盗用された二大国家の史書
「崇神」「応神」「仁徳」「雄略」「倭の五王」…狗奴国と邪馬壹国の歴史を発掘する。
狗奴国の中心地は、鳥取県西部。邪馬壹国のそれは、太宰府。
この二大国家の存在が明らかになったことから、『記紀』の主張する「大和朝廷」の屋台骨がぐらつき始めた。
狗奴国の史書をこっそりと活用することにより、仁徳・雄略など「大和朝廷」の歴代天皇が作り出されていた。他方、邪馬壹国の史書はほとんど処分されている。
だが、真実を消し去ることはできない。その真実が、今ここによみがえってきた。古代通史第三弾。
《著者紹介》
河村日下(かわむら・くさか)(筆名)
1946(昭和21)年7月、鳥取県倉吉市に生まれる。本名、福井秀明。
37歳で、改めて日本古代史に興味を持ち、サービス業に従事しながら、その謎解きを始める。
2005(平成17)年、58歳で仕事を辞め、古代の謎解きと『万葉集』の解読に専念。現在に至る。
古代、生まれ故郷が「伯耆国河村郡日下郷(かわむらこほりくさかのさと)」(『和名抄』)であったことから、これを筆名とした。「河村」「日下」、いずれの地名も、すでに消滅している。
京都にあるミネルヴァ書房というのがずっと気になっている。
この出版社、なかなかいい本を出版している。
私も気が付いたらけっこう取り上げさせてもらってる。
しかも、この出版社、古田武彦先生の全集まで出していて、九州王朝絡みの出版物が多い。
現在の日本の出版業界にあっては奇特な会社だといえる。
「福沢諭吉」とは誰か:先祖考から社説真偽判定まで (MINERVA歴史・文化ライブラリー) 2017/平山 洋 (著)ミネルヴァ書房 福沢諭吉「脱亜論」と、ちょうせんじん生活保護 「迫りくる難民7500万人発生の恐怖…」

金沢庄三郎: 地と民と語とは相分つべからず 石川遼子 ミネルヴァ書房, 2014/07/10 あの「日鮮同祖論」(1929年・昭和4年)の著者の96年に及ぶ人生の初の評伝。素晴らしいです。

河村日下(かわむら・くさか)という人物が書いた、全4巻にも及ぶ日本古代史本を書店で見かけた方も多いだろう。
結論からいうと、狗奴国の中心地は、鳥取県西部という河村氏の説…
私自身、鳥取県に行って検分していないという所も大きいが、狗奴国中心地が、鳥取県西部という説には同意できない。
ただ、この著者、私と同様な古田武彦信者であるところから、全4巻の中に、同意・共感できる部分が多い。
いくつか、ピックアップしたい。
石上神宮(奈良県天理市)を、なぜ、いそのかみと読むのか?
ずっと疑問に思っていた。 物部氏の武器庫であると伝えられている。
村山健治という人物が、かつて九州にいた。
誰にも書けなかった邪馬台国 村山 健治/著 佼成出版社 1978.01

村山健治
大正4(1915)年3月30日、福岡県山門郡瀬高町に生まれ。旧制八女中学校卒。
西日本鉄道、銀行に勤めるかたわら、郷土史に取り組む。
その間、発掘した遺跡50ケ所。古墳100け所。地質調査400ケ所。
発掘した遺物二万点、集めた古文書800冊にのぼる。
九州考古学会会員。瀬高町文化財専門委員。郷土史家。
昭和63(1988)年死去(享年73歳)

↑この本を読むと、とにかく狭いエリアに遺跡だらけなのに驚かされる。
しかも、旧石器時代から、縄文、弥生、そして古墳時代まで、とにかく遺跡だらけの町である。
村山の功績は、もう一つある。
それは、久留米市高良神社所蔵、「天慶神名帳」(筑後の国の6位以上の神名の記録。941~944年に編纂)による山門郡内における「磯上物部神 いそのかみ もののべのかみ」の発見だ。
「イソノカミ」を漢字表記すれば、通例、「磯上」となる。断じて、「石上」ではない。
それなのにどうして、石上を「イソノカミ」と読むようになったのか?
この解明は、また奈良県天理市の「石上神宮」の出自の解明とも連動している。
中略
その漢字表記は「磯上」だ、それに、筑紫の地名「イソノカミ」の音をあてて、デッチ上げていたのである。
第7章 実在した九州王朝 328ページ
たとえば、こういう好著がある。

古墳の被葬者を推理する (中公叢書) 2018/白石 太一郎 (著)
長年にわたって日本考古学をリードしてきた著者による、古墳の被葬者をめぐる論考8篇を集成する。
取り上げられる古墳は、箸墓古墳、誉田御廟山古墳、西殿塚古墳と西山塚古墳、五条野丸山古墳、植山古墳と山田高塚古墳、牽牛子塚古墳と岩屋山古墳ほか。
そもそも、墓誌がない!!という東アジアでも特異な我が国の古墳群…
誰の墓だかまったく分からないというのも、見方を変えれば異常であろう。
誰の墓であるかを該博な考古学的知見のうえに、探究している素晴らしい本だ。
なかでも、ここで取り上げたいのは 第7章 古墳からみた物部氏
物部氏が祭祀を担当していたとされる石上神宮のある大和の山辺群域には、5世紀後半から6世紀後半にかけての大型の前方後円墳をいくつか見出すことができる。ただ、それはその古墳の営まれている地が物部氏の本拠地に他ならないことを文献史学的に厳密に実証できるわけではなく、多分に状況証拠による推測の域を出るものではない。
中略
このような観点から、本章では5世紀後半から6世紀後半にかけての物部氏の族長墓について、考古学の立場から検討を加えてみようとするものである。
推測に推測を重ねる、学問的には問題のある考察であることは、筆者自身がよく承知している。
と、著者は謙遜するが30ページに及ぶその論考は精緻であり、いろいろ教えられるところが多かった。
ただ、当たり前といえば当たり前だが、九州と物部氏のかかわりについては言及がなかった。


2018/11/30(金) 七支刀と「こうやの宮」の人形 その1
福岡県みやま市瀬高町太神(おおが)(旧山門郡瀬高町太神)の「こうやの宮」にある五神体のうち一体は、石上神宮の七支刀(しちしとう)と同じ形状の刀を手に持っています。
両方ともに中心となる刀身から6つの刃が左右交互に枝のように出ています。これは、その特異な形状から誰もが同一のものであることを認めるところでしょう。
しかし、なぜ、西に有明海を望む福岡県の太神(おおが)に位置する小さな神社の人形が、そこから遠く離れた奈良県天理市の石上神宮にある七支刀を持っているのかは、意見の分かれるところです。
石上神宮は、物部氏の神宮であり、「こうやの宮」は、高良神社所蔵の天慶神名帳の礒上物部神(いそのかみもののべのかみ)の神社、すなわち磯上物部神社であることから、ともに「いそのかみ」で物部氏に関連する神社という点が共通項です。
したがって、地方から中央へ上納するように、九州の磯上物部神社にあった七支刀を、近畿の石上神宮に奉納したという説明ができるでしょう。
それでも、七支刀を持つ人形が福岡県みやま市瀬高町太神(おおが)に存在していることから、七支刀の受け渡しは九州で行われたと考えられます。
このことについて、近畿王朝一元主義の視点に立つと、近畿王朝の地において七支刀が受け渡しがなされて当然でしょうから、全く理解や説明ができないことになります。
この七支刀は、石上神宮の禁足地の南西の隅に建っている神庫(ほくら)にあったもので、江戸時代には「六叉の鉾(ろくさのほこ)」と呼ばれ、伝世してきたものです。明治6年に石上神宮の大宮司が明らかにしたもので、現在では七支刀と呼ばれ、神剣である布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)とともに祀られていますが、ご神体そのものではありません。
江戸時代には「六叉の鉾」と呼ばれていたことから、後述する『日本書紀』の七支刀と同じ物との認識ではなかったようです。
つまり、他の宝物と一緒に、立ち入り禁止の神庫(ほくら)という倉庫に七支刀とは認識されずに保管されてきたということです。
これに対して、「こうやの宮」の御神体は、この宮の神職であった因幡家が人形の色を塗るなどして、代々大切に守り継がれてきたとされます。
単に宝物の一つとして保管されてきた「六叉の鉾」に対して、「こうやの宮」の七支刀をもつ人形が、大切に維持管理されてきたことの意味は一体どういうことでしょう。
これを探るには、人形の風体をつぶさに観察するとともに、七支刀に刻まれた金象嵌銘(きんぞうがんめい)文を読解することが必要です。
これまでにも、古田史学を中心に論じられてきた「こうやの宮」にある人形について、あらためて詳細に検討を加えようと思います。
↑さいしょにこの人形たちを見たとき、その色彩の鮮やかさ、どぎつさに笑ってしまったものだ。
さいきん作られたものだと私が勘違いしただけだとわかったから…
村山健治氏の「誰にも書けなかった邪馬台国」を読んでから印象は変わった。

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こうやの宮
「宮」の呼称があるものの、それは神社とは程遠く、むしろ、小さな祠である。
「こうやの宮」は山門郡(現・みやま市瀬高町大字太神長島)にあり、7件の民家に守られるように、田んぼの中にたたずんでいる。
その宮のいわれも、神体の由緒も伝わってはいない。ただ、氏子である7軒の民家には、「こうやの宮をだいじにせよ、こうやの宮の屋根をふき替えよ(村山健治「誰にも書けなかった邪馬台国」)」との遺訓が伝わっているだけで、氏子たちは忠実にそれを守ってきたという。
ここで誰しも、それは奈良・石上神宮の七支刀の模倣と思うことだろう。ところが、そうではなかった。
江戸時代中期にはここにあり、あまりにも古くなったので近くに住む仏師・河野氏に塗りなおしを頼んだものだという。1950年のことであったと。
第2部 消された古代王朝 325ページ

第9章 巨大古墳の謎を解く
1, 巨大古墳築造の目的
いわば、巨大前方後円墳の特徴である「突発性」と「偏在性」とは、「謎」と同義なのである。352ページ
それなのに、巨大前方後円墳の出現には、段階的、漸進的という経過が見られないのである。351ページ
重なる分布とその時代背景
ここに一つの分布図がある。この分布図を、「全国未開放部落分布図」という。
制作者は、早稲田大学部落問題研究会 年代は昭和11年 353ページ
古田武彦は作家・住井すえとの対談で、この分布は、古墳、それも前方後円墳の分布と一致していることを論じている。
古田武彦の発見は事実だった。
被差別部落は前方後円墳の分布と一致する。355ページ
ひたすら造るというよりも、「ひたすら造らせ続ける」… これが前方後円墳築造の目的だった。
巨大古墳の「突然編位性」は、大量の労働力の確保と無縁ではない…
と、ここまで解明したのはさすが古田武彦信者であると言いたいところですが、ここからが良くない。
この筆者は、狗奴国が負けて、負けた狗奴国の人間が巨大古墳づくりのこき使われたと言ってる。
私はあべこべに、狗奴国が最終的に邪馬台国を蹴散らして、奈良盆地に進出したものだと思ってる。
この筆者は現に、
そんな中で、畿内には、九州の影がちらつく前方後円墳が存在している。
巨大古墳を築くだけでも、多大な労苦を伴う一大作業だ。
それなのに、そこには、阿蘇山の溶結凝灰岩ピンク石が使用されているのである。
奈良県、大阪府はもとより、畿内にこのような溶結凝灰岩を産出するところはない。
畿内の巨大古墳に、九州の影がちらつくのは、なぜだろう…
1000キロの海を渡った「大王の棺」: 九州から大阪、実験考古学の航海が解く古墳の謎 2008/澤宮 優 (著)現代書館 近畿の古墳の石棺のピンクの石って熊本産なんだろ?おまえら、嫌いな国の、地方の産物に囲まれて死にたいと思う?これこそ東遷の証拠じゃねえか

日本古代の国家形成: 征服王朝と天皇家 (講談社現代新書 128) 1967/10/1水野 祐 (著)

この関係の数冊を読んだが、わざわざ熊本からピンク石を運んだのは一体誰だったのかについての考察がないのが残念である。
私はこの事実を知って、水野裕先生の「狗奴国、九州の覇王になった」説を思いだした。
狗奴国は女王卑弥呼の邪馬台国と長らく対立してて、以降の文献に記載はないが、けっきょく狗奴国が勝利して東遷を開始したのではないかとの説である。
邪馬台国と狗奴国と鉄 2010/2/1菊池 秀夫 (著)彩流社 邪馬台国畿内説の皆さんよ、これこそまさしく東遷の証拠じゃないの??

高地性集落と倭国大乱―小野忠熈博士退官記念論集 1984/雄山閣「高地性集落」を追いかけて…

「あるいはかなりの地方に高地性集落があらわれる。
弥生中期。あらわれかたも1回ではないのです。
同じ集落をまた修復して使ったりしていますが、しかし古墳ができるようになるとそういうものはほとんどなくなっていく。
なくなるばかりか、ここがまたおもしろいのですが、かつての高地性集落のあったうえに、あるいはすぐ付近に、その地方でもっとも古い前方後円墳が突如として築かれる場合がある。いまのところこの謎はちょっと解けない。」
考古学者・森浩一「考古学の模索」1978 学生社

九州王朝論者(法隆寺移築説)からみた、「古墳はなぜつくられたのか?」

古墳の数(大体、古墳時代450年として、20万基余りの古墳がこの狭い日本列島に造られたという!!)から、世の大多数の考古学者がいう「祭りごとの為に築かれた」というのは違うんじゃないか。いま現在残っている古墳が15万基。宅地化、農地化、高速道路になって潰されてしまった古墳が約5万基。驚くべきは、50万基作られたという説もあることだ。
結論から言うと、私は、古墳というものは原住系の、銅鐸民? を使役して、新興の九州から攻め込んできた、圧倒的に数が少ない新勢力が、編み出した作り出した征服方法ではないかと思ってる。
私はただの古代史好きの、その辺によくいる物好きにすぎない。
そんな私でもこれに類した証言はまだまだあげることができる。
明らかに、柳田国男の言ってることは間違ってる。
古墳はなぜつくられたのか??
これに対する答えは、3点セットで考えなくてはいけないとつくづく思う。
①高地性集落 → ②古墳造営 → ③決まって、被差別部落が存在する。
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