土地の文明 地形とデータで日本の都市の謎を解く 2005/竹村 公太郎 忠臣蔵は、徳川幕府の吉良家への復讐劇であった。

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地形とデータにもとづいて、大阪の五・十日渋滞など国内11都市の謎を解き明かし、日本人と日本文明の本質を炙り出す野心作。

忠臣蔵は、徳川幕府の吉良家への復讐劇であった。地図を見るとそれがわかる。

第1章と第2章の、吉良家と徳川家の100年にわたる確執は、最大の読みどころ。

こんなことを言ったひとは他にいない。

 

徳川は吉良が目障りだったので、

事件発生後、当時、川向う(隅田川)の「僻地」の両国に吉良邸を移転させて、半蔵門でかくまっていた(見て見ぬふり)、四十七士に討ち入りさせたという「怪説」。

おそらく、著者のいう通りだろう。

 

愛知県矢作川の考察は凄い。

長年、技術官僚としてダム造設に関わってきた竹村氏の考察が冴える冴える。

素人であれば、地図をみてもチンプンカンプンだが、竹村氏は違う。

 

吉良領地の直上流部が岡崎の徳川領地であった。

徳川領地と吉良領地は、矢作川で隣接する上流と下流の関係にあったのだ!

水争いみたいなものがあって両家の間には何百年もの間、確執があった。

ところが途方もないことがこの矢作川で起きてしまった。

矢作川の劣位者だった徳川家康が天下を取ってしまったのだ。

 

他にも、徳川家にとって吉良家に消えて欲しかった理由というのが、徳川家康が征夷大将軍に就けるかどうかという問題もあったという。

徳川家康が征夷大将軍を朝廷から任じられるために、吉良家は仲介に入る武家の名門だったという事実。

徳川家にすれば、吉良家が目障りで仕方なかった。

 

そんなこんなで時は流れ、

「1701年、徳川幕府に衝撃が走った。殿中、松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけ負傷させたのだ。

徳川幕府、いや徳川家にとって千載一遇の機会が巡ってきた。

これを最大限に生かして、あの吉良家を抹殺する。浅野が悪いか、吉良が悪いかはどうでもよい。

ともかくあの矢作川でなめてきた辛酸、江戸城内での100年の屈辱を晴らす。

もう二度と、徳川家より上に立つ武家の存在を許さない。

徳川幕府の赤穂浪士への見えざる支援は当然の方針となった。

さらに、討ち入り後の徳川幕府による徹底した吉良家潰しは必然であった。

手の出せなかった吉良家を白昼堂々と潰す口実を徳川幕府は手に入れたのだ。

忠臣蔵の底を流れる強い執念、それは徳川家100年目の復讐のエネルギーだったのだ。」

まだまだ解かれていない謎はあるものだと著者の着眼点に驚いた。

 

新潟が米どころになったのは、大正時代からというのも驚いた。

江戸時代は洪水ばかりで不毛の土地だったと。
信濃川には現在、2つの人口放水路がある。

大河津分水路と関谷分水路である。

江戸時代末期からやっと調査の手が入ったが、費用のことなどあり頓挫、紆余曲折あって結局、完成したのは大正時代。

これが、大河津分水路。
遺憾なく能力を発揮して、新潟が米どころとなったのは、やっと大正時代になってからだと。

 

昔の田植えの風景の衝撃。

1枚の田植えの写真、昭和40年に新潟県豊栄市で撮影されたという(元は、12分の白黒フィルム)。

「それはまさに、胸まで泥に浸かって田植えをしている映像であった。長い竹を横にしてそれを握りしめながら田植えをする。
その長い竹竿は、沼に沈まないための救命装置であった。

田植えだけではなく、冬場の客土も過酷な作業であった。

客土とは、小舟に載せた土砂を水の中に撒き、足で踏みつけて春までに泥田を1センチでも高くしようとす作業である。
その土砂は自分たちにて、大切な土であった。
お客様のように大切な土であったので、この作業は「客土」と呼ばれた。」

「この話を、大阪のある会議でパワーポイントで紹介した。この写真を見る人々から驚きのため息が聞こえてきた。

そこである一人の出席者から「私の母も胸まで浸かって田植えをしていた」という発言があった。
どこですか? との私の質問に「淀川のすぐ近くの右岸」と答えてくれた。

その50歳代のお母さんが沼に浸かって田植えをしていたというと、大阪の淀川でも昭和の戦後までは新潟と同じ状況であったのだ。」

 

胸まで泥水に浸かって……。

これは稲作、広まらないわなと思わせる光景である。

北九州に稲作が伝わってから、東日本に到達するまで、800年かかっているというのもこれが原因では?

はじめ植えたのは、陸稲おかぼであろうが、せっかく作っても味もよくない。

ならば、これまで通り、稗とかそばとか、麦なんか植えていた方がいいと考えたんではないか。

写真を北陸農政局のサイトからお借りしました。

“新潟”であるために・十章:序章 ある作家の感慨:北陸農政局
北陸農政局ホームページ

“新潟”であるために・十章 序章 ある作家の感慨

あらゆる農民が夢見た美田とは、新潟の水田のことであると断言しても差支えあるまい。
しかし、有史以来、つい近年にいたるまで、上の写真のような光景こそ、まごうことなき新潟農業の現実であった。
雪解け水に肩までつかる田植え作業。
いったいこれが農業と呼べるものなのであろうか。
作家ならずとも、私たちはその姿に言葉にならぬ激しい感慨を覚える。

 

北海道、石狩川のショートカットの歴史など、先人の偉業、開拓のうえに我々の安穏とした生活がある。ことがよく分かった。

 

むかし、渋谷から厚木まで自転車で行ったことがある。
時間にして5時間余りもかかり、へとへとになった。

横浜へ行くのは自転車だと、2時間もあればたどり着けるのに。

電車でいえば、田園都市線という風雅な名の路線沿いの道である。

高低差がありすぎて、山あり谷ありで疲れ切ってしまったが、こんなところに道路や橋を架けた人たちは本当に凄いと単純に思った。

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