普段よく行く古本屋の店頭で、失われた九州王朝の朝日新聞社版の初版を見つけた。
私は世代的にこの初版は持っていなく、字が大きいので、いいなと思って買ってきた。
1冊、100円だった。
改めて再読して思ったことは、古田武彦は偉大だということだ。
古田武彦(ふるた・たけひこ)
1926年 福島県生まれ。
旧制広島高校を経て、東北大学法文学部日本思想史科において村岡典嗣に学ぶ。
長野県松本深志高校教諭、神戸森高校講師、神戸市立湊川高校、京都市立洛陽高校教諭を経て、
1980年 龍谷大学講師。
1984〜96年 昭和薬科大学教授。
2015年 歿。
いわゆる「倭の五王」について
ここでもいちばん鋭いのは、やはり古田武彦である。
『宋書』に記されている「倭の五王」は大和政権の天皇ではない。
従来説(石渡信一郎も同類だ)では、5人の王名(讃・珍・済・興・武)はいずれも天皇の本名を省略したものである、ということになっている。
例えば、仁徳天皇の本名は「オオササギノミコト」であるが、その「ササ」のあたりの発音を「讃」の字で表記したのであろう
などというのだ。これが日本史の学者たちの頭のレベルなのである。語呂合わせに終始しているように見えてしまう(笑)。
しかし実際は、中国の歴史書はいずれも、周辺異民族の首長の名を省略して表記することはないのである。
何文字になろうと万葉仮名のように発音を写し取っているのだ。
「倭の五王」の在位年と『日本書紀』での各天皇の在位年とが全く合わない。
また、ヤマト王権の大王が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など1字の漢風の名を名乗ったという記録は存在しない、南朝(東晋-梁)側が勝手に東夷の王に漢風の名を付けることなども例が無く考えられないので、「倭の五王」はヤマト王権の大王ではないと考えられる。
歴史学界で名高い「郡評論争」のことは知っているかな。
大化改新の詔発令の646年(大化2)から大宝令制定の701年(大宝1)までの間の地方行政組織が《日本書紀》にみえる郡制か,金石文などにみえる評制か,さらに改新の詔の史料的信憑性をめぐって争われた。
藤原京跡から発見された大量の木簡によって、「郡」は大宝律令(701年制定)にもとづく単位で、それ以前は「評」の用語が使用されていたことが判明し、この論争には表向き決着がつけられることになった。
表向き決着がつけられることになった ← ここがミソ。ぜんぜん決着ついてない。
古田先生の「九州王朝万華鏡」をもってすれば、あら不思議、
藤原宮や伊場の出土木簡が示しているように、
文武四年(700)以前ーーー評
大宝元年(701)以後ーーー郡
という「行政単位の変動」が存在したこと。すでに疑う人はいない。
坂本太郎氏と井上光貞氏との間の長期論争を集結させたのはこの点だ。学会周知の事実だ。
だからこそ、「続日本紀」の文武四年(700)ごろに、【改評為郡】(評を改めて、郡と為す)の4字が絶対に必要だと、古田先生は言う。
・万葉集には、「郡」が90回出現しているのに、「評」は一切出現していない。
・万葉集は「7世紀~8世紀」にまたがる歌集であり、その時期の最大の事件は白村江の戦いである。
この時期は当然「評」の時代だ。だが、万葉集全20巻中、「白村江の戦い」を歌った兵士やその恋人、家族の歌が一切収録されていない。
そのため、それにまつわる「評」もまた、当然出現していない。「ここまで、徹底して「評」を嫌うのはなぜか。もはや、全く「偶然の所為」ではなく、必ず、「それ」として、確たる理由があるはずだ。」
↑どうです、この一連の論理の流れ! ひたすら見事というほかない。鮮やかすぎる。
貨幣制度への言及も実に鋭い。「日出ずる処の天子」のことを当時の貨幣制度に絡めて論じたのは凄い! こっちが正しいと思う。
「貨幣を鋳造し、発行させるのは天子のみである」
「東アジアの貨幣史上の不思議、それは「中心」をなした中国を除けば、日本列島が突出していること、この事実だ」
「中略ーーこれに対し、日本列島の「倭国」では、「倭の五王」時代、正面から北朝と敵対し、南朝を「宗主国」として仰いでいた。
ということは、「北朝の貨幣」を拒否し「南朝の貨幣」を受容していた、いうことだ。
589年南朝は隋の征服を受け、消滅した。すなわち「南朝の貨幣」は廃絶された。代わって、「北朝の貨幣」(隋朝)が中国全土を制圧した。では、倭国はこれに対しいかなる態度をとったのであろうか」
「今まで「宗主国」と仰いできた南朝に代わり、みずから「日出ずる処の天子」を名乗った。
この著名な史実(隋書タイ国伝)は、すなわち、みずからは「北朝の貨幣の支配下」に入らないということ、この一事を(経済流通上では)意味する。
すなわち、「日出ずる処の天子の貨幣」の存在が、不可欠なのである。
従来、あまりにも有名な(明治以降のあらゆる教科書で「喧伝されてきた」)、この「日出ずる処の天子」の記述に対し、このような視点からは一切、これを見ようとしなかったこと、これこそ世にも不可思議な、一大欠落、「歴史の深い穴」ともいうべき、深刻なブラックホールだったのではあるまいか」
↑ひたすら、素晴らしいというしかない。おっしゃる通り、あなたは凄い。
古田武彦の提唱した「九州王朝説」も最近では誰も言及しなくなったが、私はこれが日本の歴史の真実だと思ってる。
依然として私の中で巨大なのは、法隆寺移築説からみた「九州王朝説」のことである。
名高い法隆寺の再建・非再建論争のことは知っている人も多いと思うが、それを圧倒する結論、それが法隆寺移築説である。
古建築秘話 / 伊藤平左エ門∥著 / 鳳山社 , 1962
1962年に宮大工の棟梁の家系に生まれた11世伊藤平左衛門は、建築に使われる尺度の歴史的違いに着目することで、法隆寺は後世の再建で、別の場所から移築されたと結論付けた。
この本、10年前になるが、5万円で古本屋から買って持っている。
文化勲章受賞者で、輝くばかりの経歴を持っている人だが、この本は、家族が重版を拒否して、知る人ぞ知る本になってしまっていることが惜しい。
最近の研究で、五重塔の心柱の用材は年輪年代測定によって確認できる最も外側の年輪が594年のものであり、この年が伐採年に極めて近いと発表されている。
伐採年が『日本書紀』における法隆寺の焼失の年(670年)を遡ることから、九州から解体されて運ばれた用材が40~80年余りも現・法隆寺の近辺に置かれていたという推察が成り立つ。
法隆寺は移築された―太宰府から斑鳩へ 1991米田 良三 (著) 新泉社 世界最古の木造建築、法隆寺の五重塔や金堂は九州大宰府から移築された。
https://dokidokitenkataihei.com/houryuji/
著者略歴・米田良三 建築家、古代史研究家。1943年三重県松阪市に生まれる。
1968年東京工業大学建築学科卒業。
建築から日本古代史を見直す研究をつづける一方、古代建築の基礎構造をヒントに耐震技術の開発を行っている。
https://www.abandjc-press.com/content37/index.html
米田建築史学シリーズ 全4冊最新データ
『日本国王室全滅亡 東アジアの悲劇』 縦書き 20行×42字 200ページ
A5版ハードカバー改定カラー版(2018.10.10発行) 3850円
米田良三 著 渡辺しょうぞう 編集
AB&JC PRESS 発行 旧版に「清明上河図論」、「石山寺論」を追加
法隆寺のものさし: 隠された王朝交代の謎 (シリーズ古代史の探求 6) 2004/3/1川端 俊一郎 (著) ミネルヴァ書房
法隆寺の再建は新築か移築かの論争が展開されている。
法隆寺建立に使われた「ものさし」から、法隆寺が中国南朝の建築様式で営造されたX寺を現在地に移築したものであるという新説を展開する。
著者について
川端俊一郎(かわばた・しゅんいちろう) 昭和14(1939)年北海道札幌市生まれ。昭和37年北海道大学農学部経済学科卒業、昭和39年農学修士、昭和42年大学院中退。平成2年佛教大学仏教学科中退。現在北海学園大学経営学部教授、北東アジア研究交流センター(HINAS)副長。学校法人北海学園理事。
私が読むところでは、この人の説が最も信憑性が高いと思われた。
法隆寺移築説の論文を書いて日本建築学会に査読を求めたが、なんと、拒否されたとのこと。
著者は、米田良三の大宰府観世音寺からの移築は成立しないという。高麗尺による 伊藤平左エ門による移築説も成り立たないとのこと。
「材」が違うということらしい。
九州の八女のどこかから移築されたんではないかという。
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp › view › prepareDownload
PDF
法隆寺の 斗 (ます). 法隆 寺 の. 「材 」 は唐 尺 で は寸 法 が 合 わ な い 。 五重塔の 中心柱の 伐採年が 、西 暦 594 年 と断定. され たの で 、「材 …
↑本になる前の基本論文、置いておくから、頭のいい人が読んで、どしどし意見を寄せて欲しい。
三者の移築説は無視されているが、法隆寺がどこかよそから移築されたのは間違いないと思う。
だから、間違いなく九州王朝はあったのだといえる。
古田武彦の研究に触発された研究者が、栃木県藤岡町の大前神社に「磯城の宮」という地名を発見する。
ということは鉄剣銘の「〇多支〇大王寺在斯鬼宮時」の「〇多支〇大王」は関東の王であり、その皇居は、栃木にあり、大和朝廷以前に複数の朝廷があったことを意味する。
「定説」を提出した大研究者たちからの反論の声はあがらない。
大研究者たちは著者の著書を読んではいるが反論のしようがないのだという。
著者たちの著書が並ぶのは「日本史読み物の棚」大研究者のそれは「古代史」の棚。
その論証の精緻さは大研究者の及ぶところではない。
古田武彦は言う。
ここに出てくる、(ワカタケル大王がいるとされる)磯城宮とは、鉄剣出土地からわずか北に20キロ行ったところにある、栃木県藤岡町の大前神社(かつてこの神社は磯城宮とされる)のことである。
「もう一つ、大事なこと、それはこの藤岡町(赤麻)の内出古墳から、「金環・金銅製馬具」類の出土があり、これは埼玉古墳群の出土品と全く同類、という点です。(たとえば、稲荷山古墳の隣の将軍山古墳も) つまり、この磯城宮と稲荷山とは同質の政治・文明圏なのです。」
多元的古代の成立 下巻124ページ 駸々堂出版 1983
最後の致命的矛盾
稲荷山古墳には「二人の死者」が葬られています。
粘土郭(主部)と礫床(副部)です。
稲荷山古墳自体は、さいしょ粘土郭の主のために作られ、のち礫部が追葬された。
すると、絶対的な多数説の場合、この「鉄剣」は、遠く大和なる天皇のことを強調して、近くは自己の7代の先祖の名前を麗々しく列挙しながら、肝心の、自己の(死後をともにするほど)慕う「粘土郭の主人」については、まったくカットして触れていないことになる。背理である。
↑どうです、この説得力の濃さ!! これを日本の考古学会は無視しているんだから、世も末である。
この稲荷山鉄剣の解読にまつわる意見でいちばん鋭いのが古田武彦説である。
これは、解読以来50年以上経ったが依然として変わらない。
考古学者たちに無視されているが、いちばん鋭いのが古田武彦説。
2番目に鋭いのは、東洋史学の泰斗、日本でいちばん漢籍を読んだ人といわれる京都大学教授・宮崎市定の「こういった短い金石文に、「記」という字が2度出てくるのはおかしい。これは、ひとつは、記氏のことではないか」である。