謎を秘めた纒向遺跡研究の最新成果
邪馬台国、卑弥呼、ヤマト政権と深く関わる「纒向(まきむく)遺跡」研究の最新成果を、各分野の第一人者14名が解説し、寺沢薫との対談でより明解に解き明かす。
まずこの本と出会って驚いたのは、大和書房という、あの「東アジアの古代文化」という伝説の季刊誌の発行元が、まだ存続してこのような大部の・750ページもある!!考古学の本を出版しているということだ。
この出版社の設立者である大和岩雄氏の書かれた著作も面白かった!!
『日本古代試論』大和書房 1974、 『古事記成立考 日本最古の古典への疑問』大和書房 1975
『古事記偽書説の周辺』名著出版 1979
『古事記と天武天皇の謎』六興出版 1979、 『日本古代王権試論 古代韓国との関連を中心に』名著出版 1981
『天照大神と前方後円墳の謎』六興出版(ロッコウブックス)1983
『「日本」国はいつできたか 日本国号の誕生』六興出版 1985、 『天武天皇出生の謎』六興出版(ロッコウブックス)1987
『天武天皇論』全2巻 大和書房 1987、 『『古事記』偽書説は成り立たないか』大和書房 1988
『神社と古代王権祭祀』白水社 1989、 『神社と古代民間祭祀』白水社 1989、 『邪馬台国は二カ所あった 邪馬台国から初期ヤマト王権へ』大和書房 1990
『人麻呂の実像』大和書房 1990、 『信濃古代史考』名著出版 1990
『天智・天武天皇の謎 『日本書紀』の虚偽と真実』六興出版 1991、 『人麻呂伝説』白水社 1991、 『鬼と天皇』白水社 1992
『遊女と天皇』白水社 1993、 『秦氏の研究 日本の文化と信仰に深く関与した渡来集団の研究』大和書房 1993
『日本にあった朝鮮王国 謎の「秦王国」と古代信仰』白水社 1993
ほぼすべてを読んでいて、それから更に再読の機会が多いという素晴らしい著作ばかり書かれた方である。
私は、強固な邪馬台国九州論者であるし、おまけに最近では誰も触れなくなった九州王朝論者
でもあるから、こういう邪馬台国畿内説論者が集まった論考は面白かった。
まず、何よりも邪馬台国畿内説論者たちがダメダメなのは、その狗奴国の場所の比定についてである。
3世紀(弥生時代末期から古墳時代初期)の倭国で邪馬台国の尽きるところである南に位置する。
魏志倭人伝には「女王国の東の海を越えるとまた倭種の国」とある。
畿内説だとこの部分が全く説明がつかない。畿内説では琵琶湖を無理やり「東の海」としているようだが・・・
さらに言えば、>參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里(魏志倭人伝)
一周が5千里(約400km)余りの島だってんだから、九州島以外にはあり得んだろ、近畿説とか頭おかしい…
『魏志倭人伝』には、倭人は、「鉄の鏃(やじり)」を使うと記されている。
「鉄の鏃」は、福岡県から398個出土している。 奈良県からは、わずか4個しか出土していない。
圧倒的な差がある。
それでも、『魏志倭人伝』に、なんの記載もない「土器」の話などをもちだし、複雑な理論構成をして、「邪馬台国は、畿内説できまりだ。」などと主張する考古学者がいる。科学に必要な簡明さにおよそ欠けている。
いかなる矛盾にも目をつむってよいのであれば、どんな議論でもなりたつ。
数々の状況証拠からして、現・熊本県以外ありえないのに、邪馬台国畿内説論者たちは、尾張にあったとか、三重県にあったとか言ってる。
まず、この段階で読む気をなくすが、我慢して読み進めるが、邪馬台国畿内説は相変わらずダメダメである。
邪馬台国と狗奴国と鉄 2010/2/1菊池 秀夫 (著)彩流社 邪馬台国畿内説の皆さんよ、これこそまさしく東遷の証拠じゃないの??

考古学者・森浩一氏が、九州からいくら鉄が出てきても畿内説の考古学者は
無視するが、近畿地方から鉄のかけらでも出てくれば大騒ぎする、
と言っていたが、これは畿内説の考古学のあらゆる面で妥当する。
九州の数百と言われる高度な鉄鍛冶遺跡には触れず、淡路島の原始的な
鉄鍛冶遺跡を「日本最大級」と発表したりする。
畿内説の考古学は少し疑ってかかる方がいい。
淡路島 五斗長垣内遺跡
遺物の鉄器は、矢尻、鉄片、鏨(たがね)、切断された鉄細片など75点が出土した。
熊本 西弥護免遺跡
西弥護免遺跡では弥生終末期 581点の鉄器が出土している。さらに鉄滓などもあり。
↑75対 581 !! まるっきり比較にならない…
しかも、狗奴国と思われる熊本県には、弥生時代の鉄鍛冶遺跡がほかにもゴロゴロある。
1000キロの海を渡った「大王の棺」: 九州から大阪、実験考古学の航海が解く古墳の謎 2008/澤宮 優 (著)現代書館 近畿の古墳の石棺のピンクの石って熊本産なんだろ?おまえら、嫌いな国の、地方の産物に囲まれて死にたいと思う?これこそ東遷の証拠じゃねえか

日本古代の国家形成: 征服王朝と天皇家 (講談社現代新書 128) 1967/10/1水野 祐 (著)

この関係の数冊を読んだが、わざわざ熊本からピンク石を運んだのは一体誰だったのかについての考察がないのが残念である。
私はこの事実を知って、水野裕先生の「狗奴国、九州の覇王になった」説を思いだした。
狗奴国は女王卑弥呼の邪馬台国と長らく対立してて、以降の文献に記載はないが、けっきょく狗奴国が勝利して東遷を開始したのではないかとの説である。
あと、それからこの問題で一番無視できないのは地名遷移のことだ。
【邪馬台国】奈良と福岡の地名が酷似している理由【朝倉市】【桜井市】
奈良のサルイン チャンネル登録者数 413人
1.8万 回視聴 9 日前 #朝倉市 #桜井市 #大神神社
こういう話は好きなので取り上げましたが
邪馬台国のことあまり知らないのでみなさん教えてください!
…
↑この人は、関西在住の関西人であり、古代史の知識もない人であり、ややこの地名遷移という問題にも否定的であるところが、この動画の優れているところ…
この動画に関して、「…30年前の安本美典説…」という、明らかに邪馬台国九州説を揶揄するかのような畿内説の書き込みが散見されるが、この地名遷移に気が付いて初めて取り上げたのは地理学者・鏡味完二氏1964年である。

地理学者・鏡味完二
1909~1963。名古屋市立工藝高等学校教諭、愛知学院大学講師を務める。専門は、「地名学」。地名学とは、地名の成り立ちや各地の命名法則などを研究する学問のこと。主要著書に『日本地名学 科学篇』『日本地名学 地図篇』『地名学』などがある。
古墳私疑: アマにはアマの視点・疑問がある 2001/11/1井戸 清一 (著)浪速社 いったいどこの誰がこのような僻地に、このような壮大な古墳を築いたのか?

図7 大和郷のまわりの地名

邪馬台国東遷説 第三章 神話のなかの地名
図8 九州 夜須町のまわりの地名

移住した人たちが出身地の地名を新しい地名につけるのは、古今東西かわらぬ人情である。
いま由緒ある地名が失われてゆくが、もともと地名は長く伝承される傾向が強い。
三氏の指摘に対して(地理学者・鏡味完治1964年、安本美典、考古学者・奥野正男)、歯切れのいい反論は寡聞にして知らない。あるいは論争に巻き込まれないよう無視を続ける賢明な策を選んでいるのかもしれない。 39ページ
松本清張の推理小説「鴎外の婢」から、「神代帝都考」(狭間偉三)豊前に邪馬台国があったとする明治時代に出版された書物・を引用している部分。
『近畿地方に成立した古代王朝の前身が、その東遷以前に、北九州の部族連合体であったことは、三世紀半に編纂された三国史東夷伝倭人の条の記事を見ても明らかである。
(中略)記紀には人名にも地名にもトヨの字が多く出てくるが、魏志倭人伝の「台与」がその音を写したものとすれば、後代に「豊」の漢字をあてはめた地名は北九州にずっと以前からあったものとみなければならない。
ツクシが奈良朝期にできた九州の広い呼び名で、豊の国がその中の狭い地域の呼び名であったことから、豊のほうが古い名であり、大化後の行政区画である豊前豊後のうち、豊前がその原体である。
それも豊前平野を占める京都郡(旧仲津郡を含む)が中心であったことは、従来史家のいずれも認めるところである。(後略)』
「海柘榴市は大和磯城郡(今の三輪町付近)にもある。
これが豊前の地名の東漸であることは、ツバキ市に関連する古地名が長門、周防、阿波、因幡、伊勢の経路に分布していることでも知られる。
地名の移動が民族の移動に付随することは、アメリカにおけるイングランド移住民の故郷地名の例をまつまでもない。
また、大和の海柘榴市がその地名の本来の由来を喪失していることは、日本紀略、枕草子に地名しか載せていないことでも分り、これも豊前の うたがきがはるかに古い証である。」
私に言わせれば凡庸な論考の多い中で、ひときわ光っているのが坂靖氏の論考である。
聞けば、同志社大学で森浩一先生の薫陶を受けた研究者であるらしい。
さすが、という感想を持った。
葛城氏という「氏族」はいなかった……には感銘をうけた。
坂氏の論考は広がりを見せ、大王氏族・紀氏の鳴滝遺跡群(和歌山県で発見された紀氏のものと思われる大倉庫群)、淡輪たんのわ古墳(紀氏がさいしょに畿内に上陸したと思われる)、まで短いながら言及しているのは凄いと思った。

紀氏は大王だった: 消された邪馬台国東遷と紀氏東征 1995/日根輝己 (著)燃焼社
第1部は邪馬台国の東遷と紀伊・熊野が本州における「イズモの原郷」である事を中心に立証。
第2部は邪馬台国の後を追うように紀伊にやってきて大和で王権をたてた紀氏の「奪われた歴史」の回復と紀氏こそ大王だった事を立証。
あの唐古・鍵遺跡で、最終的に7重の環濠が掘られたというのに、時代の遅れる、わずか5キロしか離れていない纏向遺跡に環濠がない!!
この事実こそが、最重要である。
3世紀、4世紀の奈良盆地、そこは金剛山地に阻まれた、敵からの攻撃を避けうるフロンティアだった。
蘇我、物部、平群、大伴、巨勢、これらの氏族はほとんど九州からこのフロンティアに到達した。
これは、明らかにシナの「威信」を借りて、鏡が日本で作られ、九州を真似て、畿内の古墳にたくさん配られたからである。
大部分、九州からやってきたという事実を偽り、てんでんバラバラに、奈良盆地を開拓し、そこに古墳をつくりはじめた。
それこそが、いわゆるヤマト政権の原初であろう。
『ウィッグで新しい自分を発見!』「ウィッグ・エクステ Brightlele」
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YouTubeには色々と不満がある(特にちょうせんじん関係のコメント削除)がこういうものを無料で見られるというのは感謝感謝だ……畿内ではありえぬ「邪馬台国」 — 考古学から見た邪馬台国大和説 関川尚功

「大和・畿内説」で中心として考えられるのが、纒向遺跡、箸墓古墳である。
本書の著者は、長年、纒向遺跡をはじめ、箸墓古墳など多くの大和地域の発掘・調査に携わってきた。
そんな著者が出した結論は、「邪馬台国の存在を大和地域に認めることは出来ない」
数々の史跡、遺跡を発掘してきた著者が語る本当の「邪馬台国大和説」。
考古学者、歴史学者は、祭りごとのために築かれたと言ってるが、たった400年(古墳時代)に、20万基もだよ、冗談は顔だけにしてくれと言いたくなるではないか。
今に比べれば、はるかに食料も乏しい、人口も少ない中での20万基だよ。
「ピラミッドの目的は完成後の『用途』にあるのではなく、造るという『製作』過程そのものにあるのである」
『ピラミッドの謎』1975 物理学者・クルト・メンデルスゾーン

物理学者、メンデルスゾーンの知見(ピラミッド公共事業説)は我が国でおびただしく造られた古墳にもそのまま当てはまる。
消失した(宅地化、農地化)されたものを含めれば20万基以上の古墳がこの狭い日本列島に造られたものと思われる。
まずこれを異常と思わずしては先には進まない。
いわゆる、「渡来人史観」批判…【今回は重要です】渡来人は倭人だった 渡来人が何万人も朝鮮半島から渡ってきたというの無理ではないか?? その狭間を埋めるもの、それがまさに九州王朝説である

九州王朝論者(法隆寺移築説)からみた、「古墳はなぜつくられたのか?」

九州王朝信奉者からみた、「法隆寺を支えた木」(西岡常一)2019

古代九州王国の謎 (1976年) 神西 秀憲 (著) 新人物往来社 本書は古代日本の歴史はすべて北九州の中だけにあったという、古代史実を述べようとするものである。

豊日別宮 女神信仰と邪馬台国 田中了一著・2000年 自費出版 邪馬台国だけではなく、「倭国」の実態も、もしかしたら、この辺りにあったのではないか?

「……しかもこの地域は中臣郷であり、祭神官を司っていた中臣氏にふさわしい祓郷村や、祓川があり、中臣氏に神事のありかたは、祓うということをもちいていた。
また伊勢斎宮の地に祓川があり、このことから欽明は斎宮を立て、天照大神を祀った御神体は中臣郷の祓川そばにある豊日別宮こそが、伊勢の源神であり、神鏡に魂を入れ御神体として運ばれ、斎宮の祓川は源神の聖地に流れる祓川にちなんだものとみられる。」
豊後国風土記(8世紀前半)にも豊前仲津郡中臣村とあり、倭名類聚抄(931年 – 938年)にも中臣郷とある。
中臣氏は、ここに、九州北東部に確かにいて、邪馬台国の高級官吏だったのではないか。
奴佳鞮 なかて? ぬかて?ズバリ これが中臣氏ではないか?
最後に、これをどうしても書きたかったという、素晴らしいことを著者が述べている。
第4部 天皇への道 2,志紀県主は先住部族の首長 258ページ
大和朝廷の始祖とされる神武天皇が即位した橿原の地が磯城(シキ)で、古市古墳群のあたりも志貴(シキ)と呼ばれている点である。
「しき」という言葉には、半島倭から北部九州を経由してきた部族の聖地にからまる何らかのいわれがあるのではないだろうか。
彼らが王都としてきたところを必ず「しき」と呼ばれていることに注目したい。
じつは、福岡県 御所が谷の神籠石もかつて、「ほとぎやま」と呼ばれていた。
現地へ5回行って、地元のおじさん2名に聞いたことだからこれは確か。
ほとぎやまとは、シキ、あの正岡子規のシキである。
これが偶然とはとても思えないのだ。
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