倭人は朝鮮半島で戦ったのか──高校教科書に「ヤマト政権が6世紀に百済の支配を認めた地域」と記される加耶(任那)とは何か。
古代史研究の長年の成果をもとに日本・朝鮮半島相互で出土する金冠、甲冑や前方後円墳などの考古資料から明かす。
この本の著者は、ヤマト畿内政権のルーツのひとつと思われる、韓国南部の、伽耶地域に詳しい著者である。
そのデータの細かさはこの分野で随一と言える。

「伽耶は日本のルーツ」沢田洋太郎 新泉社 1994
高松塚や藤の木古墳の発掘、朝鮮南部での前方後円墳の発見で、「日本列島で自生した固有の文化」をもつ民族である日本人説は多くの疑念に包まれた。
アジア全体を視野におき、伽耶諸国の実体に迫りながら、日韓文化の共通点と相違点を分析して日本人のルーツを追い求める。
著者紹介
澤田 洋太郎(サワダ・ヨウタロウ)
1927年、東京生まれ。1951年、東京大学法学部政治学科卒業。東京都立江戸川高校社会科教諭をはじめとして高校教師を勤め、1982年都立大学附属高校教頭にて退職。以後、執筆活動にいそしむ。2014年没。主な著書 『天皇家と卑弥呼の系図』『ヤマト国家成立の秘密』『ヤマト国家は渡来王朝』『伽耶は日本のルーツ』『幻の四世紀の謎を解く』『出雲神話の謎を解く』『アジア史の中のヤマト民族』(以上、新泉社)ほか多数。
本著者の本はすべて読んでるが、この分野の本を見るとき、いの一番に開くページがある。
それは、あの「広開土王碑」に関するページである。
広開土王碑に頻出する、倭、および倭人というものの解釈をいの一番に見たいわけである。
156ページ 第4章 広開土王碑 倭は高句麗と戦ったか 5世紀より
帯方郡の戦争は、404年である。碑文に見える倭の軍事力の表現には誇張があるとしても、戦線は想定しがたい。404年の帯方界で、倭が参戦したという見解に倭が参戦したという見解に筆者は否定的である。
倭が百済の漢域を超え、礼成江一帯にまで、侵入し、高句麗によって壊滅したという戦いは信ぴょう性に欠けるのである。筆者はまず、帯方界の戦争じたいをうたがう。
そうなると、高句麗の新羅・任那加羅の戦いも疑問となる。
↑あちゃ~ まさかの、高句麗の広開土王碑、全面否定……
これは、どう考えてもおかしいだろ??
牧野裕
5つ星のうち3.0 非常に詳しい書籍だが、、
2024年4月9日に日本でレビュー済み
非常に詳しく分析されて最近の研究の内容が知れる書籍だった。しかし、現地で研究を続ける為には仕方ないのかもしれないが徒に日本書紀を貶め史料的価値を認めない姿勢が目立った。12世紀に成立した三国史記よりも8世紀に成立した日本書紀の方が遥かに論考の時代に近いのに同列に扱って比較しているのも不思議。日本書紀に日本に都合の良い改竄があるように三国史記にも当然朝鮮に都合の良い改竄があるはずとの姿勢に乏しい論考だった。氏も言及する漢書や魏志倭人伝を読めば任那を含む朝鮮半島南部がそもそも日本人の居住地であったことは明らかなのに交易関係とか居留民とか曖昧な言葉に終始していたのも少し気になった。
IXY1600
5つ星のうち3.0 考古データは詳しいが、だから何?と問いたくなる。
2023年1月3日に日本でレビュー済み
副題として「朝鮮海峡の考古学」とある様に、朝鮮半島側の考古データは詳細である。しかし、それを以ってどの様な歴史事実が読み取れるのかについては、論考が乏しい。いわばデータの羅列が多いだけである。しかも、東氏は好太王碑の文面を信用していないし、書紀の記事も信用しない。と言って、三国史記を重視するわけでもない。他の論者の所見を引用掲載しているだけだ。そして、自身の所見が書いてある部分は見当はずれの論断が多い。
「異形」の古墳 朝鮮半島の前方後円墳 (角川選書) 2019/高田 貫太 (著)KADOKAWA 「九州王朝論者」からみた、南韓半島に残る前方後円墳について

はじめに言っておくと、なんら不思議はない。
朝鮮半島西南部の栄山江流域に5世紀から6世紀にかけて作られたおびただしい前方後円墳は九州王朝がつくったもので、決して畿内ヤマト王権が作ったものではない。
著者もそのあたりわかっていないので(九州王朝なんか全然脳裏にない?)、隔靴搔痒の感ありありの書物になってしまっている。
例の広開土王碑(西暦414年10月28日)が非常に参考になる。
まさに、朝鮮半島西南部の栄山江流域に倭人が住み始めて、前方後円墳をそこに作り始めた時期にぴったりだからである。
広開土王碑には周知のように、倭人、倭という言葉が頻発する。
倭人を制圧した、倭人に勝ったという記述だらけである。
この倭人も、九州王朝人である。
決して畿内ヤマト王権の倭人ではない。
百済王はみずからの臣下のため、地名を付した王号や候号を南斉に要求している。
そして、その地名が朝鮮半島西南部(前方後円墳が多数作られた)に集中している
時期的に近接しているので、これらの事実は実に興味深い。
私の解釈は簡単である。
この、朝鮮資料に出てくる倭、倭人は九州王朝人である。
2世紀から3世紀、4世紀、5世紀かけて海を渡って領有していたものと思われる。
それで朝鮮民族とのあいだに齟齬あつれきが発生した。
よく本書を見れば、著者・東潮氏は、いわゆる「倭の五王」を畿内の誰かに設定し、おまけに邪馬台国畿内説にたつみたいだ。
いわゆる、倭の五王は、畿内ヤマト政権の人間ではない!!
いわゆる「倭の五王」について
ここでもいちばん鋭いのは、やはり古田武彦である。
『宋書』に記されている「倭の五王」は大和政権の天皇ではない。
従来説(石渡信一郎も同類だ)では、5人の王名(讃・珍・済・興・武)はいずれも天皇の本名を省略したものである、ということになっている。
例えば、仁徳天皇の本名は「オオササギノミコト」であるが、その「ササ」のあたりの発音を「讃」の字で表記したのであろう
などというのだ。これが日本史の学者たちの頭のレベルなのである。語呂合わせに終始しているように見えてしまう(笑)。
しかし実際は、中国の歴史書はいずれも、周辺異民族の首長の名を省略して表記することはないのである。
何文字になろうと万葉仮名のように発音を写し取っているのだ。
「倭の五王」の在位年と『日本書紀』での各天皇の在位年とが全く合わない。
また、ヤマト王権の大王が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など1字の漢風の名を名乗ったという記録は存在しない、南朝(東晋-梁)側が勝手に東夷の王に漢風の名を付けることなども例が無く考えられないので、「倭の五王」はヤマト王権の大王ではないと考えられる。
渡りて海北を平ぐること九十五国、王道融泰にして、土を廓(ひら)き、畿を遐(はるか)にす。
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唯一、武王の書いたものとされるのが、上表分の中の、倭王武からみて、朝鮮半島を指す「海北」という倭の五王の発信地の記載である。
皆さん、どうか日本地図を見て欲しい。
「海北」とは九州から見てそのものズバリ「海北」だ、畿内からでは、「海西」になってしまうのではないか。
「…藤原不比等の能力のひとつに、文字づくりがある。
天皇という字の使用は720年の日本書紀完成以前という説が成立するならば、この重要な字の案出、使用には当然、不比等がかかわっていたと考えられる。
また、ヤマトは倭、大倭の訓となったが、この読み方も、邪馬台国論の基本にかかわる大きな判断の分かれ目となる。
不比等は、倭をヤマトと読ませ、大和とするなかで、巧みにヤマト=日本、ヤマトを日本の古代の中心に置き換えてしまったのである。
これはずる賢いすりかえ、移動、引き伸ばしである。しかし、中国の記録にはそうは書いていないのである。」(藤原不比等1997/いき 一郎)
京都の歴史を足元からさぐる 洛北・上京・山科の巻 2019/1/31森 浩一 (著)学生社

117ページ
ここでも先に注意しておきたいことが一つある。奈良盆地全域を「大和」と表記し、大和政権とか大和の古墳文化などということが当たり前のように使われている。
しかし、「大和」の二字の表記も8世中ごろに初めて使われるので、古墳時代、まして弥生時代に「大和」の二字表記できる地名はない。
使用する漢字によって人々に誤解をうえつけるのは、暗黙のうちに大和中心主義に加担していることになる。
学問とは真実の探求のために死に物狂いの努力を続けることである。
黒塚古墳の発掘で三角縁神獣鏡が化粧具ではなく葬具として大量製作されたことが明らかになっても、まだ黒塚古墳の三角縁神獣鏡を「卑弥呼の鏡」というような非歴史的な言葉を使ってよんでいる鏡の専門家なる人がいるのは、もはや茶番を超えている。

広開土王碑と参謀本部 佐伯有清 著 吉川弘文館 1976
九州王朝論者(法隆寺移築説)からみた、卑弥呼の居場所: 狗邪韓国から大和へ (NHKブックス 919) 2001/高橋 徹 (著) 邪馬台国畿内説についてつらつら思うこと…

法隆寺移築説からみた「九州王朝説」 失われた九州王朝―天皇家以前の古代史 (1973年) 古田 武彦 (著) 朝日新聞

高地性集落と倭国大乱―小野忠熈博士退官記念論集 1984/雄山閣「高地性集落」を追いかけて…

九州王朝論者(法隆寺移築説)からみた、なぜ朝鮮半島に前方後円墳があるのか (宝島社新書) 2025/6/30 水谷 千秋 (著)

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