九州王朝信奉者からみた、「古代朝日関係史: 大和政権と任那 1969/金錫 亨 (著), 朝鮮史研究会 (編集) 勁草書房」

健康 古代史 時事一般

3,4年前に図書館の閉庫から借りて読んだが、こういう本は私の場合、付箋だらけでラインだらけになるので、浅く読んで、泣く泣く図書館に返したことを強く覚えていた。

今回、よく行く古本屋の店頭で見つけてしまった!!

おれ、狂喜!!

たった300円だった。しかも、箱付きで中身はまっさら。出版社の注文伝票まで入っていた。

ありがたき幸せ…

原著は1965年に書かれ、著名な「倭国分国論(古代朝鮮人たちが日本に来て朝鮮の分国をつくっていたとの論」)」を展開。

 

この本を読んでもっとも感銘を受けたところは、我が国における「古墳の発祥地」についてである。

竪穴式石室の後に、横穴式石室が出てくる。

……横穴式古墳構造が、北九州から全国に普及したという明白な事実はできるだけ避け、その前の竪穴式石室の「普及」また同様であるにもかかわらず、わざとあまり明白でないことのように言っておいて、近畿から九州へという逆の順序を強調している。

……少なくとも前期古墳の中心が近畿にあったのではけっしてないことを示している。この時には、中心はまだないか、あったとしても、むしろ北九州以外ではなかったのである。

198ページ

 

韓半島南部に倭人が造った前方後円墳
―古代九州との国際交流―
朴  天  秀
(慶北大学考古人類学科教授)file:///C:/Users/Dynabook/Downloads/KJ00007843639.pdf

はじめに
従来日本列島のみに分布する墓制と考えられてきた前方後円墳は 1980 年
代、韓半島南部の栄山江流域で発見されて以降、現在まで計 13 基が確認され
てきた。(図1参照)いずれも5世紀末から6世紀前半にかけて造られたものだ。

ホウラ製貝釧 iii、仿製鏡が出土した。また海南長鼓山古墳からは須恵器も出土した。

繁根木型のゴホウラ製貝釧は、佐賀県の関行丸古墳、福岡県の王塚古墳の周
辺に位置する櫨山古墳と、熊本県の江田船山古墳に隣接する伝佐山古墳から出
土していることより、これら九州の集団によって栄山江流域に搬入された可能性が極めて高い。

いっぽう、栄山江流域産の土器は対馬と北部九州に集中する傾向が見られる。

とくに周防灘に臨む福岡県苅田町の番塚古墳、福岡市の梅林古墳では栄山江流域産の鳥足紋土器が
石室内に副葬されており、日本列島の前方後円墳でこの地域産の土器が副葬されたのはこの 2 例のみである。

栄山江流域産の土器の分布をとおして、造山古墳で見られるような繁根木型貝釧の分
布と九州系石室の分布との強い相関性を認めることができる。

以上のことから、韓国・栄山江流域における前方後円墳の被葬者は、横穴式石室、
繁根木型のゴホウラ製貝釧、栄山江流域産の土器の分布、江田船山古墳の副葬
品のような百済系文物の分布から周防灘沿岸、佐賀平野東部、遠賀川流域、室見川流域、菊池川下流域などに出自をもつ複数の有力豪族と想定できる。 

↑如何であろうか?

 

韓半島南部に倭人が造った前方後円墳は間違いなく、九州王朝の人たちが韓半島に渡って作ったものだ。

 

何より、韓半島南部に残る前方後円墳が「九州臭い」のは、ゴホウラという奄美大島以南じゃなきゃ取れない貝を削った腕輪がでていること。

福岡市埋蔵文化財センターのHPから

 

ただ、その際、カギとなるのは、畿内ヤマト政権の存在である。

畿内ヤマト政権に、水軍がない。これまで遺跡も見つかっていない。

畿内ヤマト政権は「ひきこもり」政権である。

金剛山地の右側に引きこもって、外敵をシャットアウト。ひたすら、大古墳を作りまくっていた。

あんなに大層な古墳をたくさん作ってるんだから、朝鮮半島に進出して当然だと考えてる人・学者多すぎる!

逆じゃない?

あんなにたくさん古墳つくってるから、すべての労力を古墳づくりに削がれて、朝鮮半島に進出なんかできなかったのではないか。

 

任那日本府というのも畿内ヤマト政権がつくりだした作文である。

その証拠に、日帝時代、日本人考古学者、歴史学者が大挙して半島に行って「任那日本府」の痕跡をさぐったが、けっきょく何もみつからなかった。

任那日本府 - Wikipedia

↑とりあえず、これを読んで欲しい。

何たる徒労、何たる無駄!!

全ては畿内ヤマト政権が、九州王朝の半島との外交記録をパクったところに出てきてる混乱である。

私は、日本書紀にたくさん出てくる半島との交流記事も、大半はそれは九州王朝との交流記事であり、畿内ヤマト政権がそっくりそのままパクったのではないかという疑問を持ち続けている。

根拠は、たくさんあるが、ここでは一つだけ、金錫 亨氏もおかしいと言っている「百済が我が国を指していう「貴国」」についてひとくさり感想を述べたい。

日本書紀において、百済が我が国を指していう「貴国」という表現がある。

これは礼称ではなく、一般固有名詞である。

日本書紀に頻出する。

https://tsukudaosamu.com/pdf/4-2.pdf

PDFだがこの論考が微に入り細に入り、貴国が畿内ヤマト政権のことではなく、北部九州に存在した王権であることを解き明かしている。

これより、400年ばかり下った平安時代のこと。

キの国という、日本語の発音が重要だ。

東海の姫氏の国…

日本の国民はすべて苗字をもっているが、天皇家には苗字が無い。

ところが、ある時期まで、天皇家は「姫氏」を名乗っていた時期がある。

天皇家は689年の飛鳥浄原令の発布以前まで「姫氏」を名乗っていた。

平安時代の講書(日本書紀を天皇に講義した記録)に書かれている博士の質疑の一つに「わが国は姫氏と呼ばれているのは何ゆえか。」とある。

↑これらもすべて九州勢力の王朝のことではないだろうか?

 

「古墳の発祥地」、「任那日本府はなかった」については賛成できるが、そのほかのことについては首をかしげざるをえないところが目立つ。

一番よくないのは、例の広開土王碑の碑文に関する解釈だ。

百殘新羅舊是屬民由来朝貢而以耒卯年不貢因破百殘倭寇新羅以為臣民

百済新羅はそもそも高句麗の属民であり朝貢していたが、やがて辛卯年以降には朝貢しなくなったので、王は百済・倭寇・新羅を破って臣民とした。— 好太王碑

と記されており、「破百殘」の主語を高句麗とみなして、倭が朝鮮半島に渡って百済・新羅を平らげた話ではなく、あくまでも高句麗が百済・新羅を再び支配下に置いた、と金錫 亨氏は解釈している。

倭が海を渡ってきて百済・新羅を平らげた。

中国人の研究者もみなその読み方だ。

韓国ちょうせんの研究者だけ別に読む。それは無理がある。

 

 

書かれたのが1965年ということで、韓半島南部に残る前方後円墳に対する認識が甘すぎる。

あれこそ正しく九州王朝が海を越えて前方後円墳を、80基あまりも作ってた証拠だ。

私しか言っていないが…(笑)

 

「異形」の古墳 朝鮮半島の前方後円墳 (角川選書) 2019/高田 貫太 (著)KADOKAWA  「九州王朝論者」からみた、南韓半島に残る前方後円墳について

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日本人の祖先は縄文人だった! ―いま明かされる日本人ルーツの真実 2021/長浜 浩明 (著) 展転社 これは、驚くべき本である。また、とても怖い本でもある。

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九州王朝信奉者からみた、「法隆寺を支えた木」(西岡常一)2019

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