九州王朝信奉者(法隆寺移築説)からみた、天皇たちの寺社戦略 ――法隆寺・薬師寺・伊勢神宮にみる三極構造 (筑摩選書 289) 2024/10/17武澤 秀一 (著)

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古代の天皇たちが建立した社寺建築は天皇の血筋を可視化し、即位の正統性を強くアピールしていた。
社寺建築の配置タイプは天皇たちの血筋に明確に対応していたのだ。

聖徳太子創建の法隆寺若草伽藍は塔と金堂がタテ一列だったが、天智天皇はこれを真っ向から否定し、塔と金堂がヨコに並ぶ法隆寺西院伽藍を建立。

一方、天武天皇は三極構造の薬師寺を建立し、その妻持統天皇は三極構造を伊勢神宮の社殿配置に導入した。〈タテ→ヨコ→三極〉の変遷に秘められた天皇たちの戦略を探る。

【目次】
はじめに――問われなかった四つの視点

プロローグ 謎めく二つの法隆寺

第I部 法隆寺は二つあった
第一章 塔の礎石が庭石に
第二章 法隆寺再建・非再建論争があった
第三章 何から何まで対照的な二つの法隆寺
第四章 〈太子を拝む寺〉への大転換
第五章 なぜ法隆寺だけ中門の真ん中に柱が立つのか

著者について
武澤 秀一(たけざわ・しゅういち):1947年生まれ。建築家/博士(工学・東京大学)。東京大学工学部建築学科卒業。同大学院工学研究科修士課程(建築学専攻)中退、同大学助手。その後、設計事務所を主宰。神社仏閣などの建築空間を通しての日本人の心のありようの探究がライフワーク。著書『持統天皇と男系継承の起源』『建築から見た日本古代史』『法隆寺の謎を解く』『伊勢神宮の謎を解く』(以上、ちくま新書)、『神社霊場ルーツをめぐる』(光文社新書)、『マンダラの謎を解く』(講談社現代新書)など。

 

 

この本は最悪の出会いだった。

私がこの手の本を読むとき、興味はただ一点、法隆寺は如何に移築されたかであるからだ。

法隆寺移築がまず大前提である。

 

九州王朝信奉者からみた、「法隆寺を支えた木」(西岡常一)2019

九州王朝信奉者からみた、「法隆寺を支えた木」(西岡常一)2019
法隆寺を支えた木 [改版] NHKブックス Kindle版 西岡常一 (著), 小原二郎 (著) 2019 やっぱりヒノキ 1000年超えても大丈夫! 1978年の初版から40年にわたり90回を超える増刷を重ねたロングセラーを読みやすく改版...

 

法隆寺移築説からみた「九州王朝説」 失われた九州王朝―天皇家以前の古代史 (1973年) 古田 武彦 (著) 朝日新聞

法隆寺移築説からみた「九州王朝説」 失われた九州王朝―天皇家以前の古代史 (1973年) 古田 武彦 (著) 朝日新聞
法隆寺移築説からみた「九州王朝説」 失われた九州王朝―天皇家以前の古代史 (1973年) 古田 武彦 (著) 朝日新聞

 

法隆寺は移築された―太宰府から斑鳩へ 1991米田 良三 (著) 新泉社 世界最古の木造建築、法隆寺の五重塔や金堂は九州大宰府から移築された。

法隆寺は移築された―太宰府から斑鳩へ 1991米田 良三 (著) 新泉社 世界最古の木造建築、法隆寺の五重塔や金堂は九州大宰府から移築された。
法隆寺は移築された―太宰府から斑鳩へ 世界最古の木造建築、法隆寺の五重塔や金堂は九州大宰府から移築された。

 

おまけに私は、「聖徳太子はいなかった」説の信奉者である。

集団自殺がどうのこうのと、おどろおどろしい言葉が並んでいるが、そういうのも全部この世になかったことである。

だから、おしまいの参考文献の第4章に本邦での「聖徳太子いなかった」説の代表的論者のひとりである大山誠一氏の著書が挙げられているが、第4章を一生懸命に読んでも大山誠一氏への言及はない。

10年以上前になるだろうか、上野の国立博物館で、1万円札でなじみ深い聖徳太子のものとされるあの肖像の原画が公開されたことがある。

私も勿論見に行った。当時、まだ、「聖徳太子いなかった」説にはまりかけていた段階だった。

私は確信した。横1メートル縦70センチくらいの、あのお馴染みの原画である。

右下か左下かは忘れたが、鋭い刃物で切り取った跡が生々しくあったのだ。

あれは唐時代の衣装。日本では当然、奈良時代。飛鳥時代でない。

つまり、帽子は幡頭(ばんとう)・笏を持ち・差してる真っすぐの刀は文字通り唐剣。

しかも飛鳥時代には、小姓を連れて歩く風習はなく、これも奈良時代。

宮内庁は、古墳の名称と同じく一度決めたことは、間違っている事を知りながら、決して修正しない。これを指摘してなかった。

確信した。これはシナ人の誰かを書いた物で聖徳太子とは何の関係もないと…

 

聖徳太子の誕生 (歴史文化ライブラリー 65) 1999/4/1大山 誠一 (著)


聖徳太子の真実 (平凡社ライブラリー) 文庫 2014/2/10大山 誠一 (編集)

聖徳太子は架空の人物だった。いや、厩戸皇子という人はいたのだが、その人は、我々が知っている聖徳太子ではない。
聖徳太子とは、日本書紀の作者が創作した架空の人物であり、その意図とは、「万世一系の天皇」を公式化することにあった。

聖徳太子 実像と伝説の間 2016/1/21石井 公成 (著)春秋社

↑これは、「聖徳太子いなかった」説への否定の書。

ただ、私の読むところその試みは失敗している。

だいたい、表紙の肖像がよくない。これはいわゆる聖徳太子とは無関係の一人のシナ人の肖像だ。

あなたはいったい、何がしたいのと言いたい(笑)

 

古代国家の形成にあたって、藤原不比等の果たした役割の大きさを、いち早く本格的に論じたのが哲学者の上山春平(元)京大教授である。

「続・神々の体系」中公新書 昭和50年 ← とくにこれがお勧めだ。

大山説は、著者も明記するように、上山氏の神祇革命説の継承・発展である。

これまで日本人が教えられて来た古代史は、すべて『日本書紀』を鵜呑みにしたものであった。

『日本書紀』を批判的に論ずる研究者はほとんどいなかったし、いても、政治の力で異端視され押さえ込まれてきたからである。

『日本書紀』が信頼の置けないものなら、頼りは考古資料と中国の歴史書である。

隋書によると、第一回の遣隋使派遣は600年。倭王の姓はアメ、字はタリシヒコ、号はオホキミである。

(開皇二十年 俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕)字をタリシホコ、号をアハケミと読む。

阿蘇山がある。その石は理由もなく火がおこり天にとどく。(有阿蘇山其石無故火起接天者)。

隋の使節裴世清が倭王と会見した場所に阿蘇山が近かった。

↑九州王朝のオオキミであることは確かだ…  ここまでちゃんと書いてくれてるのに(笑)

 



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完本 聖徳太子はいなかった (河出文庫 い 21-1) 文庫 – 2009/石渡信一郎 (著)

Version 1.0.0

『上宮記』、釈迦三尊像光背銘、天寿国繍帳銘は後世の創作、遣隋使派遣もアメノタリシヒコ(蘇我馬子)と『隋書』は言う。
『日本書紀』で聖徳太子を捏造したのは誰か。聖徳太子不在説の決定版。

↑別角度からみた否定説。

ただ、私の読むところ、この著者は色々と問題だ。一例として、いわゆる「倭の五王」を畿内ヤマト政権の誰それに当てはめて試行錯誤している。

 

『宋書』に記されている「倭の五王」は大和政権の天皇ではない。

従来説(石渡信一郎も同類だ)では、5人の王名(讃・珍・済・興・武)はいずれも天皇の本名を省略したものである、ということになっている。

例えば、仁徳天皇の本名は「オオササギノミコト」であるが、その「ササ」のあたりの発音を「讃」の字で表記したのであるなどというのだ。

これが日本史の学者たちの頭のレベルなのである。語呂合わせに終始しているように見えてしまう(笑)。

しかし実際は、中国の歴史書はいずれも、周辺異民族の首長の名を省略して表記することはないのである。

何文字になろうと万葉仮名のように発音を写し取っているのだ。

「倭の五王」の在位年と『日本書紀』での各天皇の在位年とが全く合わない。

また、ヤマト王権の大王が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など1字の漢風の名を名乗ったという記録は存在しない。

南朝(東晋-梁)側が勝手に東夷の王に漢風の名を付けることなども例が無く考えられないので、「倭の五王」はヤマト王権の大王ではないと考えられる。

 

渡りて海北を平ぐること九十五国、王道融泰にして、土を廓(ひら)き、畿を遐(はるか)にす。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^

唯一、武王の書いたものとされるのが、上表分の中の、倭王武からみて、朝鮮半島を指す「海北」という倭の五王の発信地の記載である。

 

皆さん、どうか日本地図を見て欲しい。

「海北」とは九州から見てそのものズバリ「海北」だ、畿内からでは、「海西」になってしまうのではないか。

 

色々と誤った前提のうえに砂上の楼閣を積み上げた本の典型である。

大評判となった梅原猛の隠された十字架―法隆寺論 (新潮文庫) 1981も同様だ。

読み物としては面白いが、真実からは遠い。

 

おしまいによかった点を挙げて終わりたい。

関野貞、伊藤忠太、足立康は、時代は異なるが、同じ大学で学んだ著者にとって大変なビッグネームであり、尊敬する大先輩方だ。

しかし察するに、建築の素人である歴史家に対し、自分たち玄人は”もの”を熟知しているという自信が過剰なまでにあった。

その思い上がり、というか傲慢さゆえに建築の「素人」から手痛いしっぺかえしを喰らった。

対して独り奮戦した喜多貞吉の胆力と論理の組み立てには脱帽すべきものがあった。

80ページ

 

喜田貞吉 - Wikipedia

法隆寺再建非再建論争

法隆寺再建非再建論争 - Wikipedia

 





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