聖徳太子は架空の人物だった。誰が、いつ、何のために「聖徳太子」を作ったのか。日本人にとって「聖徳太子」とは何だったのか。聖徳太子の謎を解明し、天皇制の本質に迫る意欲作。
「「中国人」を生み出したのは、日本だった。これが私の独断でないことを示すには、毛沢東の次の言葉を引用すればじゅうぶんだろう。
日本の軍閥はかつて、中国の半分以上を占領していました。このため中国人民が教育されたのです。
そうでなければ、中国人民は自覚もしないし、団結もできなかったでしょう。
日本の独占資本や軍閥は、中国人民に良いことをしてくれました。
もし、感謝する必要があるならば、私はむしろ、日本の軍閥に感謝したいのです。」
(1961年、毛沢東主席の黒田寿男ら日本社会党議員への談話)
日本をつくったのも実は1300年前のシナ人である。
白村江の戦で、唐と新羅の連合軍に大敗した倭人国家は、関西地域に引きこもって、各地に山城を築き始める。
戦争に負けた相手の律令制を取り入れ、シナの天皇大帝という皇帝制度?を日本式にアレンジして京都に都をおいて政治を始めたのは藤原不比等である。
東洋史学者の岡田英弘氏によれば、それ以前、邪馬台国もシナ人(華僑)がつくったという。
私はその説に、話し言葉の語順が全く違うことから反対だが…
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10年以上前になるだろうか、上野の国立博物館で、1万円札でなじみ深い聖徳太子のものとされるあの肖像の原画が公開されたことがある。
私も勿論見に行った。当時、まだ、「聖徳太子いなかった」説にはまりかけていた段階だった。
私は確信した。横1メートル縦70センチくらいの、あのお馴染みの原画である。
右下か左下かは忘れたが、当時、鋭い刃物で切り取った跡が生々しくあったのだ。
あれは唐時代の衣装。日本では当然、奈良時代。飛鳥時代でない。
つまり、帽子は幡頭(ばんとう)・笏を持ち・差してる真っすぐの刀は文字通り唐剣。
しかも飛鳥時代には、小姓を連れて歩く風習はなく、これも奈良時代。
宮内庁は、古墳の名称と同じく一度決めたことは、間違っている事を知りながら、決して修正しない。これを指摘してなかった。
確信した。これはシナ人の誰かを書いた物で聖徳太子とは何の関係もないと…
聖徳太子の誕生 (歴史文化ライブラリー 65) 1999/4/1大山 誠一 (著)
聖徳太子の真実 (平凡社ライブラリー) 文庫 2014/2/10大山 誠一 (編集)
聖徳太子は架空の人物だった。いや、厩戸皇子という人はいたのだが、その人は、我々が知っている聖徳太子ではない。
聖徳太子とは、日本書紀の作者が創作した架空の人物であり、その意図とは、「万世一系の天皇」を公式化することにあった。
聖徳太子 実像と伝説の間 2016/1/21石井 公成 (著)春秋社
↑これは、「聖徳太子いなかった」説への否定の書。
ただ、私の読むところその試みは失敗している。
だいたい、表紙の肖像がよくない。これはいわゆる聖徳太子とは無関係の一人のシナ人の肖像だ。
あなたはいったい、何がしたいのと言いたい(笑)
古代国家の形成にあたって、藤原不比等の果たした役割の大きさを、いち早く本格的に論じたのが哲学者の上山春平 京大教授である。
「続・神々の体系」中公新書 昭和50年 ← とくにこれがお勧めだ。
大山説は、著者も明記するように、上山氏の神祇革命説の継承・発展である。
これまで日本人が教えられて来た古代史は、すべて『日本書紀』を鵜呑みにしたものであった。
『日本書紀』を批判的に論ずる研究者はほとんどいなかったし、いても、政治の力で異端視され押さえ込まれてきたからである。
『日本書紀』が信頼の置けないものなら、頼りは考古資料と中国の歴史書である。
隋書によると、第一回の遣隋使派遣は600年。倭王の姓はアメ、字はタリシヒコ、号はオホキミである。
(開皇二十年 俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕)字をタリシホコ、号をアハケミと読む。
阿蘇山がある。その石は理由もなく火がおこり天にとどく。(有阿蘇山其石無故火起接天者)。
隋の使節裴世清が倭王と会見した場所に阿蘇山が近かった。
↑九州王朝のオオキミであることは確かだ… ここまでちゃんと書いてくれてるのに(笑)
完本 聖徳太子はいなかった (河出文庫 い 21-1) 文庫 – 2009/石渡信一郎 (著)
Version 1.0.0
『上宮記』、釈迦三尊像光背銘、天寿国繍帳銘は後世の創作、遣隋使派遣もアメノタリシヒコ(蘇我馬子)と『隋書』は言う。
『日本書紀』で聖徳太子を捏造したのは誰か。聖徳太子不在説の決定版。
↑別角度からみた否定説。
ただ、私の読むところ、この著者は色々と問題だ。一例として、いわゆる「倭の五王」を畿内ヤマト政権の誰それに当てはめて試行錯誤している。
『宋書』に記されている「倭の五王」は大和政権の天皇ではない。
従来説(石渡信一郎も同類だ)では、5人の王名(讃・珍・済・興・武)はいずれも天皇の本名を省略したものである、ということになっている。
例えば、仁徳天皇の本名は「オオササギノミコト」であるが、その「ササ」のあたりの発音を「讃」の字で表記したのであるなどというのだ。
これが日本史の学者たちの頭のレベルなのである。語呂合わせに終始しているように見えてしまう(笑)。
しかし実際は、中国の歴史書はいずれも、周辺異民族の首長の名を省略して表記することはないのである。
何文字になろうと万葉仮名のように発音を写し取っているのだ。
「倭の五王」の在位年と『日本書紀』での各天皇の在位年とが全く合わない。
また、ヤマト王権の大王が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など1字の漢風の名を名乗ったという記録は存在しない。
南朝(東晋-梁)側が勝手に東夷の王に漢風の名を付けることなども例が無く考えられないので、「倭の五王」はヤマト王権の大王ではないと考えられる。
渡りて海北を平ぐること九十五国、王道融泰にして、土を廓(ひら)き、畿を遐(はるか)にす。
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唯一、武王の書いたものとされるのが、上表分の中の、倭王武からみて、朝鮮半島を指す「海北」という倭の五王の発信地の記載である。
皆さん、どうか日本地図を見て欲しい。
「海北」とは九州から見てそのものズバリ「海北」だ、畿内からでは、「海西」になってしまうのではないか。
藤原不比等1997/3/1いき 一郎 (著) 三一書房
藤原鎌足の子であり、藤原時代の始祖となった不比等。記紀編纂を牛耳り、律令国家=天皇制国家をつくりあげ、強大な力を持った人物。この史上最大の「悪人」の表と裏を、民間研究者が15年の歳月をかけて追った。
たった20年ばかり(親父の鎌足を含めれば5,60年)の仕事で 藤原レジーム(藤原氏独裁政権)を作り上げた不比等は凄いと思う。
不比等が精魂を傾けた最大の仕事が、「修史」作業だろう。
古事記、日本書紀を完成させ、風土記の編纂も手掛ける。
しかし、不比等のしごとのうちで、最も成功したのはおそらく、「聖徳太子の創造」(主に大山誠一説)であろう。
「藤原不比等の能力のひとつに、文字づくりがある。
天皇という字の使用は720年の日本書紀完成以前という説が成立するならば、この重要な字の案出、使用には当然、不比等がかかわっていたと考えられる。
また、ヤマトは倭、大倭の訓となったが、この読み方も、邪馬台国論の基本にかかわる大きな判断の分かれ目となる。
不比等は、倭をヤマトと読ませ、大和とするなかで、巧みにヤマト=日本、ヤマトを日本の古代の中心に置き換えてしまったのである。
これはずる賢いすりかえ、移動、引き伸ばしである。しかし、中国の記録にはそうは書いていないのである。」(藤原不比等1997/いき 一郎)
京都の歴史を足元からさぐる 洛北・上京・山科の巻 2019/1/31森 浩一 (著)学生社
117ページ
ここでも先に注意しておきたいことが一つある。奈良盆地全域を「大和」と表記し、大和政権とか大和の古墳文化などということが当たり前のように使われている。
しかし、「大和」の二字の表記も8世中ごろに初めて使われるので、古墳時代、まして弥生時代に「大和」の二字表記できる地名はない。
使用する漢字によって人々に誤解をうえつけるのは、暗黙のうちに大和中心主義に加担していることになる。
学問とは真実の探求のために死に物狂いの努力を続けることである。
黒塚古墳の発掘で三角縁神獣鏡が化粧具ではなく葬具として大量製作されたことが明らかになっても、まだ黒塚古墳の三角縁神獣鏡を「卑弥呼の鏡」というような非歴史的な言葉を使ってよんでいる鏡の専門家なる人がいるのは、もはや茶番を超えている。
↑あちゃ~ 手厳しい 邪馬台国畿内説、完全論破完全粉砕(笑)!! 素晴らしい!
日本の真の歴史について無知な心理学者の岸田秀は言う。
「わたしによれば、日本人が天孫降臨神話を作り出したのは、すでにあちこちで繰り返し述べているように、7世紀に白村江の戦において、日本の水軍が唐・新羅の連合軍に惨敗して朝鮮半島から追い出された敗北感と屈辱感を補償するためというか、ごまかすためである」
嘘だらけのヨーロッパ製世界史 2007/岸田 秀 (著)新書館より
白村江の戦いで、唐と新羅の連合軍と戦ったのは九州王朝の兵隊である。
畿内ヤマト政権は関係していない。
万葉集に白村江の戦いの歌がひとつもない!
畿内ヤマト政権がまとめた万葉集は「7世紀~8世紀」にまたがる歌集であり、その時期の最大の事件は白村江の戦いである。
だが、万葉集全20巻中、「白村江の戦い」を歌った兵士やその恋人、家族の歌が一切収録されていない。
畿内ヤマト王権に水軍がない。これまで、遺跡もまったく見つかっていない。
天孫降臨神話を作り出したのは、藤原不比等が、天皇というものを強化して(作り出して?)、自分たちがその天皇に嫁さんを差し出して、恒久的に食い物にするために生み出した「システム」だからである。(上山春平「神々の体系」中公新書)
これは明らかに岸田秀の無知による「唯幻論」の暴走だろう。
何でもかんでも心理学上の「補償」概念を当てはめるという無理を犯している。