同調圧力、自粛警察という言葉とともに、村八分が注目されている。
日本の精神風土に顕著な制裁行為の歴史を初めてたどる研究書。
近現代史に独特の視点を持つ著者の本はほとんど読んできた。
今回も面白かったので取り上げてみる。
なお、この著者はブログも面白いので、覗いてみることを進める。
村八分の定義から。
戦中から戦後にかけて、東京都南多摩郡恩方村の戸数14の集落に居を定めていた、作家・翻訳者(ファーブル昆虫記)の きだみのるによれば、ムラの掟・4章があり、「火を出す」、「ころし(殺傷)」、「盗み」、「ムラの恥を外に漏らす」だという。
「気違い部落周遊紀行」(1948)、「日本文化の根底に潜むもの」(1956)、「にっぽん部落」(岩波新書1967)
選挙違反を告発した新聞社への投書から女子高生への村八分が始まったという「静岡県上野村・村八分事件」。
新藤兼人・監督、菊島隆三(黒澤明・用心棒)脚本で映画にもなったようで、私も観たが傑作といえる出来であった。
令和3年、大分県宇佐市の山間部で起きた村八分事件。
集落出身のAさんは、兵庫県で公務員の職についていたが、定年退職後の2009年、母の住む故郷に帰り、農業を始めた。
あることをキッカケにして、住民から村八分を受けるようになった。
そのキッカケとは、「中山間地域等支払制度」(山間部での農業に対し、農水省が交付金を支払う制度)の運用について、不審の念を抱いたことだった。
「私は2020年まで、所有する畑を知人に貸していて、交付金はその知人に支給されていました。
しかし、賃貸契約が終了し、私自身が耕作をはじめてからも耕作者の名義変更が行われず、交付金が知人へ支払われ続けていたんです。
その説明を市の農政課に求めたりしていたら私を排除しようという動きが急に出てきました」
些細なことから村八分は起きていることがよくわかる。
私見だが、村八分する側に正義がないことが多い。
まさに、理不尽である。
挙げられているなかで特に驚いたのは、オリンパス株式会社のコンプライアンス室問題2007.
当時、オリンパスの社員であった浜田正晴さんは、上司が取引先の会社の社員を引き抜こうとしているのを知った。
これは、会社の信用失墜につながると考えた浜田さんは、会社のコンプライアンス室に通報した。すると、このことが、当の上司などに漏れた。
その後、浜田さんは経験のない部署に異動させられ、社内の人間関係から孤立させられ、密室で責をうけるなどの報復を受けた。
和解が成立したとき、会社側から、「会社に来なくていい。給料は払うから」と言われた。
「そんなサラリーマンいますか? そんな特権をもらうために裁判していたわけではありません。普通に働かせてください」と反論し、受け入れられたという。
村八分とは田舎でだけで起きるわけではないことがよくわかる。
コンプライアンスも何もへったくれもあったものではない、ひどい会社もあったものである。
松本清張の「闇に駆ける猟銃」(津山30人殺し事件)を取り上げ、併せて、「津山30人殺し、76年目の真実」(石川清、学研2014)という好著も紹介する。
この事件で辛うじて難を逃れた寺井ゆり子さん(仮名)にインタビューし、犯人の都井睦男に関する重要な証言を引き出す。
「……耳が遠いので、すみませんなあ。貝尾の事件? 都井むつおさんの事件? もう93歳でしてなあ。
むつおさんの事件? わたしは同級生でした。
家族が死んだとき津山まで呼び出されて警察で話しました。
(中略)むつおさんはなあ、村八分になったんじゃ。
近所の人もあぶない、あぶない、と教えてくれておった」
悲痛である。
なにせ30人殺しである。
いじめの、村八分のパワーの凄さを感じずにはいられない。
中村吉治(1905~1986)という歴史学者がいたという。
1957年に出された「日本の村落共同体」(日本評論新社)が画期的であったと著者は言う。
「村八分は、共同体の崩壊過程においてのみ生じるものである」という中村吉治の説や、それを受けた谷川健一の「村八分は江戸時代には起こりにくく、明治になって多発する」という。
↑それはどうかなあと思う。だって、江戸時代と明治以降の村八分の現状を検証できないから。
とはいえ、「封建遺制」という言葉が大好きな日本の進歩的知識人(むろん、中村吉治がそうだという意味ではない)に騙されてはいけないとつくづく思う。
翻ってこれは日本だけの現象ではないと思うがどうだろうか。
アメリカ・ニューイングランド地方の開拓時代に頻発した魔女狩り(セイレムの魔女)や、中世ヨーロッパで吹き荒れた魔女狩りも「村八分」であり、言わせてもらえば、かつて北米で起きた日系移民への激しい差別も一種の「村八分」だと思う。
国際的な白人種の「いじめ・村八分」に対して立ち向かった答えが、真珠湾攻撃である。
私は本気でそう思っている。
個人的には僭越ながら、速水保孝をぜひ取り上げて欲しかった。
速水は島根の出身であるが、その生家は地元で有数の大地主であり、同時に狐持ち、すなわち憑きもの筋のイエだとされていた。
速水自身、幼少の頃から狐持ちだと揶揄されたり、結婚に際して、相手方の母親から狐持ちであることを理由に結婚を反対されたりといった差別を受けた経験があったのである。
速水は「運命に泣き、運命とあきらめて行く、私たち狐持ち家筋の人々のため、いな、全農民を封建的迷妄から解放するために、私はどうしても、この本を書かずにはおられませんでした」[速水 1999(1953)]と述べているが、
自身が受けてきたような、いまだに残る憑きもの筋への差別を打破するために、速水は「憑きもの」についての研究を始めるようになり、その著書である『憑きもの持ち迷信』を書いたのである。
このような動機から始まった速水の憑きもの筋研究の成果にはさまざまなものがある。
その中でも特筆すべきなのは、一部の地域における憑きもの筋の起源について明らかにし、なぜ憑きもの筋が誕生したのかを明らかにしたことである。
併せて読みたい
つきもの持ち迷信の歴史的考察―狐持ちの家に生れて (1953年) 速水 保孝
憑きもの持ち迷信 1999/速水 保孝 (著)明石書店
排日の歴史―アメリカにおける日本人移民 (1972年)若槻 泰雄 (中公新書) 新書
排日移民法の軌跡 : 21世紀の日米関係の原点 吉田忠雄 著 経済往来社 1990
アメリカの人種的偏見;日系米人の悲劇 (1970年) ケアリー・マックウィリアムス/新泉社