博識すぎて混乱するところもあるが、72ページ「庶民は天皇を知っていたか」とか、80ページ「日本神話が庶民に知られるようになったのは明治以降」とか、
あと、とくに第4章、「光明皇后の易姓革命」は興味深く読んだ。
日本の歴史の中でも最も興味ある時期である。
たった20年ばかり(親父の鎌足を含めれば5,60年)の仕事で 藤原レジーム(藤原氏独裁政権)を作り上げた不比等は凄いと思う。
不比等が精魂を傾けた最大の仕事が、「修史」作業だろう。
古事記、日本書紀を完成させ、風土記の編纂も手掛ける。
しかし、不比等のしごとのうちで、最も成功したのはおそらく、「聖徳太子の創造」(主に大山誠一説)であろう。
「藤原不比等の能力のひとつに、文字づくりがある。
天皇という字の使用は720年の日本書紀完成以前という説が成立するならば、この重要な字の案出、使用には当然、不比等がかかわっていたと考えられる。
また、ヤマトは倭、大倭の訓となったが、この読み方も、邪馬台国論の基本にかかわる大きな判断の分かれ目となる。
不比等は、倭をヤマトと読ませ、大和とするなかで、巧みにヤマト=日本、ヤマトを日本の古代の中心に置き換えてしまったのである。
これはずる賢いすりかえ、移動、引き伸ばしである。しかし、中国の記録にはそうは書いていないのである。」(藤原不比等1997/いき 一郎)
天孫降臨神話を作り出したのは、藤原不比等が、天皇というものを強化して(作り出して?)、自分たちがその天皇に嫁さんを差し出して、恒久的に食い物にするために生み出した「システム」だからである。(上山春平「神々の体系」)
とはいえ、私はといえば、強固な天皇制支持者である。
ただ、その理由は一点、昭和天皇が余りにも素晴らしいお方だったので、その御父上である大正天皇も、そのまた御父上の明治天皇にも尊崇の念が沸き起こるというもの。
こういう理由は珍しいに違いない。本書で、あまた紹介されている天皇制支持者のなかにも、そういう人はいないようである。
冗談抜きで、先の大戦で日本は滅んでもおかしくなかった。
それを救ったのが、昭和天皇その人である。
昭和20年9月27日。
昭和天皇とマッカーサー、二人が初めて会ったとき、昭和天皇が言ったことについて様々な声がある。
「マッカーサー回顧録」(1964津島一夫訳)によれば、
「私は天皇が、戦争犯罪人として起訴されないように、自分の立場を訴えはじめるのではないかという不安を感じた。
……しかし、この私の不安は根拠のないものだった。天皇の口から出た出たのは、次のような言葉だった。
『私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした』
私は大きい感動にゆすぶられた。死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきでない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまで揺り動かした」
ジョン・ガンサーという内幕ものを得意とするアメリカのジャーナリストがいて、「マッカーサーの謎リドル1951」という興味深い本がある。
1950年(昭和25年)、来日し、GHQの後押しもあったのだろうが、昭和天皇との単独会見もやってのける。
その中で、マッカーサーから聞いた話として、こんなやりとりを昭和天皇との間でしたという。
「わたしの国民はわたしが非常に好きである。
わたしを好いているからこそ、もしわたしが戦争に反対したり、平和の努力をやったりしたならば、国民はわたしをきっと精神病院か何かに入れて、戦争が終わるまでそこに押し込めておいたに違いない。また国民がわたしを愛していなかったならば、かれらは簡単にわたしの首をちょんぎったでしょう」(木下秀夫訳)
さらに、昭和天皇は戦後の回想(昭和天皇独白録1990)の中で、このように述べている。
「私がもし開戦の決定に対して、『ベトー』をしたとしよう。
国内は必ず大内乱になり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない。それは良いとしても結局、凶暴な戦争が開始され展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、果ては終戦もできかねる始末となり、日本は亡びることになったであろうと思う」
『ベトー』とは、ラテン語の拒絶を意味し、もし、自分が戦争に反対すれば、殺されていただろう、戦争を押しとどめることは、誰にもできなかったというのである。
我が国の戦後社会では「ハル・ノートを受け入れても開戦すべきではなかった」という人たちがいる。
そうしていたら300万人の犠牲も、全土を焦土とすることもなく済んだ、というのである。
当時の世界の経済機構はブロック経済である。各国の経済活動は自らが支配する経済圏を基盤になされていた。
もし我が国がハル・ノートを受け入れてたら、どうなっていたであろうか。
資源もない日本で、原料輸入にも製品輸出にも、食料輸入すらにも不自由するブロック経済機構を背景にくらさねばならないのである。
腰をかがめて貧しい生活に耐えていくか、不満分子が暴発するか、暴力革命でも起こってソ連の手下になったか、
いずれにしても社会的混乱は避けられなかったであろう。
社会主義国にでもなっていたら、その過程で幾百万の生命が絶たれ、幾千万が収容所に送られたか想像もつかない。
大東亜戦争の結果、アジア植民地の19世紀的構造は破壊された。それは欧州のブロック経済機構の崩壊を意味する。
勝利した連合国すら世界経済機構へ進まざるを得なくなったのである。
我が国は、食料輸入も原材料輸入も、そして製品輸出も可能になった。
我が国の世界第二の経済大国への道は、その世界経済機構を基盤に開けた。
300万人の犠牲も、全土を焦土にしたことも、決して無駄のみとは切り捨てられないのである。
「戦争に負けてよかった。そのために現在の世界第ニの経済大国ができた」などという者がいる。
思わざるも甚だしい。負けたから経済大国が出現したのではない。
経済大国が出来たのは、陸軍を主体とした南方作戦に勝ったからである。
それがブロック経済機構を破壊して、世界経済機構に移行せしめたからである。
『帝国海軍「失敗」の研究』 佐藤晃 芙蓉書房出版 2000/8/1
見事な分析である。これに付け加えて、マッカーサーの胸中を推察したい。
マッカーサーは厚木に降り立ったときから、とにかく、相当ビビっていたに違いないと思う。
「マッカーサーは厚木に降り立ったとき、失禁していた」(高山正之氏エッセイ)
バターン死の行進なども、いつの間にか、日本軍が悪いということになってるが、もとはと言えば、マッカーサーがコレヒドールの戦闘を放棄して自分だけで逃げ出したことに由来する。
オキナワ(バックナー中将爆死)、カミカゼ、硫黄島、タラワ、ペリリュー島……。
キチガイじみた戦いぶりの、昭和天皇は何といっても最高司令官様である。
キル・ジョンウンか臭菌平を数等倍上回る悪魔キャラを想像してたに違いない。
ところが、会ってみて……。
混乱して信じられなかったに違いない。
あと、大切なこと。
人種差別の世界だったということ。
みんな忘れてるが、人種差別というもの厄介なもの。
昭和天皇は戦後の回想(昭和天皇独白録)の中で戦争の遠因として以下のように述べています。
「この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦後の平和条約の内容に伏在している。
日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州(カリフォルニア)移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに十分なものである。又青島還付を強いられたこと亦然りである。
かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がった時に、之を抑へることは容易な業ではない」
人種偏見、差別の強い白いアメリカで黒人の次に日系米人は強い差別を受けていた。
大正13年5月31日 アメリカ大使館に隣接する空き地で割腹の自刃を遂げた無名の青年がいました。
アメリカ国内では「反日機運」が強くなり、その年の4月に「排日移民法」が成立したことに対して、「生きて永く貴国人に怨みを含むより、死して貴国より伝えられたる博愛の教義を研究し、聖基督の批判を仰ぎ、併せて聖基督により、貴国人民の反省を求め…」と遺書を残しアメリカに抗議しての自決でした。
↑黒人の大統領が出てきたり、今じゃ考えられないだろ、こんなの。騙しだまし、やってきたけど、堪忍袋の緒が切れったってところか。
有色人種(全アジア人)が「人間」であることが認められたのは、
大東亜戦争が人種解放戦争だったからだ !
先人の偉業に感謝…
靖国神社にいきましょう。
日本は、「東亜百年戦争」を戦ったのである。(「大東亜戦争肯定論」林房雄)
日米は、まったく別の戦争をした…
アメリカ → 人種差別戦争
大日本帝国 → 亜細亜解放戦争(聖戦)
米兵がお土産として家族や恋人に送った日本兵の頭蓋骨(1944年5月22日の「ライフ」誌掲載)。
アリゾナ州フェニックスの軍需工場労働者ナタリー・ニッカーソン(20歳)が、ボーイフレンドから贈られた日本兵頭蓋骨のお礼の手紙を書いている。 戦利品の日本兵頭蓋骨を送られた恋人 (タイム誌)
http://www.aubetec.com/~rimbaud/blog/WindowsLiveWriter/df849f3ccc27_EA1D/skull%5B4%5D.jpg
”Arizona war worker writes her Navy boyfriend a thank-you note for the Jap
skull he sent her”
http://blog-imgs-47.fc2.com/r/y/u/ryuma681/20130211040403252.jpg
岩田温『人種差別から読み解く大東亜戦争』(彩図社) 文庫とは思えない屈指の密度 ぜひ、読んでほしい。
本書の基調をなす基本的テーマは日本の国際連盟における「人種差別撤廃決議案」と「大東亜会議」の精神である。
いずれも現代日本では保守論壇においてのみ、議論となるが、左翼を含めた論壇では完全にネグレクトされてきたテーマでもある。
大東亜戦争が「侵略戦争」であり、朝鮮、台湾、シナを「植民地」として搾取したという奇妙奇天烈な史観は、本書を読むまでもなく、
左翼史家とGHQが合作した戦後の似非歴史学(いや、歴史というよりプロパガンダだろうが)である。
日本が大東亜戦争を開始したとき太宰治も高村光太郎も狂喜乱舞の心境、これで長らくもやもやとしてきた心理的な靄が晴れたというような表現をした。
日本中が開戦に同意し、支持し、人種差別と搾取、人間を奴隷扱いしてきた欧米英国に対する正義の戦争だと考えていた。
名著「大東亜戦争肯定論」の中で、著者は、明治維新以来の天皇制は、欧米白人勢力に対抗してやむを得ず、生み出されたもので(著者の言葉でいうところの、武装天皇制)、それ以外の日本の歴史においては、天皇は文字通り、象徴として穏健平和をむしろ代表していたと述べている。
400年前、モンテーニュは「随想録」の中で、
「1560年頃、モンテーニュはある航海者に連れられてきた3人のブラジル・インディアンにルーアンで出会った時、「お国の酋長の特権はどんなものか」と尋ねた。自分も酋長であったインディアンの一人が答えて言うには、「それは戦争のときに先頭に立って進むことである」と。モンテーニュはこの高潔な定義に感嘆して、「随想録」の名高い一章の中にその話を詳しく述べている。」
400年後、フランスの文化人類学者、レヴィ・ストロウスが著作「悲しき熱帯」の中で、
「しかし、あれから4世紀のあと、私もまた、ブラジル・ナムビクワラ族の酋長から同じ返答をされて、驚きと感嘆を久しくしたものだ。文明国は、政治哲学にこれほどの確固不動のものを持ってはいないのではないか!」
あとは言うまでもなく、「それは戦争のときに先頭に立って進むことである」ことと、我が国の武装天皇制は同じであるということだ。
当時、広島市総務課長だった小野勝氏が次のように書いている。
「水を売ったような静けさも御言葉が終わると同時に破れた、ドッと上がった万歳の声、再び飛ぶ帽子、舞うハンカチ、溢れる涙、
こんな国民的感激を、こんな天皇と国民との感情の溶け合いを、何時、何処で、
誰が味わったであろうか」(小野勝「天皇と広島」広島文化社S24年)
天皇巡幸 全国を巡幸中の昭和天皇が被爆地の広島市を訪問した。護国神社跡広場を埋め尽くした7万人の市民は
人間宣言をした象徴天皇を万歳で迎えた。帽子を振って応えるその先は爆心地方向で、原爆ドームが見える。
右は広島県商工経済会ビル=1947(昭和22)年12月7日 https://ironna.jp/article/1303?p=2
昭和天皇 地方ご巡幸 https://youtu.be/GKJdH_z5qJs?si=rHTTlzHlDQzu0ChO 69,677 回視聴
戦後復興のミラクルはこの御巡幸にあると思う。何もかも焼き尽くされた国土に立つ国民は何を頼りに生くべきか。そんな時代であったと思う。
昭和天皇にはこの国土を蹂躙したアメリカに憎しみこそ感じても、国民のことを思うと、自身が犠牲になれば国民が救われるならと言うお気持ちで
マッカーサーに食糧調達を願い出た。
このような元首が他に存在したであろうか。
この国は天皇がおわす国なのだと言う誇りを改めて胸を刺した。
さいごに、ロシア人の映画監督がこんなことを言ってる。
映画『太陽』オフィシャルブック 2006/アレクサンドル ソクーロフ (著), Aleksander Sokurov (原名)太田出版
終戦前後の昭和天皇の葛藤を赤裸々に描いたロシア映画『太陽』。世界各国で絶賛されながら日本公開が危ぶまれた、この作品の全貌がついに明らかに!アレクサンドル・ソクーロフ監督へのロング・インタヴューから。
「天皇を国家の頂点に輝く特別な存在にして、国家機構から切り離したのは、非常に賢明なやり方でした。
だからこそ敗戦が決定的なものになって政府が壊滅したときでも、日本の国民は、自分たちの利益を擁護してしてくれる存在を失わずにいられたのです。
たとえば、ドイツの場合を見てごらんなさい。
しかし、日本には天皇がいました。
戦いではなく、話し合いの相手として……。アメリカの歴史学者などの中には、「天皇は自分の命を救おうとしただけだ」という意見もあります。しかし、自分を守るにもいろいろなやり方があるじゃないですか。天皇はその中で最も危険な方法を選んだのです。
いつ殺されてもおかしくない方法をね。自分から現人神としての権限を剥ぎ取り、アメリカ人たちと対話を始めようとした天皇の決断は、国民を救う行為でした。
まさにこのために、天皇制という制度が長い間存在してきたのだと言っていい。アメリカ代表のマッカーサーは、天皇と会って、彼の話を聞き、その考え方に触れて、天皇という人物に、理解できない狂信者ではなく、世界の文明の一部を担う一人の人間の姿をみたのではないか。昭和天皇はじっさいにそういう人間であったはずです。」
日本が分割されなかったのは、沖縄と硫黄島と、カミカゼ、マッカーサーを心服させた昭和天皇(敗戦のご決断も昭和天皇)が大きい。
英霊たちに感謝…。
日本がアメリカに負けた時の君主が昭和天皇で本当に良かった。