金印偽造事件—「漢委奴國王」のまぼろし 新書 2006/三浦 佑之 (著)幻冬舎 ……じつは江戸時代の半ばに偽造された真っ赤な偽物だった。では、誰が、何の目的で……

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1784年、志賀島(現在、福岡県)の農民・甚兵衛が田んぼの脇の水路から発見したとされ、日本史の教科書にも掲載されているあまりに有名な「金印」。

これは、建武中元二年(西暦57年)に後漢の光武帝が同地にあった小国家の君主に与えた「漢委奴國王印」と同定されたが、じつは江戸時代の半ばに偽造された真っ赤な偽物だった。

では、誰が、何の目的で造ったのか?鑑定人・亀井南冥を中心に、本居宣長、上田秋成など多くの歴史上の文化人の動向を検証し、スリリングに謎を解き明かす。

三浦佑之
1946年三重県生まれ。成城大学大学院博士課程修了。千葉大学教授。古代文学、伝承文学研究専攻。『口語訳古事記完全版』(文藝春秋)が第1回角川財団学芸賞を受賞した(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

作家・三浦しをんさんのお父様でもある三浦佑之氏の著作は全部読んでいるが、最も衝撃的で忘れられないのが本書である。

折に触れて引っ張り出して読み返している。

出たときに読んだが、極めて胡散臭い本だとはじめは思っていた。

だが、気になり、引っ張り出して読むにつれ、「共感」というか、著者の説得力のある論旨に引っ張られ、今ではもう、真偽、半々ではないかと思っている。

 

志賀島の金印の怪しい点

1 傷ひとつない。金ぴかである。真実性を高めたといわれる中国出土の約2000年前の金印は二つとも古墳から出てきたのに、傷だらけである。

2 志賀島の発見された土地があまりにも僻地すぎる。福岡市が海中調査まで行ったが何もなかった。入れ物の石組みの破片くらいは見つかってもいいのではないか。

3 初めに鑑定した福岡藩、儒者の亀井南冥がそもそも現地へ行っていない、行こうとしていない。なぜなのか?

4 金印が志賀島で見つかってから、しばらくの間、保管していたという米屋才蔵、奉行の津田源次郎、亀井南冥の3人が顔見知りであったという「偶然」?

↑3番目が私見では一番怪しい。

 

発見者の農民・甚兵衛というのは実在すら疑わしい人物だとのこと。

最初の、そもそもの福岡藩に対する口上書のようなものに登場するだけだという。

ひっぱりだこというのは大げさにしても、発見の当時を振り返るということを、もしも実在してたなら、だれか話を聞きにいかなかったのか。



著者は、福岡藩、儒者の亀井南冥が怪しいとの説である。

米屋才蔵が金を出し、奉行の津田源次郎が口裏を合わせた「金印偽造犯罪」だという。

当時、福岡の町だけで、刻印する職人はたくさんいたという。

まさにこのとき、福岡藩に藩校が2校同時にできた。

関東人の私でも知ってる著名な修猷館と甘栄館である。

平民出身の亀井南冥は甘栄館の館長として大抜擢された。

館長として、亀井南冥の初めての仕事が、まさに金印「漢委奴國王」の鑑定である。

「天明4年(1784)、2月1日、館長へ就任。

同じ月の23日に志賀島で金印「漢委奴國王」が発見され、亀井南冥はその鑑定者として、福岡藩はおろか、全国の学者たちに名声を轟かせることになった。
まるで甘栄館開校の御祝儀のような金印出現を、亀井南冥は、「筑州興学の初年に顕れぬれば、文明の祥瑞とも云うべき」と言って感激した。」

1790年、6年後、亀井南冥は突然、退役処分となる。

金印を偽造したという計画が福岡藩にばれて、そういう処分を受けることになったのではないか。

福岡藩にしてみれば、まかり間違えば、おとり潰しにもなる重大な瑕瑾である。

亀井南冥はその後、痴ほう症状が出て、72歳のとき、自宅火災で焼死してしまったという。

 

「福岡市にとっても、九州国立博物館にとっても、かけがえのない国宝として、金印「漢委奴國王」は存在するのである。

今や金印「漢委奴國王」は、福岡藩=福岡市の宝物というよりは、日本国の成立を象徴する国宝として燦然と輝いている。

それをにせものというのだから、もし間違っていたら、ただではすまないだろう。」112P

さらにあとがきで、

「この原稿を売り込む段階で、学者と同様に、出版社も危ない橋は渡りたくないと思っているのがよくわかった」と書いて、なかなか引き受け手のない論考であったと明かし、幻冬舎への謝辞を述べている。



おや、どこかでこれ聞いたなと思ったら

土偶を読む――130年間解かれなかった縄文神話の謎 2021竹倉 史人 (著) 晶文社

土偶を読む――130年間解かれなかった縄文神話の謎 2021竹倉 史人 (著) 晶文社
土偶を読む――130年間解かれなかった縄文神話の謎 2021竹倉 史人 (著) 晶文社

著者の問題意識、暴露?は深すぎる。

「ところが私が自らの研究成果を発表しようとすると、関係各所から「考古学の専門家のお墨付きをもらってきてください」とストップがかかるようになった。
これはつまり、「考古学者でもないあなたの土偶研究を信頼するわけにはいきません」という宣告であった。」

読んだ本を無責任にブログで論じる分には、誰からも非難されないが、素人が専門外に口を出すと、途端にハードルが上がるわけか。

ただ、専門外だから、素人だからこそ見えてくるものがあるのではないか。

考古学なんて、シュリーマン、直良信夫の昔から、「素人の独壇場」ではないか。

皆さんはどのように考えますか?

 

併せて読みたい

「漢委奴国王」金印・誕生時空論―金石文学入門〈1〉金属印章篇 (金石文学入門 1 金属印章篇) 2010/鈴木 勉 (著)雄山閣

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技術史学が読み解く「金印」の謎。「金印」の誕生時空論は、「金印」が何時何処で生まれたかを科学的に明らかにしようとする試みである。
これまでの鑑定結果や先行研究者の尊厳などに対する配慮などからひとまず離れ、「金印」の技術要素・文化要素の一つ一つが、一体何時の時代のどこの地域に存在していたのかを明らかにしていく作業を積み重ねていくことになる。

↑この本は、金印否定説のなかでも画期的なことを言ってる。

ほぼ同時期に製作された「廣陵王璽」金印と「漢委奴国王」金印との製作技法の相違について、同じ技法ではない。

「廣陵王璽」は線彫りで「漢委奴国王」金印は浚〈さら〉い彫りであり、同じ王宮官房で作成されたとは思われない、と疑念がある。

廣陵王璽と「金印」とを比較検討することによって、もし両印が製作技術も同じであると証明されれば、確かに「金印」は後漢の官営工房尚方で製作されたことを裏付けるものとなるはずであった。

しかし、はからずも筆者は、製作技術の違いから両印が根本的に異なる生産システム下で製作されたことを指摘することになり、同一工人による製作や、同一工房における製作の可能性を否定することになった。

つまり廣陵王璽は「金印」の漢代製作説を証明する資料ではなかったのである。

邪馬台国と金印 1974/村山 義男 (著)新人物往来社

研究史金印 1974/7/1大谷光男 (著)吉川弘文館

金印再考―委奴国・阿曇氏・志賀島 2014/大谷 光男 (著)雄山閣

今なお偽作説・私印説の唱えられている金印「漢委奴国王」古代中国の印制、金印発掘の経緯の再検証に加えて、金印出土地周辺を本貫としワタツミ三神を祀った阿曇氏の消長、中世以降の志賀島の変容を追いながら、真印の立場から金印研究の現状と今後の課題について詳論する。

古事記学者ノート(コジオタ ノート) ―神話に魅せられて、列島を旅して― 2017/三浦佑之 (著)青土社




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