天皇の初代とされる神武天皇は、生没年はもちろん、その実在さえ定かではない。
しかし、伝説上の重要人物として、日本の歴史に大きな影響を与え、論争を呼び起こし、時に政治問題となってきた。天皇陵をめぐる近世・近代史の研究者である著者が、「神武天皇陵」の所在地論争と、橿原神宮の創建を軸に、「歴史学の主題」としての神武天皇に迫る。
初代天皇の墓所「神武天皇陵」は、実は江戸時代になるまで定かではなかった。
元禄時代の江戸幕府の調査で、奈良・四条村の塚山に「定められた」のである。しかし、当初からこれには異論があり、幕末期には孝明天皇の意思により、その300メートルほど南の「神武田」に改められ、ここが、現在も天皇が参拝を行う神武天皇陵となっている。
一方、国学者の本居宣長らは、畝傍山中の丸山を主張して根強い支持を得ており、明治期になっても「疑念」はくすぶり続けた。
さらに、水戸学の巨頭・徳川斉昭、寛政の三奇人・蒲生君平、幕末の能吏・川路聖謨、明治大正の文人画家・富岡鉄斎らの見解もみていく。
この本は類書のなかでも面白かった。
著者はまえがきで、神武天皇の実在に関して、はっきりさせたいと大見えを切っているが、神武天皇陵のあれこれにページを割きすぎて、尻切れトンボとはい合わないが、あとがきで、実在に関しては触れられなかったと釈明してる。
神武天皇の墓所の候補は3か所もあった。
GHQの工作が効いてて、現在の歴史学会も神武天皇はいなかった説が主流である。
なぜかというと、神武天皇は確かに存在したとする歴史学者は皆追放されたからだ。
著者も肝心の資料に触れられていないとの恨みが残った。
第225回 神武天皇陵の謎
https://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku225.htm
1.現在の神武天皇陵
■ 神武天皇陵の位置
現在、神武天皇陵は橿原市大久保町字ミサンザイに治定されている。
現在の神武天皇陵の位置は、幕末に宇都宮藩が中心となって行った「文久の修陵(1863)」の際に、宇都宮藩の顧問団の検討により決定されたという。
神武天皇陵が現在の地に定められる前には、陵墓の候補地は六つあり、そのうち、特に次の三つが有力であった。
畝傍山の丸山
(大和の国高市郡洞村の近く)
大和の国高市郡白橿村山本のミサンザイ
(神武田。現在の神武天皇陵の場所。橿原市大久保町字ミサンザイ)
四条村の福塚
(塚山ともいう。現在、綏靖天皇陵とされている。大和の国高市郡四条村。現在の橿原市四条町)
江戸時代でもっとも有力であったのは1の丸山説であり、蒲生君平や本居宣長などがこの説を支持した。
宇都宮藩顧問団の中でも、北浦定政は丸山説を主張し、谷森善臣はミサンザイを推すなど意見が分かれたが、最終的には顧問団の筆頭であるの谷森善臣の主張で現在の位置に決まった。
2.丸山説
■ 記紀の記述
『古事記』の記述
「御陵(みはか)は畝傍山の北の方の白檮の尾の上(かしのおのえ)にあり。」
『日本書紀』の記述
「畝傍山の東北の陵に葬りまつる。」
■ 本居宣長vs谷森善臣
本居宣長は『古事記』の記述の「尾の上」から、神武天皇陵は「尾根」の上にあるとした。
丸山は「尾根」の上にある。
他の候補は尾根の上にない」と主張。宇都宮藩の北浦定政も同意見。
いっぽう、谷森善臣は次のように主張した。『古事記』の原文は「畝傍山之北方白檮尾上」と記されている。古点のままに読めば「白檮尾上」は「白檮尾(かしお)」という地名であり、その「白檮尾」に陵があったのである。
竹口英斎の『陵墓史』(1794)などの古文献によれば、丸山の地には古くから「加志(かし)」「カシフ」「カシハ」など、「白檮」と結びつく地名があった。
これに対し、谷森善臣はミサンザイの地に「橿檮尾」という地名があったという具体的根拠を提示していない。
谷森善臣の読み方は少々強引のようだ。
記紀の記述と地名との関係からは、丸山説のほうが有利である。
■神武天皇陵の守戸(または陵戸)
丸山のすぐそばに洞村(ほらむら)と呼ばれる部落がある。
この村は神武天皇陵の守戸または陵戸だったという伝えがあった。丸山の近くに洞村があったことは、江戸時代の津久井清彰の図(下図)にも描かれている。
律令時代、天皇陵には「陵戸」や「守戸」が置かれた。
「陵戸」は、律令制における賎民のひとつで、治部省の諸陵戸(諸陵寮)に隷属し、課役の代わりに山陵の警備に従ったもの。 また「守戸」は、古代、天皇陵の番人。陵戸が不足した時に良民から指定された。
蒲生君平は『山陵志』で「洞村のことを相伝うるに、その民はもと神武陵の守戸なり。およそ守陵の戸は、みな賎種。もと罪隷をもって没入したる者は、郷にならばず」といっている。
菊池山哉(さんさい:大正-昭和の郷土史家)はその著書のなかで、洞村の区長宅で多くの老人たちから聞いた洞村内部の話を次のように伝えている。
洞村は神武天皇陵拡張のため平野へ移転し、今は街路整然といしている。もとは畝傍山の東北の尾の上であり、『古事記』『日本書紀』は神武天皇陵と伝えているところと一致する。
神社を生玉(いくたま)神社という。祭神は神武天皇とのことだが確かではない。
この部落は、神武天皇陵の守戸であると伝承している。
神武天皇陵は、畝傍山の東北の尾の上の平らなところで、丸山宮址のところとも、生玉神社のところとも伝えられている。
旧家は、御陵と伝えられているところの下で、『ひぢり垣内(かいと)』ととなえ井上、辻本、楠原、吉岡などが本家。ともに日向からおともしてきた直系の家来で、そのため墓守になったと伝えている。
丸山宮址と呼んでいるが、宮があったとは聞いていない。径25間の平地で、円形をなし、その中心が、径3間ぐらい、こんもりと高く、昔は松の木が茂っており、その上を通ると音がして、他のところとは変わっていた。
その境内に、7つの白橿(しろかしわ)の大木があった。最後のものは周囲すでに皮ばかりで、そのなかが、6尺からの空洞であった。
皮ばかりでも『しめ縄』がかけられていた。
白橿村というのは、御陵に白檮の大木が7本もあったからで、神代からのものと伝えられていた。
明治の初年、神武天皇陵認定のときに、この地の人が賤民であったばかりに、神武戸と称する部落の人の作り田を、強制没収でとりあげてしまった。
それが、今の御陵となっている地である。神武戸とは、神武天皇陵の戸、入口の意味である。
今の御陵は真実の御陵でないといったら、全村千人のものが、放りだされて路頭に迷うかもしれないので、頭(かしら)がかたく箝口令をしいていて、絶対に口外しなかった。
今の御陵は真実の御陵と方向があべこべである。
洞村の人々が九州から来て、神武天皇の墓守をしたという伝承は、洞村のすぐそばにある丸山が真の神武天皇陵であることを支持しているように見える。
4,奈良県高市郡 8,高市郡、白橿村、元洞 P376 「長吏と特殊部落」 昭和22年 多摩史談会
↑直接、話を聞きに行ったのが菊池山哉ただ一人というのが悲しいが…
この本、5年前、古本屋から3万円で買って持ってる。
神武天皇の本当の墓所についてだけでなく、
そもそも、部落起源の江戸時代発祥説
これがインチキ
菊池山哉はご存知でしょ?
大雑把に言って、西は別所起源。東は義経追補のための関所が起源
これ最強
みんな喜べ
いまこの円山は、棒杭一本立ってるだけで誰でも近づけるし、お参りできる。
好ブログ発見。
トップ > 古墳 > 【丸山宮址】もうひとつの神武天皇陵、畝傍山山麓に眠る丸山を行く
2024-02-08 2024-04-21
【丸山宮址】もうひとつの神武天皇陵、畝傍山山麓に眠る丸山を行く
幕末の文久年間に、現在の四条ミサンザイが神武天皇陵と治定される際には、そこからすこし離れた畝傍山の尾根のうえにある、墳丘状の丸山と呼ばれていた場所も有力な候補地だった。
遠く歴史の向こうに置いてこられたまま、いまでは顧みられることさえまれな、その丸山を訪ねた。
7年前行った東京から奈良への自転車旅行を思い出す。
それは神武を経めぐる旅であった。
私の愛車はイタリアが生んだ優品ピラネロ。
フルカーボンフレームで、車体重量が7.3キログラム。
片手でらくらく持ち上げられる。乗りごごちがまた最高で振動をまったく感じない。自転車界のリンカーンコンチネンタルかトヨタのセンチュリーだと思ってる。
東京から奈良まで往復したがお尻が全く痛くならなかった。
ヘルメットは当然なし、あの気色わるいサイクルジャージも着たことがない。
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97 本の動画
普通の心霊スポット巡りではなく、考察要素とかいれつつ
「怖い場所・話」の史実などに基づいた歴史・民話や民間伝承など
背景を深掘りご紹介、現地を巡礼していきます。
当チャンネルは過去動画もどのタイミングで見ていただいても楽しめます。
【神武東征】山あいの村に残る敵対豪族の終焉の地
↑あああ、懐かしいな、この道… 奈良県宇陀市 血原(小字名・オドノ)
自転車を漕げども漕げども着かない、大いに焦った田舎道だ。
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205,735 回視聴 2024/12/05 #古事記 #神武東征 #神武天皇
古事記に登場する日本初代の天皇・神武天皇の敵の古代豪族。
その終焉の地が山あいの村に現代も残り語り継がれている。
神武天皇の宿敵・エウカシを祀った宇賀神社も血原橋もある。
こんな田舎だからこそ、2000年も変わらず残ったとも言える。
この後、神武天皇の兄である、『日本書紀』では「彦五瀬命」や「五瀬命(いつせのみこと)」、『古事記』では「五瀬命」と表記される。 神武天皇(初代天皇)の長兄、終焉の土地である和歌山県の釜山神社を訪れた。
背後に五瀬命が葬られたとする古墳が存在する。
彦五瀬命は弟たちとともに東征に従軍したが、浪速国の白肩津(あるいは孔舎衛坂)での長髄彦との交戦中に長髄彦の放った矢に当たった。彦五瀬命は「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東に向かって)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西に向かって)戦おう」と助言し、一行は南へ廻り込んだ。
神武天皇はたしかに存在した 神話と伝承を訪ねて (産経NF文庫) 2019/1/25 産経新聞取材班 (著)潮書房光人新社
「大阪湾」から「畿内」に入ろうとしたが、この地を治める「長髄彦(ナガヌネビコ)」に敗れてそこから「畿内」に入りことができず、「紀伊半島」沿いに三重県の「新宮」に到着して「熊野本宮神社」に詣で旅の無事を祈願した。
そこから「吉野」を経て「大和」に到着した。
途中はその地を治める豪族との戦いの連続であった。「大和」に到着したのは出発してから6年も経っていた。
これほど伝承があれば実在は間違いない。
建国神話の社会史-虚偽と史実の境界 (中公選書 102) 2020/古川 隆久 (著) 中央公論新社
洞村の強制移転―天皇制と部落差別 辻本 正教 1990/解放出版社