豊日別宮 女神信仰と邪馬台国 田中了一著・2000年 自費出版 邪馬台国だけではなく、「倭国」の実態も、もしかしたら、この辺りにあったのではないか?

神籠石 健康 古代史 時事一般

神籠石

15年くらい前に神保町の古本屋で4冊まとめて手に入れた本である。

繰り返し読むたびに、これは凄い核心を突いた珍本ではないかと思えてきた。

天孫は邪馬台国に降った : 豊日別宮 田中了一/著 2008 自費出版

高天原と日本誕生を説く : 日本神道は大伴氏が開いた 田中了一 著 1996 自費出版

豊日別宮 天孫は邪馬台国に降った : 神楽の源流を発見 田中了一 著 2008 自費出版

 

「昭和47年、福岡県行橋市大字草場(現、南泉7丁目)に鎮座している、官幣大神・豊日別宮より、歴史的に名高い古代大和の巨大豪族、大伴氏の古文書と共に、神官・大伴氏系図が発見された。」

「官幣大神宮から発見された古文書によると、最祖神官・神牟根奈里(コウムネナリ)という名がみえている」

「この人物は、6世紀29代欽明天皇(540年即位)時代、豊前国の阿賀波多村におかれていた社務所にて、神事を司っていた。」

 

福岡県行橋市にある豊日別宮の近くに住む田中了一氏が、これに基づいて4冊の本を書きあげている。

「古事記、日本書紀の編纂が行われた頃の編纂側の中臣氏や藤原氏は邪馬台国の位置と、女王卑弥呼のお墓がある場所までも正確に知っていたことは確かであります。」

大伴氏系図というもの、写真が載っているが、新しいもので代々書き写されてきたもので、それ自体が古いということではない。

ただ、この激動の時代、中臣氏に縁戚つながりのある最祖神官・神牟根奈里(コウムネナリ)という人物がここにいて、宇佐神宮の開基から、ここに住んでいた人たちの京都・深草への移住と、日本史の激動の時代の種明かしをしている可能性がある。

九州北部に、大宰府を取り囲むように造られた謎多き神籠石の遺跡のことは知っているだろう。

山口県や四国にまで発見されたが、なぜか、古事記・日本書紀には一切記述がないというアレである。

ズバリ、これが卑弥呼の居城ではないかというのが田中了一氏の見解である。

とくに福岡県にある御所が谷の遺跡に注目したい。

今でも立派な水門が残っているが、たかが排水のためにこんな立派な水門をつくらないだろう。

タイトルにある表紙の写真がそれである。

私はこの水門で、まじない札と禊の神事が行われていたのではないかと思う。

御所が谷、神籠石という名称も何やら意味深ではないか。

それにこの近辺は、古来より、神代の昔から美夜古(みやこ)と呼ばれていた。

「……しかもこの地域は中臣郷であり、祭神官を司っていた中臣氏にふさわしい祓郷村や、祓川があり、中臣氏に神事のありかたは、祓うということをもちいていた。

また伊勢斎宮の地に祓川があり、このことから欽明は斎宮を立て、天照大神を祀った御神体は中臣郷の祓川そばにある豊日別宮こそが、伊勢の源神であり、神鏡に魂を入れ御神体として運ばれ、斎宮の祓川は源神の聖地に流れる祓川にちなんだものとみられる。」

 

この秡川の上流の水源地がまさに御所が谷の神籠石である。

東京から現地へ5回ほど行ったが、本州、山口県側に石垣が積まれていることを考古学者のだれも指摘しない。
つまり、本州、山口県側からの敵に対して造られたということだ。

しかも、石垣を積まれた御所が谷の神籠石から海まで九州、みやこ平野という平らな土地が続いており、「逃げ城」としては非常に優秀である。

 

太宰府・観世音寺に残る日本最古の鐘・梵鐘とそれに残されている刻印について。

この梵鐘には銘がないが、いたずら書きのような印刻の文字が3か所にある。

「第二の銘は、梵鐘右前方の小口にありて、「上三毛」の3字を見るのみ」
考古学者・中山平次郎 大正5年

 

謎を解くカギは、これまた北部九州に残る日本最古の戸籍である。
「上三毛」とは、豊前国上三毛をさし、そこは秦氏の集住地であった。
具体的に名前までわかっている。

鋳工や銅工だらけである。

しかもここは少し行った北部に香春岳という銅山がある。

「上三毛」とは、北部九州豊前国のことである。

しかも付け加えれば、ここは「隋書倭国伝」の「秦王国」である。

隋書俀国伝(貞観二年(628)唐の時代の書物)

訳文だけあげる。

「明くる年(大業四年、608)、お上(煬帝)は文林郎の裴世清を使者として倭国へ派遣した。百済へ渡り、竹島に至る。

南に耽羅国を望み、はるかな大海の中にあるツシマ国を経て、また東のイキ国へ至り、またチクシ国へ至る。

また東の秦王国に至る。その人は中国人と同じで、夷洲と考えるが、はっきりしたことはわからない。また十余国を経て海岸に到達する。

チクシ国以東はみな倭に付属している。」

↑これが、ここが最重要。当時のシナ人からみて、まぎれもなくそこに住んでいた人たちはシナ人だったと言ってる。

同行者の倭人から聞き及んだのであろう。じっさいにそこに降り立ったのではない。船から眺めただけだ。

裴世清の倭の記録は、九州内で完結する。現在の福岡県行橋・京都(みやこ)群みやこ町の辺りだ。

古代戸籍に載っているその地域の件の姓は、同じ姓の者が六国史の「続日本後紀」に承和二年(八三五)に「秦公」の姓が与えられたという記録が残っている

 

さらに、いわゆる倭の五王のなかの、武王の見事な上表文。

倭王武の上表文

倭の五王の最後の倭王武は、宋の昇明2(478年)5月、宋の皇帝順帝に上表文を奉っている。

この第1段とも謂うべきところが特に有名である。

この上表文には、『春秋左氏伝』『毛詩』『荘子』『周礼』『尚書』等から引かれているものが見受けられるという。

例えば、「躬ら甲冑を環き、山川を跋渉す」などは『春秋左氏伝』にも見られる字句である。
この上表文を書いた倭王朝官人の漢文の教養の深さが窺われる。

雑誌「東アジアの古代文化」に載ってた「倭の五王、武王の上表分は、中国古典の貼り合わせ」(掲載年度、執筆者は忘れてしまった)を読んで、考えされられたものである。

私はこれを書いたのは、シナ人そのものではないかと思ってる。

「倭の五王」のうちの倭王武は、雄略天皇に比定されることもあるが確証はない。

順帝の昇明二年、使を遣わして上表す。いわく、

「封国は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰躬(みずか)ら甲冑をツラヌき、山川を跋渉し、寧処に遑あらず。

東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、

渡りて海北を平ぐること九十五国、王道融泰にして、土を廓(ひら)き、畿を遐(はるか)にす。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^

 

唯一、武王の書いたものとされるのが、上表分の中の、倭王武からみて、朝鮮半島を指す「海北」という倭の五王の発信地の記載である。

 

皆さん、どうか日本地図を見て欲しい。

「海北」とは九州から見てそのものズバリ「海北」だ、畿内からでは、「海西」になってしまうのではないか。

 

武田幸男という歴史学者がかつて、古田武彦の九州王朝説(大宰府、八女、久留米あたりに首都があったとする)に対して、「西は衆夷を服すること六十六国」ではおかしいではないかと、鬼の首を取ったように書いていたが、そういう疑問も豊前にみやこがあったとすれば完全解決する。

10.邪馬台国 魏志倭人伝より

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸

南(行)して、邪馬壹(臺の誤り)国(やまとこく)にいたる。女王の都とするところである。水行十日、陸行一月である。

官に伊支馬(いきま)がある。次(官)を弥馬升(みまと)という。(その)つぎを弥馬獲支(みまわき)といい、(その)つぎを奴佳(なかて)という。

七万戸ばかりである。

 

豊後国風土記(8世紀前半)にも豊前仲津郡中臣村とあり、倭名類聚抄(931年 – 938年)にも中臣郷とある。

中臣氏は、ここに、九州北東部に確かにいて、邪馬台国の高級官吏だったのではないか。

奴佳鞮 なかて? ぬかて?ズバリ これが中臣氏ではないか?




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遥かなり馬冑: 楽浪郡から紀伊・大和への道 1987/日根 輝己 (著)アイペック

この和歌山新聞の記者による日本古代史の一連の本は非常に面白い。
まず、砕けたわかりやすい文章がいい。こういう方がリアルである。
4,5冊読んだが、すべて核心に迫るもの。
知られていないが大したものである。

タイトルにある馬冑というのは、和歌山県の大谷古墳から発掘された馬の頭部にかぶせる馬の甲冑のようなものである。

紀伊大谷古墳出土品 きいおおたにこふんしゅつどひん

紀伊大谷古墳出土品 文化遺産オンライン
大谷古墳は、紀ノ川流域の右岸、和泉山脈の南麓に立地する前方後円墳で、本件は内部主体の組合式石棺【くみあわせしきせつかん】の内外から出土した副葬品の一括である。遺品は、装身具類、武器類、馬具類などに大別できるが、特に大陸的要素をもつ精緻な馬....

大谷古墳は紀の川北岸にあり、築造時期は5世紀後半から6世紀初めごろとされる。 馬冑は昭和32年から翌年2月に京都大が行った発掘調査で発見。
鉄製で、長さ52・6センチ、最大幅は24・5センチ。 馬の顏を覆う面覆(めんおおい)、頭の上に立てる廂(ひさし)、頬当(ほおあて)の3つの部分からなる。

 

福岡県うきは市吉井町若宮で江戸時代、発掘された馬冑も同一種族が埋めたものだと推論する。
そして、その起源は朝鮮半島の伽耶地域にあるとする。

馬冑の出土例

朝鮮半島の伽耶地域 → 福岡県うきは市吉井町若宮で江戸時代、発掘された馬冑 → そして、和歌山県の大谷古墳

 

↑見事につながる。

私がこの人の本を高く評価するのは、とりわけ、「半島倭」と名付けて朝鮮半島南部は倭人が海を渡り根拠地を築いていたことを再三述べていること。

不思議なことに考古学者の奥野正男氏は高く評価するようだが、九州王朝説の古田武彦には言及がない。

例の広開土王の石碑の碑文をみればそれは一目瞭然でないか。

 

ただ、その際、カギとなるのは、畿内ヤマト政権の存在である。

畿内ヤマト政権に、水軍がない。これまで遺跡も見つかっていない。

畿内ヤマト政権は「ひきこもり」政権である。

金剛山地の右側に引きこもって、外敵をシャットアウト。ひたすら、大古墳を作りまくっていた。

あんなに大層な古墳をたくさん作ってるんだから、朝鮮半島に進出して当然だと考えてる人・学者多すぎる!
逆じゃない?

あんなにたくさん古墳つくってるから、すべての労力を古墳づくりに削がれて、朝鮮半島に進出なんかできなかったのではないか。

任那日本府というのも畿内ヤマト政権がつくりだした作文である。

馬冑というものの3つの発掘事例を挙げ、日本に確かに渡来民はいたという確証を出してくる。

それでは、騎馬民族渡来説に万歳かといえばそうではない。

ここからが著者の凄いところ。騎馬民族渡来説には批判的である。

 

著者は、渡来してきたのは、朝鮮半島の支配者である漢人であるという。

私もいろいろ読んで考えるが、その説に大賛成である。

さらに言えば、海人主体の漢人混ざりとでもいおうか。

 

日本における、馬の育成方法が諸外国とはまったく違うという話もある。

端的に言えば、日本人は「去勢」を知らなかった?

だから、明治時代、例えば、1900年(明治33年)に北京近郊で発生した義和団事件において、諸外国の馬が参集した場で、日本の馬だけが興奮して暴れまわって手が付けられなったというエピソードがある。

こんなことが、「騎馬民族の末裔」にあり得るだろうか?

さらに言えば、騎馬民族がこんな大層な馬冑を作り馬にかぶせるだろうかと疑念を述べているところが素晴らしい。

 

さらに、いわゆる伽耶地域は「3,伽耶は倭だった。 56ページ」という。

例の魏志倭人伝の陳寿が残した「魏志・東夷伝」。韓半島の実情を述べてる部分。

辰韓条、弁韓条、韓条の一節。いづれにも、

「…倭と接して…」とある。

松本清張も言ってるが、これは韓半島南部に倭人が住む地域があったことは疑いようもない。

 

さらに、広開土王碑をめぐるちょうせんじんの批判に対して、その熱いナショナリズムに対して批判する。

碑文を改ざんまでして! といった無茶苦茶な批判に対してこの反論はきわめてまっとうだ。

言い返せない、反日サヨクの歴史学者たちは引退した方がいい。

 

最後に、これをどうしても書きたかったという、素晴らしいことを著者が述べている。

第4部 天皇への道  2,志紀県主は先住部族の首長 258ページ

大和朝廷の始祖とされる神武天皇が即位した橿原の地が磯城(シキ)で、古市古墳群のあたりも志貴(シキ)と呼ばれている点である。

「しき」という言葉には、半島倭から北部九州を経由してきた部族の聖地にからまる何らかのいわれがあるのではないだろうか。

彼らが王都としてきたところを必ず「しき」と呼ばれていることに注目したい。

じつは、福岡県 御所が谷の神籠石もかつて、「ほとぎやま」と呼ばれていた。

現地へ5回行って、地元のおじさん2名に聞いたことだからこれは確か。

ほとぎやまとは、シキ、あの正岡子規のシキである。

これが偶然とはとても思えないのだ。

 

併せて読みたい

藤原不比等1997/3/1いき 一郎 (著) 三一書房

「邪馬台国の研究」(重松明久)昭和44年刊 白陵社

「神代帝都考」狭間畏三 (著) 昭39。明治32年版の再刊。

豊前王朝―大和朝廷の前身 2004/2/1大芝 英雄 (著) 同時代社

 

「古代国家と道教」(重松 明久)1985における、「大卒」発見について

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