天海・光秀の謎―会計と文化 1993/岩辺 晃三 (著)税務経理協会 「天海・光秀同一説」 大いにあり得ると思ってる…

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この埼玉大学の教授は会計専門の人で、日本史は専門ではない。

ただ、この人のいう「天海・光秀同一説」は根拠がありすぎると今回取り上げた。

注目したいのは、岩辺氏の本ではほとんど触れられていないが、初期徳川幕府を支えた人たちの、明智光秀人脈とでもいえる人の多さである。

まずは、春日局がいる。

春日局/斎藤福(かすが の つぼね/さいとう ふく、天正7年〈1579年〉 – 寛永20年9月14日〈1643年10月26日〉)は、安土桃山時代から江戸時代前期の江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号である。

3代将軍・家光の乳母である。

ところが彼女は、明智光秀の筆頭家臣、なんとあの本能寺の変で陣頭指揮を執り、のちに豊臣秀吉によって処刑された斎藤利三の実の娘である。

家光の子の徳川家綱の乳母には、明智光秀の重臣の溝尾茂朝の孫の三沢局が採用されている。

それだけではない。

斎藤利宗:春日局の実兄もまた、明智家滅亡後は、加藤清正に仕えていたが、後に徳川家光に5千石の旗本として、取り立てられている。

 

慶長9年(1604年)に2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の家光)の乳母に正式に任命される。

このとき選考にあたり、福の家柄及び公家の教養と、夫・正成の戦功が評価されたといわれている。

息子の稲葉正勝も家光の小姓に取り立てられ、元和9年(1623年)に老中に就任、寛永9年(1632年)には相模国小田原藩主となった。

明智光秀の孫の織田昌澄は大坂の陣で豊臣方として参戦したが、戦後に助命されていること。

山崎の戦いで明智側についた京極家は、関ヶ原の戦いの折に西軍に降伏したにもかかわらず戦後加増された。

一方、光秀寄騎でありながら山崎の戦いで光秀に敵対した筒井家は、慶長13年(1608年)に改易されている。

↑こうしてみるとにかく、明智光秀人脈を選んで引き立てたと考えざるをない。

もちろん当然、徳川家康は天海僧正が明智光秀であること知っていたからこそのこの人選ではないだろうか。

もしも、天海僧正が光秀だったとしたら、奇妙と思えることの一番は織田信長の比叡山焼き討ちに関わる件。

明智光秀は、比叡山焼き討ちで中心実行部隊として(和田秀純宛「仰木攻めなで切り」命令書)武功を上げ、近江国の滋賀郡(志賀郡:約5万石)を与えられ、間もなく坂本城の築城にとりかかる。

比叡山の坊さんを撫で切りにしたのも光秀配下のおよそ500人の部隊だという。

そして、天海僧正がやったことの第一の功績は、当時荒れ果てていた比叡山を復興したことだという。

自分が壊して、自分が再興する。そんなことがあり得るだろうか。

 

明智光秀人脈がいかに多かったとはいえ、それが光秀 = 天海には繋がらないではないか。外野からそうした声が聞こえてきそうだ。

それに対しては、両者の筆跡が似てる、ということを言いたい。

というか、私は筆跡鑑定に知識はないが、岩部氏の本に写真が載ってるが、同一人物のものとみて間違いないだろう。

南光坊天海書状 佐竹義宣宛

本能寺の変後、光秀の直筆手紙 紀州の武将宛て

↑ご覧いただきたい。限りなく同一人物が書いた物に私には思えるのだが…

 

あとはよく言われてる、日光東照宮陽明門にある随身像の袴や多くの建物に光秀の家紋である桔梗紋が象られている事や、東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数ある。

日光に明智平と呼ばれる区域があり、天海がそう名付けたという伝承がある。

天海は高名な僧であるにもかかわらず前半生は詳細に知られておらず、第12代将軍足利義晴の子であるとか、古河公方足利高基の子であるなど、様々な説が唱えられてきた。

明智光秀が天海となったという説もその一つであるが、いつ頃唱えられだした説かは定かではない。

1916年(大正5年)、天海の伝記『大僧正天海』を著した須藤光暉は、天海は船木兵部少輔景光と妻の蘆名氏の子であると推定しているが、一部の考証家に「光秀が天海となり、豊臣氏を滅ぼして恨みを晴らした」という「奇説」を唱えるものがいると記述しており、この頃にはすでにこの説が唱えられていたとみられる。

 

明智光秀は天正10年(1582年)の山崎の戦いの後に討たれたとされているが、山崎の戦い以降に光秀が存命していたとする説や伝承がいくつかある。

ただしこれらの説は、光秀が天海になったと明示されていない。

 

京都宇治の専修院と神明神社には、山崎の戦いの後に明智光秀を匿った伝承が残されている。

『和泉伝承誌』によると、山崎の戦いの後に明智光秀が京の妙心寺に姿を現し、その後光秀は和泉に向かったと書かれている。

本徳寺(現在は大阪府岸和田市にあるが、開基時には大阪府貝塚市鳥羽にあった)には、一時、明智光秀が潜伏していたという伝承があり、「鳥羽へやるまい女の命、妻の髪売る十兵衛が住みやる、三日天下の侘び住居」という俗謡が残っている。

 

山崎の戦いの後、竹藪で竹槍に刺されて死んだのは影武者の荒木山城守行信であり、光秀は美濃国中洞まで落ち延びたという生存説がある。

落武者となった明智光秀は姓名を荒深小五郎に改めて生きながらえたが、関ケ原の戦いで東軍に参戦する途中で洪水に遭い死去した、と尾張藩士・天野信景が随筆集『塩尻』に記述している。

この説によると享年は75才。

 

併せて読みたい

複式簿記(バランスシート)の黙示録―秘数13とダビデ紋が明かす逆襲の日本史 1994/岩辺 晃三 (著)徳間書店

ユダヤ人・ロルテスは戦国日本に何を仕掛けたのか。

内蔵介は「9」「13」で赤穂事件の真相を帳簿に託した。「天海・光秀同一説」など…複式簿記の歴史研究を出発点として、日本史の謎に挑む。

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