これは7年前、現地へ行き、去年はてなブログでも書いた話題だ。
白川郷に行ったついでに寄っただけだから、正味2時間くらいしか現地に滞在する時間がなく、庄川左岸から対岸の崩落跡を見物して、聞きしに勝る崩落に驚かされた。
今でもはっきり崩落の跡が残ってる。
ただ、私がウロウロしていた左岸の平地を14メートルも2台の重機を使って掘り下げたというのが凄い。
【消えた帰雲城】地下に眠る数兆円の黄金を探せ!1カ月にわたる大掘削【消えた戦国の城2】#ドキュメンタリー
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世界遺産、合掌造りの集落で知られる岐阜・白川郷。この地に黄金とともに消えたという戦国の城がある。その名は「帰雲城(かえりくもじょう)」。天正13年11月、のちに天正大地震と呼ばれる巨大地震で山崩れが発生。津波のように押し寄せる大量の土砂が庄川を乗り越え、城を一気に飲み込んだのだ。蓄えていたとされる黄金は何と数兆円とも!
帰雲城はどこに消えたのか?
今回は歴史捜査の第2弾。同時代の城、「江馬氏の館」をヒントに、帰雲城の埋没地を絞り込み、1カ月にわたる大掘削に挑む!明らかに人が手を加えた丸い穴、骨も出てきた!多数の出土品から“想像を絶する山崩れの真相”、そして“白川郷の秘めごと”が浮かび上がる!
■出演者
ナレーション:眞島秀和(俳優)
出演:中井均(滋賀県立大学名誉教授) ほか
【消えた黄金伝説の城】地下14メートルを掘り進めるとついに金属が!秀吉が欲しがった内ヶ嶋の埋蔵金【消えた戦国の城3】#ドキュメンタリー
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↑衆知を集めるという言葉があるが、この先生:中井均(滋賀県立大学名誉教授)の言葉が凄い。
似たようなところに居城を構えていた江馬氏の館を考えて、このあたりだろうと、辺りを付けて14メートルも掘ったら、馬の骨とか、鉄製のカスガイとか人工物が出てきて今後に期待を持たせる。
この14メートルの深度のどこかに黄金が眠っていることは間違いない。
白川村のHPより
2023-10-09
帰雲城を知っていますか?
天正大地震(1585年)で滅んだ大名・内ヶ島氏
天正13年(1585年)8月に、佐々成政が羽柴秀吉の侵攻(富山の役)を受け、内ヶ島軍は佐々の援軍として越中に赴いた。
羽柴秀吉は同時に、佐々の同盟者である姉小路氏と内ヶ島氏の拠る飛騨国の攻略を金森長近に命じた。
しかし頼みの佐々成政が秀吉の大軍の前に戦わずして剃髪して恭順してしまい、氏理も留守中に家臣の内応があり帰雲城を金森長近に奪われた。
姉小路氏は所領を全て奪われ降伏、氏理もまた金森長近を通じて羽柴方に降伏し、内ヶ島氏の家名と所領の安堵はされたが、飛騨一国を治めることになった長近に従属することとなった。
金山の場所を隠していたから、 攻め滅ぼすことが出来なかったと。
それが裏目にでて、どこに金山があったかわからないそうだ。
佐々成政の方は案内人の佐伯一族(今の立山の地権者の先祖)を移動させずに優遇して、鉱山の場所を聞きだしたそうだ。
同年11月29日、帰雲城において和睦成立を祝う宴を翌日に控え、氏理本人はもちろん、娘婿の東常堯や嫡男・氏行など内ヶ島一族、重臣、家臣の主だった者が前日から勢揃いしていた。
しかし同日深夜に天正地震が発生すると、帰雲城は帰雲山の山崩れに巻き込まれて崩壊し、完全に埋没。
これにより内ヶ島氏の一族郎党は一夜にして滅亡した。
このとき、三方崩山東北の保木脇にあった白川郷領主の内ヶ島氏の帰雲城とその城下町が、三方崩山と対岸の猿ヶ馬場山から発生した大規模な山津波に呑まれ、一瞬にして城主の氏里以下、城下町300戸・住民500名もろとも土砂に埋まって全滅したのである。(城を埋めたのは、猿ヶ馬場山中腹の帰雲山の崩壊である)
この時の地震で埋没し滅亡したのは、帰り雲と呼ばれたこの城下町の他に、折立(高鷲村西洞)、みぞれ(明方村)の3カ所であったが、
中部地方有数の不便な山中の事情のために、天正地震と帰雲城埋没が世に知られるようになったのは古い話ではない。
戦国時代、戦いに破れて滅んだ大名は多いが、地震で滅んだ大名はこの内ヶ島氏をおいて他にはない。
ただ、内ヶ島氏が、米の採れない貧しい白川郷に侵出した理由が、この地域に豊富に産する金を中心とする鉱物資源であったことは疑う余地がない。
そのため、当地にお宝伝説めいた話も多い。
あの銀閣寺の造営資金に内ヶ嶋氏の金が使われたという話もあるし本願寺に対して相当量の金を融通していたのではないかとも言われている。
さらには天正地震の起こる天正十三年夏、金森軍に降伏して所領安堵を勝ち取るために、ここでも相当量の賠償金を支払ったのではないか、金森長近が内ヶ嶋氏を情状酌量としたのは産出する金が目的だったとの噂もあります。
帰雲城を築城したのは内ヶ嶋氏初代城主「内ヶ嶋為氏(ためうじ)」です。
築城年は1465年あたりだとされています。
天正大地震直後に書かれた石山本願寺日記より「顕如上人貝塚御座所日記」
飛州の帰雲と申す在所は 内島という奉公衆ある所也、
地震にて山崩、山河多せかれて、内島在所に大洪水かせ入りて、
内島一類地下の人にいたるまで、不残死たるなり、他国へ行きたる者四人のこりて、
泣々在所へ帰りたる由申訖、在所は悉淵になりたるけり
飛騨白川郷の帰雲(現帰雲山と三方崩の間の範囲と考えられる)という処は内ヶ嶋氏とよばれる室町幕府将軍の直轄軍に属する連中がいる所である。
今回の地震によって山が崩れた。 崩れた土砂で自然のダムができたせいで
内ヶ嶋氏のいた所(帰雲城もしくは館)には大洪水に見舞われ、また内ヶ嶋一族も
その他住民もすべて一人残らず死んでしまった。
たまたま他国(越中)に行っていた四人のみが助かったが泣く泣く帰るのを断念した。
併せて読みたい
まぼろしの帰雲城 佐々克明(サッサカツアキ)、新人物往来社、1972(昭47)
天正13.11ゴールドラッシュの飛騨白川郷の大地震-帰雲城と千数百人罹災、全9章、写真/地図/年表/文献
↑20年前に、この事実を知って調べ始めたが、小説仕立ての物が多くあまり参考にはならなかった。そんな中でもこの本は例外。当時の内ヶ島氏を取り巻く状況も深い考察があってとても為になる。さすがは、佐々成政の子孫だけのことはあると感じた次第。