「大リーガー」はスパイだった―モー・バーグの謎の生涯 (20世紀メモリアル) 1995/ニコラス ダウィドフ (著), Nicholas Dawidoff 平凡社 大リーグ史上「最も聡明な」野球選手はなぜ、「スパイ」になったのか。

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大リーガーにして弁護士、十数カ国語を操り、そしてスパイだった男モー・バーグ。
ナチスの原爆製造阻止に動き、第2次世界大戦の帰趨に裏から深く関与した謎の生涯を描く。

モーリス・モー・バーグ(Morris “Moe” Berg、1902年3月2日 – 1972年5月29日)はアメリカの野球選手
(ボストン・レッドソックス、シカゴ・ホワイトソックス等のキャッチャーである。

また、アメリカ軍の戦略諜報局(OSS)[1]やその後身の中央情報局(CIA)などアメリカのスパイであったことでも知られる。
ニューヨーク出身。プリンストン大学を優等で卒業。コロンビア大学法科大学院卒。

日本語を含む12カ国語を話し、毎日10種類の新聞を読んだ。スポーツ記者からは「野球界で最も頭のキレる男」、
「歴史上、最も異色なメジャーリーグ野球選手」と呼ばれたりもした。

 

1934年、日米野球のためメジャーリーグ選抜として来日した際、11月29日に大宮球場で開催された試合を欠場して、東京・明石町の聖路加国際病院の屋上から東京市街一円を16ミリカメラで撮影し、この時に撮影された映像は8年後の1942年に行なわれたドーリットル空襲に利用された。

日本を愛したスパイ 1979/日本放送協会 (著)
『16ミリフィルムに秘められた44年前の謎
こよなく日本を愛した、ある大リーガーの数奇な一生をドラマチックに描いた、異色のドキュメンタリー』

↑同じテーマ、同じ人物を追っている好ドキュメンタリー。

ただ、ダウィドフの「大リーガー」はスパイだったのほうが、けた違いに詳しい。

モー・バーグは、ウクライナ生まれのユダヤ人らしい。生後、すぐにアメリカに移住した。野球と日本が本当に好きだったみたいだ。

日本には大リーグ選抜として2度来日。

1度目の船旅で一通りの日本語はマスターしてたと。
生涯独身。
まだ当時、プリンストン大学ではユダヤ人に対する差別もあり、孤立していたという。

日本を愛したスパイ 1979/日本放送協会の方でも、関係者にずいぶん話を聞きに行って、彼が撮影したフィルムが、ドーリットル空襲に利用されたのかというところを追っているが、確証は得られなかったということだ。

限られた時間の中で当時のNHK取材班もよく食いついてる。

あの平野次郎さんがリーダーだ。

CIA長官、モー・バーグの古い友人、はてはドーリットル空襲の隊長にまでインタビューを敢行している。

その中で、皆が口々に言うのは「モー・バーグは日本と日本人が大好きだった。大リーガーとして来日した時の思い出話をいつも笑顔で語ってた。」

唐突に会話の脈絡を無視して、モー・バーグの日本賛辞が始まったとのこと。

それよりも印象に残ったのは、原爆開発にまつわるドイツ、アメリカのせめぎあいに関することだ。

「ナチスの原爆製造阻止に動き……」
ヴェルナー・カール・ハイゼンベルク(Werner Karl Heisenberg, 1901年12月5日 – 1976年2月1日)は、ドイツの理論物理学者。行列力学と不確定性原理によって量子力学に絶大な貢献をした。

1941年、ハイゼンベルクはデンマークのボーアを訪ね、「理論上開発は可能だが、技術的にも財政的にも困難であり、原爆はこの戦争には間に合わない」と伝え、あるメモを手渡した。
ボーアはそのメモをアメリカのハンス・ベーテに渡した。
ベーテによると、それは原子炉の絵だった。

ハイゼンベルクのシンクロトロンが、火災を起こし、懸命な消火活動によっても、1ヶ月間鎮火することはなかったため、世界中にニュースとして配信されたところ、その新聞記事を読んだアルバート・アインシュタインは、「ハイゼンベルクがとうとう、原子炉の開発に成功したので、原爆を作るのは時間の問題だ」と考えた。

ボーアからベーテの手に渡ったハイゼンベルクのメモには重水炉のシェーマが記されており、これを見せられていたアインシュタインは、妄想にしか過ぎなかった原子爆弾開発競争を覚悟した。

ハイゼンベルクは、ナチス高官による、電力不足の解決方法を重水炉でするという方法を打ち明けたが、自らは重水炉の開発をサボタージュした。

それを知らなかったアメリカは、スパイを使っては、学会会場や、パーティー会場で何度もハイゼンベルクの暗殺を謀ったが、全て失敗に終わった。

 

↑失敗に終わったわけではなく、まさにピストルを忍ばせたモー・バーグが、当時、スイス・ジュネーブで開催されたハイゼンベルクの講演会の最前列に座り、原爆開発について、少しでも肯定的な見解を述べたら、すぐさま、モー・バーグがハイゼンベルクを射殺する手はずになっていたという驚くべき記述がダウィドフの本にある。

 

原爆に対するアメリカ側の真剣さというか緊迫感を物語るエピソードではないだろうか。

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