バタイユはこの本の発刊当時、既存の経済学が経済を論じる際に、特定の地域や共同体について論じるのみで、経済の全般に論じていない点について、不満に思っており、経済全般を論じるにあたって、蕩尽という概念が有効だと述べたようだ。
そして、バタイユは独自の視点から様々な蕩尽を事例として挙げている。
アステカ文明における、人柱テスカトリポカ、ピラミッドや豪奢な教会建築、近代における戦争、ポトラッチ、
とりわけその際の贈答品の破壊、ダライ・ラマが統治を行うチベットの政治機構(僧侶の研究や瞑想・宗教行事のための寺院に多大な寄付を僧侶以外が行っており、その点を蕩尽と考えているようです。
僧侶の生き方そのものも、労働力を蕩尽していると考えているようだ。)、第二次世界大戦後のマーシャルプラン(アメリカの行った敗戦国への無償を中心とした経済援助のことです。)等が蕩尽の例として挙げられている。
学生時代に出会ってからずっと私を魅了している本である。
こと、経済に関してはこれが究極だとの思いがある。
いや、経済に限らない、人間・人類と地球についてと、もっと大きく言ってもいいかもしれない。
ジョルジュ・バタイユ(1897~1962)は、フランスの思想家である。
続編の「至高性」とか「宗教の理論」とかも一生懸命に読んだが、難しすぎていまいちよくわからない。
本書が至高である。何より、わかりやすい。
言ってることをまとめると、太陽エネルギーが過剰だという。
その過剰分が、人類の文化だと。
中でも、問題なのは、その過剰分を消費する、著者は「蕩尽」という言葉を使う、その使われ方に文化、文明の本質があるとバタイユは説く。
戦争ももちろん、「蕩尽」である。
私が、あっと驚いたのは、戦後のマーシャルプラン(アメリカの行った敗戦国への無償を中心とした経済援助のこと)を例にして言ってる部分。
こんなマーシャルプランに対する見方もあるのかとひどく驚いた記憶がある。
ここで超大国アメリカの対外政策をみてみたい。
私は、満州国良かったじゃないかとずっと思ってる。
これから起きること、それはシナ共産党社会の崩壊だ。
だから勢い、大日本帝国が作り出した満洲国が再び脚光を浴びるに違いない。
なぜ、アメリカは日本と協調できなかったのか。
対ソ封じ込め外交を立案した尊敬するジョージケナンもそう言ってる。
1949年12月に蒋介石は台湾に逃れ、中国大陸は共産主義の手に落ちた。
1950年6月には、北朝鮮の侵攻により朝鮮戦争が始まり、
10月には中国が加担して、アメリカを中心とする国連軍と激しい戦闘を繰り広げた。
この頃、(朝鮮戦争時)アメリカでは、”We fought the wrong enemy.”
(我々は戦う相手を間違えていた)という言葉が人口に膾炙していた。
日本と戦ったのは誤っていた、という認識である。
日本を大陸から駆逐したものの、アメリカは共産主義勢力に中国大陸を奪われ、
さらに朝鮮では自ら血を流して戦わなければならない羽目に追い込まれた。
戦後、米国国務省の要職についたジョージ・ケナンはこう主張して、
ルーズベルト政権がとった「ソ連と協力し、日独を叩く」という政策を根本的に批判した。
日本が戦前果たしてきた共産主義の防波堤という役割を、日本を駆逐したために、
アメリカが自ら担わなければならなくなった、という反省である。
「今日われわれは、日本人が韓満(朝鮮、満洲)地域で半世紀にわたって
直面し背負ってきた問題と責任を自ら背負い込むことになったわけであります。
他人が背負っている時には、われわれが軽蔑していた、
この重荷に感じるわれわれの苦痛は、当然の罰であります。」
ジョージ・ケナン
巨大な共産主義国家を生み、朝鮮戦争に駆り出され、ベトナムで間違え、さらにまた湾岸戦争で、自分で育てて(サダムフセインを)自分で切る。
壮大なスクラップアンドビルドではないかと思ったものだ。
これぞまさしく、バタイユのいう「蕩尽」そのものではないか。
初めて日本に翻訳された二見書房版の黒い本が、メモを書き込める部分があって好きだが、本文庫版には、「呪われた部分」のプロトタイプと言える「消費の概念1933」という論文が入っている。翻訳者に感謝したい。