建国神話の社会史-虚偽と史実の境界 (中公選書 102) 2020/古川 隆久 (著) 中央公論新社

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天照大神の孫が高天原から降臨し、その孫である神武天皇がヤマトに東征、橿原宮で天皇の位に就く――『古事記』『日本書紀』に記されたこれらの神話が歴史的事実ではないことは、戦前の普通の々にとっても当たり前のことであった。

史実ではないが、史実として扱い、そう振る舞っていたのである(こうした「建前と本音」的なものは、現代の私たちにも心当たりがある)。

神話の「史実」化には、天皇による統治を正当化するという明治政府の政治的目的があったのはもちろんだが、一方で民主化(神々の話合いは「万機公論」の根拠とされた)や経済振興の手段でもあったことは、今ではあまり知られていない。

もっとも、「神話」を「史実」として受け止めることには、さまざまに無理も生じる。とくに教育現場における混乱は、いくつもの「笑えない」笑い話を残した。

この著者は割と誠実だと思う。
私が大嫌いな、少なくとも反日バカサヨクではないようだ。

ただ、如何せん、日本の建国神話を、日本単独で、国内状況だけで説明してしまうという重大なミスを犯している。

白人種が作った秩序のなかに日本はいた…
たった一人で…

そのことを考察せず、日本国内の状況だけで説明しようとしてる。
それは無理がある。

■1898年、日本の抗議にもかかわらず、米国が謀略によってハワイ王国を併合。

■1899年~1903年、アメリカ・フィリピン戦争。米国がスペインから独立させたフィリピンを植民地に。

■1919年、日本は国際連盟規約宣言の中に人種平等の原則(人種差別撤廃条項)を挿入することを提案し、
17票中11票の賛成を得たが、委員長ウィルソン大統領(米)は、「斯かる決議には全員一致を要する」との理由で拒絶。
http://jp.youtube.com/watch?v=L7KN5h8YHrE

■1922年、アメリカ最高裁が「黄色人種(日本人)の帰化権はない」と判決。
すでに帰化した日本人の権利まで剥奪できるとした。

■1924年、「絶対的排日移民法」が成立。
米国は、ヨーロッパからは毎年何十万人もの移民を入れていた時、日本人移民を一人も入れない法律を作った。

■1939年3月、米国は、支那が軍用機や発動機を購入のために1500万ドルを借款
■1939年7月26日、米国が日米通商航海条約を破棄
■1940年1月4日、米国が錫、屑鉄の対日輸出額を前年度の半分にすると通告

■1940年6月5日、米国が工作機械の対日輸出を禁止

■1940年7月31日、米国が航空機用ガソリンの東半球への輸出を禁止
■1940年9月26日、米国が屑鉄の輸出を全面禁止

■1940年9月25日、米国が重慶政権に2500万ドルの借款
■1940年11月3日、米大統領が重慶政権に更に5000万ドルの追加借款
■1940年12月2日、米国が蒋介石の重慶政府に一億ドルの借款供与

■1941年3月31日、ルーズベルト大統領が提出した武器貸与法案が成立。米海軍が護衛する輸送船団により連合国へ武器供与を開始

■1941年7月23日、ルーズベルト大統領など米国首脳がフライング・タイガーによる日本本土爆撃計画に署名

■1941年7月25日、在米日本資産を凍結

■1941年8月1日、米国が対日石油輸出を全面禁止

■1941年11月26日、ハルノート提示

■1941年12月7日、真珠湾攻撃

今では日本でも観光名所として有名なサンフランシスコだが、戦前、この地から排日が始まったと
知っている日本人は少ないのではないだろうか。

日露戦争の1年後の1906年4月18日早朝この町を大地震が襲った。世にいう「サンフランシスコ大地震」であるが、律儀な日本人は義捐金として24万ドル≒50億円超をこの町に贈った。

この金額は、その他各国の援助金の総額より多かったのだが、アメリカの日本へのお返しは同じ1906年にサンフランシスコの条例として定められた「日本人(日系を含む)」の隔離教育だった。

地震による校舎崩壊による整理集合というのが表向きの理由だが、たった百人
ぐらいの学童を、無理に東洋人学校にまとめる必要性は全くなかったと言われている。

これは、セオドアルーズベルト大統領の異例の指示で1年で廃止されはしたが、地震の
翌年、1907年には、この地で「反日暴動」が起き、日本人コミュニティーは甚大な被害を被っている。

さらに1908年には、日米紳士協定という名の実質的移民制限処置が行われている。

ーーーそれでも日本は日米友好を信じ、1909年にワシントンへ桜を贈っている。

不幸にも害虫によって最初の桜は焼却処分にされてしまったが、駆除方法を完璧にして、1912年に再度桜が贈られている。

これが今有名なポトマック河畔の桜である。

そのお返しにと頂戴したのが、1913年の「外国人排除法」である。

これは別名、「カリフォルニア排日土地法」ともいわれるものだが、要は子々
孫々日系人には土地を売らない、持たせない、という法律である。

その後も次々と日本を締め出す政策が取られているが、第一次世界大戦で米兵
として活躍した日系兵士が、やっと手に入れた帰化権や既に帰化している日本
人の権利まで剥奪するということを平気で行っている。

これが彼らのいう「民主主義」である。 怒り!!!!
この当時の民主主義は白人のものであって、黄色人種や黒人のものではなかったのである。

1919(大正8)年、カリフォルニア州上院議員J・M・インマンを中心に排日諸団体が集まって
カリフォルニア州排日協会が作られ、9月にスタックトン市で第一回大会を開き、
以下の5項目を要求していくことを決議した。

1.紳士協約を廃止する
2.日本人移民を絶対に禁止する
3.写真結婚を廃止する
4.東洋人移民を永久的に禁止する法律を制定する
5.憲法修正14条を修正し、米国に生まれても親が帰化不可能外国人の場合には市民権を得られないようにする

1920(大正9)年8月には8万5000人の署名が集まり、住民の提案による立法化の請願が成立した。

11月の一般投票で、賛成66万、反対22万という圧倒的多数によって提案は承認され、外国人土地法が改正された。
これで帰化権のない日本人移民は借地もできなくなり、また子供名義で土地を購入することもできなくなった。

1942年2月19日、フランクリン・ルーズベルト大統領は行政命令9066号に署名、この命令により、
12万人の日系人が強制収容所に送られることになるのでした。

日本人の帰化権が許されるのは、1952年に在米日本人にも帰化権を付与する
ウォルター・マッカランの新移民帰化法が発効されてから

・排日移民法(はいにちいみんほう)は、1924年7月1日に施行されたアメリカ合衆国の法律の日本における通称である。

日本人移民のみを排除した法律ではない。各国からの移民の上限を、1890年の国勢調査時にアメリカに住んでいた
各国出身者の2%以下にするもので、1890年以後に大規模な移民の始まった東ヨーロッパ出身者・南ヨーロッパ出身者・アジア出身者を厳しく制限することを目的としていた。特にアジア出身者については全面的に移民を禁止する。

 

農政学者・川島博之氏の、日本列島7000万人扶養限界説が説得力ある。
「『食糧危機』をあおってはいけない」、文藝春秋、2009年。「食料自給率」の罠 輸出が日本の農業を強くする、朝日新聞出版、2010年。

日本列島は、食糧を輸入しなければ7000万人が扶養の限界だという。
確かに江戸時代には3000万人で固定して推移してて、間引きとかやって、やっとのこと維持してた。
耕地開拓もよくやっていたが、それも大正時代には限界に達したとのと。
明治になって急に開国して、国内で食えなくなった人たちが出始めて、政府も海外移民を後押し。

「ベルツの日記・上巻」(岩波文庫)を眺めていたら、明治の世、すでに3件も、アメリカで反日運動が盛り上がっているとの新聞記事が日本でも出ていた。
食えないから仕方なく移民する。白人と悶着を起こす。

鉄道建設とか請われて行ってやってるのに黄色人種が嫌いなのであろう白人が騒ぎ出す。

日本が戦争を起こした原因について昔から色々な人があれこれ言ってるが結局のところ詰まるところ国内で食えなかったからに尽きると思う。
食わせられないから満洲国とか発案して実行しそれがまた軋轢を生みという展開。

 

大正13年5月31日 アメリカ大使館に隣接する空き地で割腹の自刃を遂げた無名の青年がいました。

アメリカ国内では「反日機運」が強くなり、その年の4月に「排日移民法」が成立したことに対して、「生きて永く貴国人に怨みを含むより、死して貴国より伝えられたる博愛の教義を研究し、聖基督の批判を仰ぎ、併せて聖基督により、貴国人民の反省を求め…」と遺書を残しアメリカに抗議しての自決でした。

昭和天皇は戦後の回想(昭和天皇独白録)の中で戦争の遠因として以下のように述べています。

「この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦後の平和条約の内容に伏在している。
日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州(カリフォルニア)移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに十分なものである。又青島還付を強いられたこと亦然りである。
かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がった時に、之を抑へることは容易な業ではない」

↑これでバカ左翼は戦争を避けられたと思ってるのかね??

 

日露戦争に日本が勝ったことは、その後の世界情勢に大きな変化をもたらした。
米欧諸国が日本に対して本気で牙を剥き始めたのだ

■有色人種とは、白人に跪く家畜である――。二〇世紀初頭、米欧列強は大真面目にそう考えていた。

南北アメリカを押さえ、アフリカを制圧し、アジアはほぼ掌中にあった。問題は白人国家が
どういう形でアジアを分割支配するかだけだった。ところが思わぬ日本の反撃に遭遇し、
米国は特に過敏な反応を示した。大正時代から昭和十年代にかけて実施された『オレンジ計画』が
その代表的なものだ。
「排日土地法」「対日法案」「対日絶対法案」――。
これらの法案は日本を家畜扱いした異常とも思える差別思想で構築されている。

まずは米国人に帰化した日本人の帰化権を奪い、土地を奪い、絶対的に日本人を締め出した。

挙げ句の果てにルーズベルト大統領は、「劣等アジア人種の品種改良計画」を提案する。

――アジア人種はヨーロッパ人種との交配により品種を改良させる。ただし、日本人だけは
品種改良計画から除外し、日本という島国に隔離して衰退させる――。
ルーズベルトのこの計画は、本気で実行に移された。

↑得意げに語るルーズベルトのことをイギリスのキャンベル公使が驚きをもって手紙に書き残してる

今のアメリカからは想像もできませんが、有色人種が人間であることが認められたのは大東亜戦争が
人種解放戦争だったからだ。

先人の偉業に感謝…

靖国神社にいきましょう。

↑バカチョンコ左翼の低能のみなさんは、こういうルーズベルトを相手に戦争を避けられたと思ってるの???

満洲国を企画立案そして実行した陸軍軍人の石原莞爾が言ってる。
非常時とは、体育会の合宿期間のようなもので、そんな苦しい状況が、それがずっとつづくとは思わないで欲しい。

本書では、神武天皇の存在を疑っているが、まるっきり荒唐無稽な物語だと判断しているようだが、こういう報告がある。

洞村の強制移転―天皇制と部落差別 辻本 正教 1990/11/1 解放出版社

菊池山哉(さんさい:大正-昭和の郷土史家)はその著書のなかで、洞村の区長宅で多くの老人たちから聞いた洞村内部の話を次のように伝えている。

「丸山宮址と呼んでいるが、宮があったとは聞いていない。径25間の平地で、円形をなし、その中心が、径3間ぐらい、こんもり
と高く、昔は松の木が茂っており、その上を通ると音がして、他のところとは変わっていた。

その境内に、7つの白橿(しろかしわ)の大木があった。最後のものは周囲すでに皮ばかりで、そのなかが、6尺からの空洞であっ
た。皮ばかりでも『しめ縄』がかけられていた。白橿村というのは、御陵に白檮の大木が7本もあったからで、神代からのものと伝えられていた。

洞村は神武天皇陵拡張のため平野へ移転し、今は街路整然としている。
もとは畝傍山の東北の尾の上であり、『古事記』『日本書紀』は神武天皇陵と伝えているところと一致する。
神社を生玉(いくたま)神社という。祭神は神武天皇とのことだが確かではない。

この部落は、神武天皇陵の守戸であると伝承している。
神武天皇陵は、畝傍山の東北の尾の上の平らなところで、丸山宮址のところ
とも、生玉神社のところとも伝えられている。
旧家は、御陵と伝えられているところの下で、『ひぢり垣内(かいと)』ととなえ井上、辻本、楠原、吉岡などが本家。ともに日向からおともしてきた直系の家来で、そのため墓守になったと伝えている。」

洞村の人々が九州から来て、神武天皇の墓守をしたという伝承は、洞村のすぐそばにある丸山が真の神武天皇陵であることを支持しているように見える。

4,奈良県高市郡 8,高市郡、白橿村、元洞 P376 「長吏と特殊部落」 昭和22年 多摩史談会

↑直接、話を聞きに行ったのが菊池山哉ただ一人というのが悲しいが…

 

「私たちが日本の憲法書いた」=トランプ氏の核武装論を批判-米副大統領★

2016/08/16(火)【ワシントン時事】
バイデン米副大統領は15日、ペンシルベニア州スクラントンで米大統領選の
民主党候補ヒラリー・クリントン前国務長官(68)の応援演説を行い、「私たちが(日本が)核保有国になり得ないとうたった日本の憲法を書いた」と発言した。

大統領選の共和党候補ドナルド・トランプ氏(70)が主張する日本や韓国の核武装容認論を批判したものだが、 副大統領が日本国憲法を「私たちが書いた」とあからさまに言うのは異例。バイデン氏は、「(トランプ氏は)学校で習わなかったのか?

彼に(大統領として)核兵器発射コードを知る資格はない」とも攻撃した。
一方、バイデン氏は6月、米公共テレビ(PBS)のインタビューで、中国の習近平国家主席に対して、北朝鮮の核開発
阻止で協力を求める文脈で「日本は事実上、一夜で核兵器を製造する能力がある」と語ったことを明らかにしている。(2016/08/16-06:54)
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081600107&g=pol

併せて読みたい

排日の歴史―アメリカにおける日本人移民 (1972年)若槻 泰雄 (中公新書) 新書

排日移民法の軌跡 : 21世紀の日米関係の原点 吉田忠雄 著 経済往来社 1990

アメリカの人種的偏見;日系米人の悲劇 (1970年) ケアリー・マックウィリアムス/新泉社






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