失われてゆくが、もともと地名は長く伝承される傾向が強い。

三氏の指摘に対して(地理学者・鏡味完治1964年、安本美典、考古学者・奥野正男)、歯切れのいい反論は寡聞にして知らない。あるいは論争に巻き込まれないよう無視を続ける賢明な策を選んでいるのかもしれない。 39ページ

 

 

畿内ではではありえぬ「邪馬台国」 関川尚功京都講演

https://youtu.be/J9EOgSUrPUU?si=d4SHIDFmecW_ZISD
古田史学会講演 チャンネル登録者数 327人

8,555回視聴 2025/04/09 キャンパスプラザ京都 (京都市大学のまち交流センター)
チャプター設置(1:09:46) 「魏と卑弥呼」は、クリックしてください
02:36 奈良盆地の遺跡
08 :24 唐古・鍵遺跡
09:13 奈良の銅鐸
12:03 清水風遺跡出土の前漢鏡の外縁部〔右)
12:55 大阪平野出土銅鏡 弥生・古墳
16:11 弥生時代の九州(立岩遺跡の甕棺と鏡)
18:06 銅鐸の変遷と分布
21:16 各地から唐子・鍵遺跡へ運ばれてきた土器
22:54 纏向遺跡と銅鐸片
28:40 纏向遺跡と出土鉄器製造関連遺物 鞴 砥石
29:48 九州博多遺跡群出土鉄製造関連遺物 ふいご
31:09 弥生時代後期後半(2世紀)
32:12 吉武高木遺跡(福岡市西区)立岩遺跡(飯塚市)
33:52 盾築墳丘墓(岡山県倉敷市)
34:41 西谷墳墓群 (島根県出雲市)
36:14 平原1号墳と出土銅鏡(福岡県糸島市 弥生後期)
37:39 平原一号墓出土銅鏡と下池山古墳出土銅鏡
38:23 新山古墳(馬見古墳群 奈良県広陵町)と出土物
42:35 桜井茶臼山古墳(奈良県桜井市)
46:02 箸墓古墳
47:55 ホケノ山古墳(奈良県桜井市)
48:18 黒塚古墳出土鏡(天理市)
52:52 三角縁神獣鏡はどうやってできたか
(伝富雄丸山古墳出土鏡)
54:08 安満宮山古墳出土の三角縁神獣鏡
54:30 画文帯神獣鏡について
56:37 「青龍三年」鏡(安満宮山古墳)
57:47 三角縁神獣鏡(安満宮山古墳)
58:05 黒塚古墳出土鏡より
1:02:56 纒向と日本書紀
1:06:38 伊都国と奴国
1:09:46 魏と卑弥呼

新春古代史講演会
キャンバスプラザ京都 4階第4講義室
第二部新春講座 畿内に邪馬台国はなかった
畿内ではありえぬ「邪馬台国」―考古学から見た邪馬台国大和説―関川尚功
令和7年(2025)1月19日(日)
キャンバスプラザ京都4階第4講義室

参照PDFyamataino241027.pdf
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/m…

【第二部】新春講座
ヤマトを発掘して40年 考古学者が語る衝撃の真実
畿内に邪馬台国はなかった

百済の古墳と『倭の五王」』
正木裕(元大阪府立大学理事・講師)
• 百済の古墳と倭の五王 正木裕

• 畿内ではありえぬ「邪馬台国」 関川尚功京都講演
• (49)「考古学から見た邪馬台国」 帝塚山大学考古学研究所 動画de市民大学講座(考…
• (106)「馬見古墳群と葛城の天皇陵」(考古学)第495回
• 考古学はなぜ「邪馬台国」を見失ったのか 古賀達也
• 邪馬台国関川尚功講演

 

↑1時間13分、飛ばしなしで見入ってしまった。私に言わせれば、これこそが邪馬台国論争の終末点。最終結論!

 

@拝志千航
2 か月前
発掘の実績から時間軸を照らし合わせる、又、他地域との比較研究、この事は「学問」として重いです、、。

@yanbo397
2 か月前
久しぶりに訪れ講演内容を見返しました。今まで発掘された資料を元に、畿内には邪馬台国は無いと論じ見事です。

これに対し発掘資料を元にした反論は全く無く、畿内説の方は具体的根拠を挙げてから反論すべきでしょう。

講演で三角縁神獣鏡について、これは魏や邪馬台国の物ではない理由説明が有りました。まだ畿内説を唱える人に三角縁神獣鏡を根拠に挙げる人がいるとは驚きであり呆れています。卑弥呼へ送られた魏の100枚の鏡が知られていますが、
三角縁神獣鏡はすでに600枚以上が見つかっており話に合いません。肝心の中国の考古学者全員も魏にはこんな鏡は無いと一致しています。それに反し中国の考古学者がこれは間違いないと証明したのが、大分(日田)で発掘された鏡です。

魏の英雄(曹操)の墓に供えられた貴重な鏡、これと同一のものが発見され、曹操の墓の発掘学者が確認しています。

なぜこれが日本に有るのか話題になり、卑弥呼の死後に邪馬台国に贈られたのではとの話もあります。

このように倭人伝記述ソックリの環濠集落発見、鉄器や養蚕の発掘、伊都国(糸島市)での船済み品確認場所、倭寇大乱の痕跡、すべてが九州説を示しています。

畿内説の根拠は何が残っていますか? 今一度講演会の内容を良く読み、考えてください。

若い人は知らないでしょうが、吉野ケ里遺跡が発見され発掘調査が進んだのは、畿内のある考古学者とA新聞社の力添えがあったおかげと聞いています。当時畿内説優勢だったのが、本物の学者魂を持った考古学者のおかげで九州説に大きく傾きました。畿内には考古学者の権力者がおり反論が難しい状況でしたが、今も昔も本当の学問を追及する学者はいます。誤った情報を地域エゴや権力者エゴで捏造しないよう願います。

 

これはすごい証言です。これこそが邪馬台国論争をおかしな方向に導き、史実を歪めている根源ではありませんか。

関川氏が「邪馬台国は畿内ではありえない」と口を開かれたことは画期的ですが、それは本丸の手前です。本丸は「なぜ橿考研の纒向遺跡の研究者が、内心では邪馬台国が畿内ではありえないと考えながら、それを発言したり本に書いたりできなかったのか」です。関川氏には、在職中に歴史が歪められるのを黙って見過ごした歴史に対する贖罪として、それを徹底的に明らかにして頂きたいものです。

 

@青空エールdsk21
1 年前
阿蘇山ないのに畿内説は流石に無理あるわ

先日と同じものの再アップ???
あくまで 反畿内説の立場からの解説なので、またコメントが荒れそうな… w

 

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④ 1933(昭和8)年、大分県日田市から出土した、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさく、がんしゅりゅうもん、てっきょう)について

封印された邪馬台国 沈黙する女王の鏡―いま大分・日田に蘇る卑弥呼の悲劇 (プレイブックス) 新書 2000/青春出版社 関 裕二 (著)

 

千数百年の時空を越えて、一枚の鏡が目を覚ます。

しかも、これまでみたことも聞いたこともない金・銀・石英・瑪瑙で装飾された、
みごとな鉄鏡だ。それが大分県日田市出土の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡で、
卑弥呼の時代に日本にもたらされた後漢王家の至宝であった疑いが強い。

 

それにしても、なぜ「邪馬台国論争」はこの鏡を避けてきたのだろう。

大分県日田市出土の金銀錯嵌珠竜文鉄鏡。卑弥呼の時代に日本にもたらされた後漢王家の至宝である疑いが強いにもかかわらず、国立博物館に封印され「邪馬台国論争」から避けられていたのはなぜか?

また、邪馬台国九州説の根拠ともされ、一般に受け入れられている説ではないが、邪馬台国の卑弥呼または台与の所持品であるとする説や、この鏡が八咫鏡であるとする説もある。

曹操墓出土の鉄鏡との酷似が判明したことを踏まえて、近年、魏の皇帝から卑弥呼に下賜された鏡の1枚である可能性が改めて指摘されている。

 

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200103-03472520-saga-l41

 

潘氏は、九州国立博物館でダンワラ古墳出土鉄鏡を確認した上で

「金錯や銀錯が施される鏡は王宮関係に限られる。

この鏡は国宝級の貴重なものであり、公式なルートで日本に伝わったと考えられる」と述べた。

「魏志倭人伝」は、景初3(239)年に卑弥呼の使いが魏の皇帝から「銅鏡百枚」を下賜されたと記している。

 

ダンワラ古墳の鏡は鉄製だが、潘氏は「倭人伝が『銅鏡』と表現したのは、鏡の総称として用いたのだろう。
そこに鉄鏡が含まれても不自然ではない」と解説した。

「魏の側からすれば、最高の品質の鉄鏡を贈ることで、倭に工業技術の高さを示そうとしたのだろう」と推測する。

潘氏は、九州国立博物館で開催中の特別展「三国志」のために来日し、
九州大学、東京国立博物館、九州国立博物館の研究者らとともに、
ダンワラ古墳出土鉄鏡と、曹操墓出土鉄鏡の共通点などを議論した。

二つの鉄鏡も直径が21センチと同一で、曹操墓の鉄鏡もX線調査の結果、金錯が確認できた。
研究者らは「いずれも2~3世紀の中国において『御物』など最高級に位置付けられる
貴重な鏡である」という見方で一致した。

用語解説

金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)
1933(昭和8)年に鉄道の線路工事で見つかったとされ、出土状況の確実な情報はない。
考古学者の梅原末治氏が63年に発表、64年に国重文に指定された。

金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさく がんしゅ りゅうもん てっきょうは、大分県日田市日高町にあったダンワラ古墳から出土した弥生時代中期の鉄鏡。国の重要文化財に指定されている。金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡、金銀錯嵌珠龍文鏡とも呼ばれる。

 

金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(重要文化財、東京国立博物館所蔵)

 

 



ところで、こういう隠れた名著がある。

 

神話と考古学の間 末永雅雄, 三品彰英, 横田健一著 創元古代史選書3 創元社 1973

対談集である。高い見識をもつ3人の歴史家による、リラックスした対談集である。

さすがに、末永雅雄氏は森浩一先生の恩師だけあって鋭いことばかり言ってる。

いわゆる、騎馬民族説に関して、和歌山県大谷古墳から出土した馬鎧の形状から、中型馬ではないか予測しているところとか、三品彰英氏については、私の古本屋を狩猟してきた歴史の中でも、最大の収穫、三品彰英全集(平凡社刊)を、なんと1冊500円で手に入れた経験が大きい。

「新羅花郎の研究」とか「建国神話の諸問題」などはいま読んでも十分刺激的だ。

そんな、大好きで尊敬もしている三品彰英先生だが、この人、邪馬台国畿内説に立っている。

 

三品  104ページ

わたしは「魏志倭人伝」については、数字にしろ方角にしろ、メイキングというか、修正をすればするほど、それだけ主観性が強くてダメだ、なるべく修正をせずにあのままで、資料に忠実に解釈しなくてはならんと言っているのです。

 

↑この発言、皆さんはどう思われるでしょうか??

私はといえば、口あんぐりであって、そっくりそのまま邪馬台国畿内説派に返したい言葉だ。

そもそも、邪馬台国畿内説というのはさいしょから間違ってる。方角のこと…

それに、小林行雄のインチキ学説を混ぜ込んで出来上がってる、インチキのなかでも特段、インチキ性の高いものである。

 

埋もれた銅鐸 (1970年) (紀伊国屋新書) 1970/ 森 秀人 (著) 人口500万未満だった日本列島、その400年の間に20万!! これを異常と思わない不思議…

埋もれた銅鐸 (1970年) (紀伊国屋新書) 1970/ 森 秀人 (著) 人口500万未満だった日本列島、その400年の間に20万!! これを異常と思わない不思議…
埋もれた銅鐸 (1970年) (紀伊国屋新書) 1970/ 森 秀人 (著) 人口500万未満だった日本列島、その400年の間に20万!! これを異常と思わない不思議…

 

 

言うまでもなく、小林行雄のこうした文章の詭弁は、苦しい言い逃れであり、学者として恥ずべき欺瞞である。

それでは、なぜこんな珍妙な(小林行雄の)伝世鏡説ができたのかといえば、

ヤマタイ国 畿内 自生論者の小林行雄にとっては、北九州の弥生墳墓からは前漢時代の古式の銅鏡がたくさん出るのに、

畿内のそれから出てこないことは、畿内文化が鏡と縁がなくなってしまうからであり、そのために畿内の弥生人だけは、銅鏡を尊重するあまり伝世し、子孫に伝えたと主張したのである。

 

↑邪馬台国畿内説の根幹ともいえる小林行雄氏の説が、いかに詭弁に満ち満ちたものであるか明白であろう。こういう森秀人氏のような、まっとうな論がかき消されている !!

 

 

魏志倭人伝に帰れ、と言いたい。

邪馬台国畿内説のダメダメな点は、魏志倭人伝から遠ざかり、魏志倭人伝には何の記載もない土器の年代認定に「堕して」しまっているところ…

 

おしまいに、ちょっと唐突だが、古墳が造られはじめた奈良盆地に、東側に古墳が集中している謎に答えたい…

それは、「…古代シナが怖かった」からである。だから、東側に集中している。

西側に造ろうと思えば造れたものを、敢えて東側に集中してるのはこれが理由だ。

後年、馬見丘陵とか西側に巨大古墳が造られたのは、もうシナが攻め込んでこないと安心したからである。

 

八王子という町が、江戸の防御のために造られた。

だから、武田信玄の家臣たちを召し抱えて、八王子千人同心というものを作り八王子に配置した。

徳川家康に限ったことではなく、絶えず攻め込むこと、攻められること考えていた彼らが年がら年中考えていたことだ。

 

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YouTubeには色々と不満がある(特にちょうせんじん関係のコメント削除)がこういうものを無料で見られるというのは感謝感謝だ……畿内ではありえぬ「邪馬台国」 — 考古学から見た邪馬台国大和説 関川尚功

YouTubeには色々と不満がある(特にちょうせんじん関係のコメント削除)がこういうものを無料で見られるというのは感謝感謝だ……畿内ではありえぬ「邪馬台国」 -- 考古学から見た邪馬台国大和説 関川尚功
YouTubeには色々と不満がある(特にちょうせんじん関係のコメント削除)がこういうものを無料で見られるというのは感謝感謝だ……畿内ではありえぬ「邪馬台国」 -- 考古学から見た邪馬台国大和説 関川尚功

 

九州王朝論者からみた、纒向学からの発信~纒向遺跡から14人のメッセージ 2023/3/4桜井市纒向学研究センター (編集)

九州王朝論者からみた、纒向学からの発信~纒向遺跡から14人のメッセージ 2023/3/4桜井市纒向学研究センター (編集)
九州王朝論者からみた、纒向学からの発信~纒向遺跡から14人のメッセージ 2023/3/4桜井市纒向学研究センター (編集)

 

まず、何よりも邪馬台国畿内説論者たちがダメダメなのは、その狗奴国の場所の比定についてである。

3世紀(弥生時代末期から古墳時代初期)の倭国で邪馬台国の尽きるところである南に位置する。

3世紀(弥生時代末期から古墳時代初期)の倭国で邪馬台国の尽きるところである南に位置する。

該当部分の原文

「此女王境界所盡 其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王」

読み下し文

「これ女王の境界の尽きるところ。その南に狗奴国あり、男子を王となす。その官に狗古智卑狗(くこちひこ)あり、女王に属せず」

(其  ← 地続きの南に位置している!

 

魏志倭人伝には「女王国の東の海を越えるとまた倭種の国」とある。

畿内説だとこの部分が全く説明がつかない。畿内説では琵琶湖を無理やり「東の海」としているようだが・・・

 

さらに言えば、>參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里(魏志倭人伝)

一周が5千里(約400km)余りの島だってんだから、九州島以外にはあり得んだろ、近畿説とか頭おかしい…

 

『魏志倭人伝』には、倭人は、「鉄の鏃(やじり)」を使うと記されている。

「鉄の鏃」は、福岡県から398個出土している。 奈良県からは、わずか4個しか出土していない。

圧倒的な差がある。

 

それでも、『魏志倭人伝』に、なんの記載もない「土器」の話などをもちだし、複雑な理論構成をして、「邪馬台国は、畿内説できまりだ。」などと主張する考古学者がいる。科学に必要な簡明さにおよそ欠けている。

いかなる矛盾にも目をつむってよいのであれば、どんな議論でもなりたつ。

 

数々の状況証拠からして、現・熊本県以外ありえないのに、邪馬台国畿内説論者たちは、尾張にあったとか、三重県にあったとか言ってる。

まず、この段階で読む気をなくすが、我慢して読み進めるが、邪馬台国畿内説は相変わらずダメダメである。

 

あと、それからこの問題で一番無視できないのは地名遷移のことだ。

【邪馬台国】奈良と福岡の地名が酷似している理由【朝倉市】【桜井市】

 

松本清張の推理小説「鴎外の婢」から、「神代帝都考」(狭間偉三)豊前に邪馬台国があったとする明治時代に出版された書物・を引用している部分。

 

『近畿地方に成立した古代王朝の前身が、その東遷以前に、北九州の部族連合体であったことは、三世紀半に編纂された三国史東夷伝倭人の条の記事を見ても明らかである。

(中略)記紀には人名にも地名にもトヨの字が多く出てくるが、魏志倭人伝の「台与」がその音を写したものとすれば、後代に「豊」の漢字をあてはめた地名は北九州にずっと以前からあったものとみなければならない。

ツクシが奈良朝期にできた九州の広い呼び名で、豊の国がその中の狭い地域の呼び名であったことから、豊のほうが古い名であり、大化後の行政区画である豊前豊後のうち、豊前がその原体である。

それも豊前平野を占める京都郡(旧仲津郡を含む)が中心であったことは、従来史家のいずれも認めるところである。(後略)』

 

「海柘榴市は大和磯城郡(今の三輪町付近)にもある。

これが豊前の地名の東漸であることは、ツバキ市に関連する古地名が長門、周防、阿波、因幡、伊勢の経路に分布していることでも知られる。

地名の移動が民族の移動に付随することは、アメリカにおけるイングランド移住民の故郷地名の例をまつまでもない。

また、大和の海柘榴市がその地名の本来の由来を喪失していることは、日本紀略、枕草子に地名しか載せていないことでも分り、これも豊前の うたがきがはるかに古い証である。」

 

あの唐古・鍵遺跡で、最終的に9重の環濠が掘られたというのに、時代の遅れる、わずか4キロしか離れていない纏向遺跡に環濠がない!!

この事実こそが、最重要である。

 

3世紀、4世紀の奈良盆地、そこは金剛山地に阻まれた、敵からの攻撃を避けうるフロンティアだった。

蘇我、物部、平群、大伴、巨勢、これらの氏族はほとんど九州からこのフロンティアに到達した。

それから、明らかにシナの「威信」を借りて、鏡が日本で作られ、九州を真似て、畿内の古墳にたくさん配られたのである。

 

大部分、九州からやってきたという事実を偽り、てんでんバラバラに、お互いにけん制しながら奈良盆地を開拓し、そこに古墳をつくりはじめた。

それこそが、いわゆるヤマト政権の原初であろう。

 

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