春日局が、本能寺の変の現場指揮官、豊臣秀吉によってのちに処刑された斎藤利光の娘だと知ったのは、もうずいぶんむかし、八切止夫の本であった。
本能寺の変、発生当時、3歳だった彼女が、3代将軍家光の乳母になったのは、父親が処刑され首をさらされた京都・粟田口に掲げられた乳母募集の表札をみて応じたものだったという。(「春日局・今日は火宅を遁れぬるかな」福田千鶴著 68ページ)
ここまではいい。
だが、初期徳川政権の徹底的な明智光秀人脈優遇政策を知ると、この逸話も怪しいものと思えてくる。
1582年 本能寺の変 春日局(斎藤福)当時3歳。
1590年 この頃、徳川家康は、小田原の陣中で天海僧正(じつは明智光秀?)と出会う。この時、天海僧正は武田家の祈禱師だった。
1600年 関ヶ原合戦 ④ ⑤ ⑥
1604年 家光誕生。春日局(斎藤福)乳母となる、
1614年 大阪冬の陣
1615年 大阪夏の陣
1616年 徳川家康死す。75歳。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1623年 家光、3代将軍に ① ② ③
1643年 春日局亡くなる。天海僧正病没。
① 家光の子の徳川家綱の乳母には、明智光秀の重臣の溝尾茂朝の孫の三沢局が採用されている。
それだけではない。
② 斎藤利宗:春日局の実兄もまた、明智家滅亡後は、加藤清正に仕えていたが、後に徳川家光に5千石の旗本として、取り立てられている。
③ 息子の稲葉正勝も家光の小姓に取り立てられ、元和9年(1623年)に老中に就任、寛永9年(1632年)には相模国小田原藩主となった。
④ 明智光秀の孫の織田昌澄は大坂の陣で豊臣方として参戦したが、戦後に助命されている。
⑤ 山崎の戦いで明智側についた京極家は、関ヶ原の戦いの折に西軍に降伏したにもかかわらず戦後加増された。
⑥ 一方、光秀寄騎でありながら山崎の戦いで光秀に敵対した筒井家は、慶長13年(1608年)に改易されている。
↑こうしてみるとにかく、明智光秀人脈を選んで引き立てたと考えざるをない。
もちろん当然、徳川家康は天海僧正が明智光秀であること知っていたからこそのこの人選ではないだろうか。
① ② ③はまだわかる。春日局が将軍家光の乳母として権勢をふるった時期の優遇政策だ。この部分は省いてもいいだろう。だが、④ ⑤ ⑥は違う。
伊賀越え: 光秀はなぜ家康を討ち漏らしたのか 2024/4/23小林 正信 (著)淡交社「天海・光秀同一説」大いにあり得ると思ってる……家康は光秀に恩義を感じて、いわゆる明智人脈をチョー優遇したんではないの??

家康の従者二百名も犠牲となって(しんがりの、おとりの役目を引き受けて)、家康本体に、木津川を渡らせたのがすべての勝因らしい。
その差、4時間。
明智勢も家康探しに、血眼だったということがよくわかった。
だから、言うまでもなく、徳川家康と明智光秀は仇敵である。
この件、「伊賀越え」だけ見ればそうなる。

天海=明智光秀説
説が生まれた背景
天海(慈眼大師天海)は高名な僧であった割には前半生が詳細には知られていなかった。『天海傅(全2巻)』『東海記』『胤海記(東叡山開山慈眼大師縁起)』は天海の業績を記した江戸時代の文書だが、蘆名氏の縁者で会津の出身とあるだけで、生誕地や歳時を明確には記述していなかった。
大正5年(1916年)に天海の伝記『大僧正天海』を刊行した須藤光暉は、天海は船木兵部少輔景光と妻の蘆名氏の子であるという『東海記』の記述を採用しているが、天海の両親と生年について9つの異説があるとして以下のごとく列記して説明している。
第11代将軍足利義澄の子、永正6年9月18日生まれ(『福山藩士三浦小五郎系譜』)[4]
下野国の守護宇都宮正綱の妹の子で蘆名盛高の母の養子、永正7年生まれ(『宇都宮彌三郎系圖』)[5]
第11代将軍足利義澄の末子で母は蘆名盛高の娘、永正7年生まれ(『北越太平記』)[6]
記載なし、永正8年生まれ(『王代一覧』)[7]
第11代将軍足利義澄の次男の亀王丸、永正9年正月生まれ(『足利系図』)[8]
記載なし、永正15年生まれ(『本朝続々史記』)[8]
古河高基(古河公方足利高基)の四男、天文11年生まれ(『参州松平御系図大全』)[9]
姓は三浦氏で奥州高田郷の出身、天文年間の生まれ(『和漢三才図會』)[10]
蘆名盛高の一族で船木氏の子、天文22年生まれ(『陸奥国大沼郡高田郷龍興寺縁起』)[10]
須藤はさらに同様のものとして6つの異説を追加説明しているが、父として名があがるのは足利義澄・足利高基・船木道光または景光で、母方が蘆名氏、宇都宮氏、三浦氏などが出てくるが[11]、明智光秀の父とされる人物の名はない。
同書の中で須藤は、一部の考証家に「天海は明智光秀が後身なり、光秀山崎の一戦に敗れ、巧みに韜晦隠匿して、出家して僧になり、
徳川家康に昵懇して、深く其帷幕(いばく)に参し、以て豊臣氏を亡滅し、私かに当年の恨みを報いたり」という「奇説」を唱えるものがいると批判している。
大正頃にはすでにこの説が唱えられていたとみられるが、須藤は、明智光秀が天海となったという説は全く根拠がないものだとして、天海の生地や生年が不明なことを悪用して「誰か異説を造作し、妄誕を附會する者あらんや」とデタラメであると怒っている。
南光坊天海=明智光秀説なるものを示すような同時代史料は全く存在せず、中世史家の小和田哲男などの歴史学者の間においても「この説は広く支持されているものではない」としているが、会計学者の岩辺晃三のような支持者も存在する。
大僧正天海 著者 須藤光暉 冨山房 1916.00
この本は国会図書館のライブラリーで読めますよ。
天海・光秀の謎―会計と文化 1993/岩辺 晃三 (著)税務経理協会 「天海・光秀同一説」 大いにあり得ると思ってる…

明智光秀人脈がいかに多かったとはいえ、それが光秀 = 天海には繋がらないではないか。外野からそうした声が聞こえてきそうだ。
それに対しては、両者の筆跡が似てる、ということを言いたい。
というか、私は筆跡鑑定に知識はないが、岩辺氏の本に写真が載ってるが、同一人物のものとみて間違いないだろう。
南光坊天海書状 佐竹義宣宛
本能寺の変後、光秀の直筆手紙 紀州の武将宛て
天海大僧正墨跡 江戸崎不動院:元禄5年(1692年)以前
明智光秀書状 天正7年 御霊神社福知山
↑ご覧いただきたい。限りなく同一人物が書いた物に私には思えるのだが…
明智光秀は生きていた? 将軍・家光の秘密と暗号から、天海=光秀説に迫る
三百年のベール―異伝 徳川家康 (学研M文庫) 2002/2/1 南条 範夫 (著)

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家康の出生の秘密に端を発して、徳川300年にわたる身分社会のベールが大胆な構想と縦横無尽な筆致によって暴かれる。
明治35年に刊行された『史疑』を素材に、闇に葬られた真相を解き明かす南條文学の傑作。
静岡の県吏・平岡素一郎は、ふと目にした史書の一節をきっかけに、将軍徳川家康の出自と生涯の秘密を探りはじめる。
やがて、驚愕の真相が浮かび上がった―。「家康は戦国大名松平家の嫡子ではない、流浪の願人坊主だったのだ」。
そして、その隠された過去からは、さらに意外な歴史が明らかにされてゆく。
明治に実際に刊行された幻の奇書『史疑・徳川家康事蹟』を素材に、大胆な構想で徳川家300年のタブーに挑んだ、禁断の歴史ミステリー。
↑これは、ほぼ史実であろう。明治35年に、徳富蘇峰の経営する民政社から発刊。だが、すぐ、徳川家の弾圧により発禁本となる。
隆慶一郎の傑作「影武者徳川家康」がここから想を得ているし、漫画「カムイ外伝」がそうである。ベースとなるアイデアはここから取っている。
「武家として覇権を握るには、源平いずれかの姓をとらねばならないという観念は、よっぽど強かったのだね。
織田信長も始めは藤原氏を称していたが、後に平氏を名乗って平資盛の子孫だと言っている。
ところでこの新田源氏と徳川氏を結合させる為に、徳川氏は後々まで、色々苦心していますよ。
慶長16年(1621)に、増上寺の観智国師に命じ、土井利勝・成瀬正成と共に、上野国新田庄に派遣して、新田氏の旧蹟を捜索させ、菅野沢にあった義季の父・新田義重の古墳を大田に移し、大光院という寺を建てて、遠祖を祀るという形をとっています。
その上、徳川家康が死んでからのことですが、寛永16年(1639)、天海僧正は、東照公の遺命と称して新田郡世良田郷の長楽寺の住職を追っ払って、その寺を自分が占領しているのです。
天海僧正は、上野国新田庄得川郷の満徳寺という寺にあった新田家の系図一覧を、公儀御用と称して取り上げている。
三百年のベール―異伝 徳川家康 (学研M文庫) 2002/2/1 南条 範夫 58ページ
↑徳川家康の影武者説も、こんな状況証拠がボロボロある。
いわゆる「正統な歴史学」のお歴々にあっては、自分たちに都合のいい文書ばかり読んでいないで、こういう証拠にも目を向けて欲しい(笑)
二人の家康前書
徳川家康の出生に疑惑を投げかけた村岡素一郎の史疑 徳川家康公事蹟
https://shizuoka.veritas.jp/sigi/01umare.html
↑ このサイトが複雑な問題を簡潔にして、よくまとめている。
徳川家康の影武者説 – Wikipedia
ja.wikipedia.org
ここからは私の妄想である(笑)
【家康の陣地跡】
家康軍が陣を置いた「今井村」は、現在の小田原市寿町辺り、小田原城の東方にありました。
この陣跡に建つのが「徳川家康陣地跡の碑」です。
石碑には「神祖大君営址ノ碑」という文字が刻まれています。
1590年 この頃、徳川家康は、小田原の陣中で天海僧正(じつは明智光秀?)と出会う。この時、天海僧正は武田家の祈禱師だった。
「…じつはな、拙者は、じつは…惟任日向守、明智十兵衛光秀よ…」
それは唐突な告白だった。
明智十兵衛光秀といっても、2,3度遠くから見ただけでよく面相がわからない…
無言の時が流れる…
「出自のことで、いろいろお困りであろう、拙者に一任してくださらぬか…」
↑こういう会話があった可能性が高い。そうでなくては、初期徳川政権の徹底的な明智光秀人脈優遇政策というのを理解できない。
併せて読みたい
複式簿記(バランスシート)の黙示録―秘数13とダビデ紋が明かす逆襲の日本史 1994/岩辺 晃三 (著)徳間書店
ユダヤ人・ロルテスは戦国日本に何を仕掛けたのか。
内蔵介は「9」「13」で赤穂事件の真相を帳簿に託した。「天海・光秀同一説」など…複式簿記の歴史研究を出発点として、日本史の謎に挑む。
史疑 徳川家康 (河出文庫 し 30-1) 2022/10/6 榛葉 英治 (著)
徳川家康願人坊主すり替わり説を初めて唱えた村岡素一郎の本を、2023NHK大河ドラマ「どうする家康」の前に初めて文庫化。