欧米で「東のスターリングラード」と称される死闘――
「白骨街道」「無謀な作戦」「日本型組織の最大の失敗例」としていまだに語り継がれる太平洋戦争時に行われたインパール作戦。
指揮官の無理な命令、補給の軽視など、ともすれば、日本軍の自滅としてのみとらえられがちである。
本書ではこの視点を踏まえつつ、イギリス、インドの資料や現地取材を駆使し再検証する。
香港、シンガポール、ビルマと各戦線で連戦連敗のイギリス軍と、圧倒的な兵力と勇猛果敢さで、無敵を誇った日本軍。
両者の明暗はどこで別れたのか――
「ほんとうに「愚戦」だったのか」というサブタイトルに惹かれ読んでみた。
新書レベルでは無理なのかもしれないが、期待外れであった。
インパール作戦が失敗だったのは、明々白々だ。
曰く、牟田口廉也中将の暴走、独断専行、曰く、「白骨街道」…
これまで書かれ語られすぎた感がある。
アマゾンレビューをみても私と同じ、サブタイトルに惹かれ読んでみて、そして失望したという評が多い。
インパール作戦が及ぼした世界史的な影響について考えたいのである。
もう、「白骨街道」は聞き飽きた。
大東亜戦争後の45年11月、英国はインパール作戦に参加した3人のインド国民軍の将校を、レッド・フォートで裁判に掛け、反逆罪として極刑に処そうとした。
この事実が伝わるや、インド民衆が一斉に蜂起して大暴動に発展した。
結果、もはや事態収拾が不可能と判断した英国はついにインドに統治権を返還した。
47年8月15日、インドは独立を勝ち取ったのである。
市街戦も激化し、英国はインド独立を認めざるを得なくなる。
インパール作戦は結果的に、英国の軛からインドを解放した。 ただし、インド人は帝國陸軍に頼っただけではない。
INAを組織し、 帝國陸軍と共に英軍と死闘を演じた。
総兵力4万5000人の内2万~6000人が作戦に参加し、 戦死・戦病死は3000~2000人。
帝國陸軍も5万4000~5万人もの戦没者を出した。
インド国民は日本を称讃して止まない。靖国神社の資料にはこうある。
P.N.レキ最高裁弁護士「太陽の光がこの地上を照すかぎり、月の光がこの大地を潤すかぎり、 夜空に星が輝くかぎり、インド国民は日本国民への恩は決して忘れない」
S.S.ヤダバ元INA大尉(INA全国在郷軍人会代表)「われわれINA将兵は、 インドを解放するために共に戦った戦友として、戦場に散華した日本帝国陸軍将兵に対して もっとも深甚なる敬意を表わします。インド国民は大義に生命を捧げた
勇敢な日本将兵に対する恩義を末代にいたるまでけっして忘れません。
我々はこの勇士たちの霊を慰め、御冥福をお祈り申し上げます」
実際、先帝(昭和天皇)陛下崩御に際し、インドでは政府関係の庁舎や国会など、
いたるところに3日~1週間にわたり半旗が掲げられ、大統領の呼び掛けで国民は喪に服している。
自国の歴史に自信が持てる国は外国にも敬意を払う。
自信がない国は外国に歴史改竄のお先棒を担いでもらう。
皮肉なことに、旧敵国の女性研究者が大日本帝国を高く評価する。
劣勢を挽回しようとして立案された日本陸軍の、いわゆる大陸打通作戦(一号作戦)が、その後の世界情勢に及ぼした影響について大いに目を開かせられるところがあった。
日本軍の目的は、当時日本海軍の艦船や台湾を攻撃していた爆撃機を阻止するために、中国内陸部の連合国軍の航空基地を占領することと、日本の勢力下にあるフランス領インドシナへの陸路を開くことであった。日本側の投入総兵力50万人、800台の戦車と7万の騎馬を動員した作戦距離2400kmに及ぶ大規模な攻勢作戦で、日本陸軍が建軍以来行った中で史上最大規模の作戦であった。
2023-08-27
文庫 鳥居民評論集 昭和史を読み解く (草思社文庫) 2016/4/2 「いままで誰も書かなかったこと」 ← これ凄い
https://tennkataihei.hatenablog.com/entry/2023/08/27/061939?_gl=1*7sqg41*_gcl_au*MTU5NTY5ODMwNi4xNjkyNjEzNDQz
バーバラ・W・タックマンの研究によれば、この作戦の結果は日本側の想像以上にその後の戦況に重大な影響を及ぼし、かつ日本の命運にも決定的な影響を与えたという。
失敗したアメリカの中国政策 ビルマ戦線のスティルウェル将軍 バーバラ・W・タックマン/著 朝日新聞社1996.3を巡って
フランクリン・ルーズベルトは、開戦以来一貫して蔣介石を強く信頼しかつ支持しており、カイロ会談の際に、蔣介石を日本との単独講和で連合国から脱落しないよう、対日戦争で激励し期待をかけたが、本作戦により蔣介石の戦線が総崩れになった事でその考え方を改めたという。
実際、これ以降蔣介石が連合国の重要会議(「ヤルタ会談」と「ポツダム会談」)に招かれる事はなくなった。
スティルウェル文書によると、「中国は勝てるか」と述べたルーズベルトに対し、スティルウェルは「蔣介石を排除するしかない」と述べ、1944年の衡陽会戦に際しては夜も眠れず、2回も自殺を考えたと言う。
アメリカ側も蔣介石の暗殺を計画し、「毒殺」、「航空機事件」、「自殺に見せかける」という三方法が検討された]。
ルーズベルトの配下のジョージ・マーシャル陸軍参謀総長やジョセフ・スティルウェル将軍がかねてより主張してきた通り、実は蔣介石の軍隊は軍隊の体をなしていない士気の沮喪したどうしようもない腐敗した組織であり、とてもアメリカをはじめとした連合国軍と共に戦う意欲もなければ、その能力もないことが明らかになったのだという。
失敗したアメリカの中国政策 ビルマ戦線のスティルウェル将軍 バーバラ・W・タックマン/著 朝日新聞社1996.3
ヘレン・ミアーズ著 『アメリカの鏡・日本』 大東亜戦争は植民地解放と人種差別撤廃に貢献した
GHQ労働諮問委員会の一員として来日したミアーズ。中立な立場で日本を研究してきた彼女にとって、「軍事大国日本」は西欧列強が自ら作り上げた誇張であった。ペリーによる開国を境に平和主義であった日本がどう変化し、戦争への道を突き進んだのか。
日本を西欧文明の鏡と捉え、満州事変を軸に中国・韓国との関係を分析しながら、アメリカが変えんとするその未来に警笛を鳴らす。
マッカーサーが邦訳を禁じた日本論の名著。
マレーではインドの代表的指導者、チャンドラ・ボースが率いる自由インド亡命政府が樹立された。
ボースはイギリスに宣戦布告し、インド人部隊を編成して日本軍とともにインドヘ進撃しようとしていた。今日、インドの代表的指導者の中には、イギリスの政治的撤退を早めたのは、真に平和を願う指導者の長く実りない平和的手段ではなく、ボースの隠然たる脅威、「忠誠心のない」インド軍、そして日本軍だったという人もいる。
ルーズベルト大統領は一九四四年八月十二日の声明で、アジアの民衆は日本の奴隷になることを望んでいないと いった。
まったくそのとおりだ。
しかし、歴史的にみてアジアの民衆を「奴隷にしていた」のは日本ではなく、私たちが同盟を結ぶヨーロッパの民主主義諸国であることを、ルーズベルトはいわないのだ。
私たちは、戦争中日本に協カした現地政権はすべて傀儡であると、いとも簡単にきめつけてきた。
確かに自己利益のために、日本に協カしたものもいた。
しかし、当初、現地住民が日本のプロパガンダと計画に熱烈に応えたのは、法的擬制の「自由アジア」というスローガンを現実のものとして考えたかったからだろう。
日本に協カしたのは、ほとんどの場合、それぞれの国を代表する人たちだった。
彼らは(ナチスの協力者とは違って)、対日協力の動機は純粋に愛国心であると胸を張っていえた。
なぜなら、戦争は日本と現地政府の間ではなく、日本とヨーロッパの異民族支配者の問で戦われていたからである。
日本は当然のことながら、アジアの人々に対して、アジアあるいは太平洋地域の領土を併合したり、支配しようという意図あるいは希望は毛頭もっていないと繰り返し宣伝していた。
日本はただアジアをヨーロツパの支配から自由にしたいだけである(アメリカが南アメリカをヨーロツパの侵入から守っているように)。そして、アジアの民がたがいに協力して自分たちの資源と文明を発展させることができるようにしたいのだ、
というのが日本の主張だった。
著者(ヘレン・ミアーズ)1900年生まれ。1920年から日米が開戦する前まで二度にわたって中国と日本を訪れ、東洋学を研究。1946年に連合国最高司令官総司令部の諮問機関「労働政策11人委員会」のメンバーとして、日本の労働基本法の策定にたずさわった。1948年「アメリカの鏡・日本」を著す。GHQから発禁処分を受ける。
有色人種が「人間」であることが認められたのは大東亜戦争が人種解放戦争だったからだ!
先人の偉業に感謝…
靖国神社にいきましょう
↑卑劣な朝鮮人とバカ左翼、キチガイ共産党の嘘にだまされないで!
敵は、ナチと日本を同一視させようと世界中で工作しています
併せてみたい
【日本】”在日特権”は存在するのか?本当にわかりあうために必要なこと
世界史解体新書チャンネル登録者数 1.8万人
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本日のテーマは「在日特権」でした!
【三代目襲名】山口組 vs 在日朝鮮人のバトル【終戦後の日本・不法外国人・朝鮮進駐軍・田岡一雄・高倉健】
北朝鮮チャンネル チャンネル登録者数 173万 回視聴 5 か月前 #山口組 #暴力団 #高倉健
<動画説明>アメリカとの終戦直後、日本国内で一部の朝鮮人らによる殺害、強盗、暴力事件などの不法行為が頻発し、警察署が次々と襲われた。当時の朝鮮人による事件は記録に残るものでも、大津地方検察庁襲撃事件、長崎警察署襲撃事件、生田警察署襲撃事件、富坂警察署襲撃事件、新潟日報社襲撃事 …