樺太・朝鮮・満州・中国・台湾・仏印・蘭印…
広漠たる大東亜共栄圏を旅した稀代の女流作家は激戦の地で、いったい何を“見た”のか─
「朝日新聞」「毎日新聞」の“従軍作家”となった林芙美子は、
母国の兵士たちと寝食を共にしながら、過酷な戦地を駆けめぐった。
彼女が自分の目で確かめたかった“本当の戦争”とは何なのか。
残された貴重な記録をもとに、その足跡を辿る。
これは、“従軍作家”林芙美子による『大東亜戦争全記録』である─
「林芙美子ほど“戦線”を広く踏破した作家はいないだろう。
幸い、作家だから多くの記録を残している。
これは、宝の山が手つかずに目の前にあるようなものだ。
なにしろ、彼女が当時書いたものは、後世の『東京裁判史観』とは何ら関係のない『一次史料』だから、読むだけで面白い。
また、どんな戦争の概説書よりも、とっつきやすいし読みやすい。
それがそのまま、大東亜戦争とは何だったのかを知り、考える機会になる」
──著者「はじめに」より
はじめの部分、100ページ辺りまでの世界漫遊旅行が面白い。
すごい行動力だ。
圧倒される。
唖然としたのは当時、ソビエト大使だった広田弘毅(のちの首相)に外交文書を届けるため林芙美子がアタッシュケースを渡されモスクワに赴くところ。
ちゃんと、正式の外交文書の作法にのっとり、封でいされた文書が入っていたと。
最初の26歳の時の台湾旅行で、彼女は「植民地」と言う言葉を連発する。現在、この言葉には負のイメージがあるが、植民地という用語には本来、善悪・正邪の価値判断は含まれない。当時はむしろハイカラな響きがあったという。
また「土人」という言葉も出てくるが、これも差別用語ではなかった。現代の国語辞典でも「土地の人」とある。
アイヌ問題とも絡むが、「旧土人保護法」というのは何ら差別用語ではなかったということがよくわかる。
帰国して書いた「放浪記」が売れたため、この印税で早速、芙美子は満州・中国の旅に出る。
そして、林芙美子は昭和12(1937)年の大晦日に再び、東京日日新聞・大阪毎日新聞(のちの毎日新聞)の特派員として、半月前に陥落したばかりの中華民国の首都・南京を訪れ、13年の1月3日まで滞在する。
南京市内に3泊、前後に露営を1泊ずつ、計5泊6日で”大事件”を目撃するのに十分な時間である。
しかし帰国後わずか半年で出した彼女の書に収められた南京従軍記には、一言の虐殺行為も出てこない。
南京市は東京都江東区や那覇市程度の広さしかなく、こんな狭い所で何十万人規模の大虐殺が行われていれば、彼女が気づかないはずがない。
しかも新聞記者やカメラマンと行動を共にし、いつでも情報は真っ先に入る立場にいたのに、彼女は何らの虐殺行為も記録していない。
穏やかで平穏な南京市内の様子が書かれているだけである。
芙美子なら、捕虜や市民の”処刑”を目撃したら迷わずそれを書いただろうと、宮田氏は言う。
彼女には、なるべく衝撃的な作品を書かねばならない理由があったからだ。芙美子には強力なライバルがいて、彼女に負けたくないと思っていた。
そのライバルは芙美子を「ジャーナリズムの寵児の位置を命を懸けて死守した」と述べている。
その1年後の漢口攻略戦で従軍した際には、捕まえた中国兵を処刑するシーンや城内に死体が散乱する描写もあった。
陸軍派遣という制約の中で、日本軍に不利なことまで書いている。
それに対し、南京戦は民間の新聞社派遣で、より自由であり、しかも、当時の新聞の中で最も戦意を煽っていた東京日日・大阪毎日新聞の派遣だった。
芙美子は虐殺があったのに書かなかったのではない。
南京で大虐殺などなかったのだと、宮田氏は断言する。
抗日蒋介石政権の敗退後、「防共親日」を旗印にする新政権が南北に誕生した。
南京陥落の翌日、北京に中華民国臨時政府が成立し、昭和13年3月28日には南京に中華民国維新政府ができた。両政権は将来の合流を約束して4月に協議し、東京に合同で駐日弁事處を置き、代表が来日した。
大虐殺などあれば、数ヶ月で親日政権が南京にできるだろうか、と宮田氏は述べている。
■そもそも、「南京大虐殺」ってホントにあったの?
南京戦に参加した数万の日本軍将兵も、取材にあたった約120人の新聞、雑誌社の特派員やカメラマン、その他占領直後、南京に入城した西条八十、草野心平、大宅壮一、小林秀雄、野依秀一、杉山平助、林芙美子、石川達三といった著名な詩人、評論家、作家だれ一人として見たこともなく、噂すら聞いたこともない事件であります。
9年もたって、「東京復讐裁判」で突如として日本弾劾のために引っ張り上げられ、創作された「事件」です。
▽しかも日本人だけではなく、国際都市南京は、占領後も残留民、第3国人が50名以上もおり、揚子江には米英の艦隊が多数停泊しており、ニューヨーク・タイムズ、シカゴ・トリビューンA・Pの特派員、パラマウントのカメラマン等、外人記者が5名もいたのですが、誰も大虐殺など見ていないし、
南京大虐殺などというような記事は、当時はどこにも流布されていない。
ダーディンやスティールが日本を断罪するかのような「証言」をはじめたのは戦後のことです
★当時の中国・国民党政府は、南京陥落時も、以降も200回以上メディア向けに記者会見を行っていますが「南京大虐殺」なるものには一度も触れていない なぜか??
「南京虐殺」とは悪質な反日与太話だからである 日本人でこれをいうやつは他意がある。気をつけろ
(参照『南京事件の総括 虐殺否定の15の論拠』謙光社 田中正明著)
(参照『真説南京攻防戦』近代文藝社 前川三郎)
南京市には安全避難区がもうけられており、そこには22名の外国人がいた。
この避難区は1937年12月13日から1938年2月9日までの間に南京市内でおきた犯罪について61回の報告書を提出している。
そのリポートは日本大使館、アメリカ、イギリス及びドイツ大使館にも送られており、そのリポートの内容はこの2ヶ月で、殺人41件、騒乱44件、レイプ361件、違法収用390件、強盗その他170件となっている。
しかしこれらの報告はすべて噂話を書いたものであった。
いわばこれらのすべてに対して誰も目撃者がいないのだ。
1946年から1948年に開かれた東京裁判では、マギー、アッシュモアフィッチ、ベイツそしてウィルソンの4人が召還されているが、彼ら全員がこれらの事件はすべて自分たちが目撃したものではないことを証言した。
この裁判において、これらの犯罪が実際に誰も目撃もなくすべて風聞であることが証明されている。
ジョンラーベと言えば、南京市に安全避難区を作ったメンバーだ。
多くの中国人が彼こそが南京大虐殺の目撃者であると自信を持って反論してくる。
しかしながら彼はたった一度さえも大虐殺というシーンを見てはいない。
にもかかわらず、ジョンの祖国であるドイツのヒトラーに数多くのレポートを送り、日記にもそう残している。
しかし事実、彼の日記の数字そしてドイツに送ったその数字には大きな隔たりがあるが何故だろうか?
反論されるのを恐れてか、ジョンは日本宛の手紙にはその被害者を49名と書き、その反面、ドイツのジャーナリストとヒトラーに宛てた手紙には数万人もが日本人に殺されたと書いてありその違いはあまりにも大きすぎる。
何故このような間違った手紙をヒトラーに送ったのだろうか?
ドイツ人歴史家Gerhard Krebs(ベルリン自由大学)によると、
その理由は彼の本国であるドイツの、政治的権力が裏にあったと説明している。
第1次世界大戦による財政困難と疲労にあえいでいたドイツにとって、中国は最高の貿易パートナーであったのだ。
蒋介石は中国共産党との戦闘で、大量の兵器をドイツから購入している。
そんな状態から一変したこの支那事変は、ドイツ本国の政策転換を迫られていたのである。
日本政府は繰り返しドイツに対して、中国に武器を輸出しないよう求めていた。
蒋介石軍が日本の戦争相手だったからだ。悩んだ末にヒトラー政権は、中国における巨大な軍需産業の利益よりも、安全保障上ソ連を牽制する必要から日本との関係強化を選び、中国の蒋介石政権への武器輸出を控えた。
(事実、1940年にはドイツと日本は同盟を結んだ。)
それにひとり強力に反対する人物が親中派の軍需産業ジーメンスの利益代表ジョンラーベだったのだ。
また、在中国ドイツ大使館の秘書官で、ジョンラーベのレポート内容を南京市まで確認して戻ったP. Scharfienbergは、1938年1月9日にこう述べている。
「2月10日漢江ドイツ大使館より。ラーベは確かに日本軍の血なまぐさい窃盗事件などに割り込み帆走しているようだ。俺に言わせてみれば、そんなことは我が国ドイツに関係のないことだ。だが第一、暴行事件といっても、すべて中国人から一方的に話を開いているだけではないか。」
!!!!!!!!
■(Part1)Before the battle of Nanking, the commander General Iwane Matsui ordered the Japanese army to be very careful not to kill any civilians. During the battle, every civilian took refuge in the Nanking Safety Zone. Japanese army did not attack it, and there were no civilian victims, except for several who were accidentally killed or injured by stray shells. John Rabe, later handed a letter of thanks for this to the commander of the Japanese army.
南京戦が始まる前、日本軍司令官である松井石根は南京市民を殺さないように徹底していた。
あの戦闘中、全南京市民は避難区に集結し、日本軍はそこを攻撃しなかったので、間違って死傷者を出す以外の被害者はいなかった。
ジョンラーベは後に松井にこのような手紙を送っている。
December 14, 1937 Dear commander of the Japanese army in Nanking, We appreciate that the artillerymen of your army did not attack the Safety Zone. We hope to contact you to make a plan to protect the general
Chinese citizens who are staying in the Safety Zone….We will be pleased to cooperate
with you in any way to protect the general citizens in this city.
–Chairman of the Nanking International Committee, John H. D. Rabe–”
ジョン・H・D・ラーベ
(法廷証323号検察番号1744号抜粋、弁護人朗読、極東国際軍事(東京)裁判速記録210号))
1937年12月14日 親愛なる日本軍司令官へ 避難区を攻撃しないでくれたことを深く感謝する。
今後のこの避難区にいる中国人達をどのように守っていこうか、是非貴殿とお会いしお話をしたいと思っている。
私たちはこの人々を守るために、あなたと協力できる事を本当に嬉しく思う。南京安全避難区ジョンラーベ
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↑東京裁判で日本無罪の証拠として提出されたが、アメに都合が悪いから却下
もし日本軍が南京市民を大量虐殺したくてたまらないのなら、この南京避難区に爆撃をすればすむことであった。
しかし日本軍はそんなことはせず、市民を守ったのである。国際法学者まで帯同させていたんだよ
日本軍司令官・松井はこう考えていた。
戦争の目的はその土地を占領することではなく、中国人兵士自らによる殺戮行為から、
中国人民達を守ることであったと。
日本は中国大陸にに西洋列強や共産勢力に、食い物にされ支配されない独自の強い中国政府を、中国人民と共にこのアジアに作りたいと思っていたのである。
本書の中に、GHQによって削除され、大きくバツ印の付いた初稿ゲラに残っている坂口安吾の一文が紹介されている。
「私は戦争を最も呪う。だが、特攻隊を永遠に賛美する」
私には、日本の為に命をかけてくれた日本軍の全ての人に向かって書かれていると思える。
同時代を生きた全ての人に向かって書かれていると思える。
戦後、途中で死のうとも、大切な日本に必死になって帰国しようとした日本人、食べる物もなく焼け野原だった日本に辿り着きながらも力尽き、病死や餓死した日本人。それでも痩せ衰えながらも帰国した日本人と日本で空襲や原爆にあいながらも生き残った日本人は、日本の復興のために必死で立ち上がり前を向いて働いてくれた。感謝しか感じない。
著者は、「同じ日本人が否定し、貶める事があってはならない」そう書いている。
林芙美子といえば、近所に「林芙美子記念館」があることに気が付いた。
自宅が焼け残って、そのまま記念館になっているという。
心臓麻痺で急逝したあとの、葬儀の写真が本書にあるが、これほどの人出、まさしく人気作家だったということがわかる。
放浪記も読みはじめた。
青空文庫というサイトでタダで読める。
面白い。
苦労したんだなと、ウィキペディアをみて思った。
それでも、妙な明るさがある。
それがまた、林文学の持ち味でもあろう。
つぎは何を読もうかなとみていると、なんとそこにはあの傑作映画「浮雲」があるではないか。
個人的には、あの七人の侍を超える大傑作だ。
彼女が亡くなる戦後、晩年に書かれたものだと知る。