部落差別が天皇制によって生み出されたとする説を象徴的に示す事例としてあげられてきたものに、「洞部落強制移転」(1917年大正6)がある。
神武天皇陵を見下ろす位置に被差別部落があるのはけしからんということで、天皇制国家権力により蹴散らされるように強制移転させられたというものである。
この事件をはじめて取りあげたのは、1968年、日本共産党員の歴史家である立命館大教授・鈴木良氏による「天皇制と部落差別」(『部落』)がはじめてである(もちろん、移転したこと自体は知られていたが)。
そして、この鈴木説が部落解放運動家に急速に普及していく。
のちに部落解放同盟中央執行委員となる辻本正教氏も「その一文を胸が張り裂ける思いで読んだ。
自分の生まれ育った部落が、こんなにも大きな歴史事実に遭遇していたのかと思うと、天皇制に対する怒りや部落差別に対する怒りが、腹の底から沸き立つのを禁じ得なかった」と回想している(辻本『洞村の強制移転』)。
そして、辻本氏はこの事件を、同地を訪れる人に「まるでテープレコーダーでもあるかのように」語り続けていく。
しかし、辻本氏は、移転後の洞部落の道路が縦横に整然と走っていることなどに気がついて、鈴木説に疑問をいだくようになり、研究の結果、強制移転ではなく、部落大衆の「自主的献納」であったことを明らかにした(辻本、同上)。
また、その後、高木博志氏は「近代神苑論」をあらわして、被差別部落だけでなく、一般の村落も移転していることを明らかにした。
辻本氏はウソに気づいただけ素晴らしい。
この件だけでなく、階級闘争史観を盛り込もうとする共産党系の歴史学者は迷惑この上ない。
菊池山哉(さんさい:大正-昭和の郷土史家)はその著書のなかで、洞村の区長宅で多くの老人たちから聞いた洞村内部の話を次のように伝えている。
「丸山宮址と呼んでいるが、宮があったとは聞いていない。径25間の平地で、円形をなし、その中心が、径3間ぐらい、こんもり
と高く、昔は松の木が茂っており、その上を通ると音がして、他のところとは変わっていた。
その境内に、7つの白橿(しろかしわ)の大木があった。最後のものは周囲すでに皮ばかりで、そのなかが、6尺からの空洞であっ
た。皮ばかりでも『しめ縄』がかけられていた。白橿村というのは、御陵に白檮の大木が7本もあったからで、神代からのものと伝えられていた。
洞村は神武天皇陵拡張のため平野へ移転し、今は街路整然としている。
もとは畝傍山の東北の尾の上であり、『古事記』『日本書紀』は神武天皇陵と伝えているところと一致する。
神社を生玉(いくたま)神社という。祭神は神武天皇とのことだが確かではない。
この部落は、神武天皇陵の守戸であると伝承している。
神武天皇陵は、畝傍山の東北の尾の上の平らなところで、丸山宮址のところ
とも、生玉神社のところとも伝えられている。
旧家は、御陵と伝えられているところの下で、『ひぢり垣内(かいと)』ととなえ井上、辻本、楠原、吉岡などが本家。ともに日向からおともしてきた直系の家来で、そのため墓守になったと伝えている。」
洞村の人々が九州から来て、神武天皇の墓守をしたという伝承は、洞村のすぐそばにある丸山が真の神武天皇陵であることを支持しているように見える。
4,奈良県高市郡 8,高市郡、白橿村、元洞 P376 「長吏と特殊部落」 昭和22年 多摩史談会
↑直接、話を聞きに行ったのが菊池山哉ただ一人というのが悲しいが…
私はやはり、蕨手刀こそが日本刀の原型ではないかと思っている。
蝦夷は製鉄文化を持っていて、[舞草刀」という刀を作る技術があった。
湾曲して片刃の世界にも類例のない日本刀の原型ではという説もある。
『蕨手刀―日本刀の始源に関する一考察』 (1966年)石井昌国著 『古代刀と鉄の科学』石井昌國著、佐々木稔著
蕨手刀から日本刀へ
平成9年東京国立博物館は、日本刀は蝦夷の蕨手刀が変化したもので平安中期頃に完成したとの見解を示した。
もちろん異論も存在するであろうが、合理的な推論と思われる。
これによれば、日本刀は直刀から発展したのではなく、
蕨手刀→毛抜型蕨手刀(810~824頃)→毛抜型刀(870頃)→毛抜型太刀(900年代前半)→日本刀(987頃)、という変化を遂げたことになる。
柴田 弘武という歴史家がいる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AD%A6
>『別所という地名について、菊池山哉の唱えた「俘囚の移配地」説が最も妥当だと考えている。
>山間僻地に多く、そこに東光寺、薬師堂、白山神社(本地仏十一面観音)を祭り、
>また慈覚大師円仁の伝承を伝えるなど、多くの共通要素を備えている。』
>『白山信仰は奥羽において一般的なものであり、奥州俘囚長の藤原基衡が建立した毛越寺・吉祥堂の本尊は、京都大原の別所にあった補陀落寺の本尊を模したという事実(『吾妻鏡』)からみて、別所と奥羽俘囚の関係は明らかである。
>蝦夷征伐は東北の鉱産資源、なかんずく産鉄労働力の確保にあったといえる。』
>蝦夷征伐による捕虜を俘囚と呼び、全国各地の産鉄地において労働者として従事させた、その地が「別所」だというのである。
20年かけて、こつこつと全国を巡り、写真に収め、解説を加えるという地道な作業。
それを、高校教師をやりながら、成し遂げたという偉業!!
いわゆる正統な日本史のセンセー達からは無視されているが、私はこれが真実と思う。
方向が間違っていれば結果は悲惨になるが、「坂上田村麻呂の蝦夷「征伐」は、歴史書で流布されている現実とは違っている。鉄をめぐる五百年戦争で大和朝廷の捕虜となった東北の産鉄民の移配地=別所説」はまったく正しい。
鉄と俘囚の古代史 《増補版》 蝦夷「征伐」と別所 柴田弘武 (著) 彩流社 (1989) が、1989年に書かれ、
2007年に「全国「別所」地名事典(上) 大型本 – 2007/柴田 弘武 (著) 彩流社」となって結実する。
熊本県の北部に小国別所という地名が残っていて、九州ではここにしか出ていない珍しい蕨手刀が出土している。
肥後・熊本は、律令国家の出す俘囚料がもっとも多かった場所である。(延喜式 927年 173435束 計上。全国1位)
全国「別所」地名事典(下巻) 大型本 – 2007/11/1柴田 弘武 (著) 彩流社
第8章 九州の別所 842ページ
熊本県玉名郡玉東町、町史編集委員長、田辺哲夫。
「現在、この地で発見されているタタラ製鉄の炉は、奈良・平安以後のものであり、驚いたことに、その形態は筑前とも、出雲とも違い、蝦夷のものに酷似するという。蝦夷は製鉄に関しては、大和朝廷より先進地であった。」
熊本大学名誉教授・冶金学 堀一夫
「要するにね、俘囚が入ってきてね、教えたのは、いわゆるタタラの技術だと思う。」
関東S県のK市に枝垂桜が有名な場所があって、菊池山哉の本にも写真付きで載っている。
そこのそばに、熊本出身の著名な医学者が興した研究所があって、その著名な医学者の出身地が俘囚が連れて行かれた土地で、西日本九州では珍しい蕨手刀が出土してる。
私はかれがそこに研究所をつくったのは偶然ではないとみてるのだが……。
ロシアが日本の憲法改正に言及: ロシア外務省が「もし日本が憲法九条を廃棄したらロシアは日本に対して軍事的な対抗措置を取る」と明言【石川雅一のYOUTUBEシュタインバッハ大学】
石川雅一のシュタインバッハ大学 チャンネル登録者数 5.67万人
2.3万 回視聴 21 時間前 #北方領土 #ロシア #憲法改正
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併せて読みたい
おとぎの国の部落史話 2001 辻本 正教 (著) 三一書房
部落問題の気鋭の作者が神々、諸仏、十二支、桑など動植物の織り成す世界を創造力豊かに描き、古来日本の民俗・民話の題材となった絹と養蚕のテーマを、漢字の字義・字解などによって解明するユニークな歴史分析本。
『蕨手刀―日本刀の始源に関する一考察』 (1966年)石井昌国著 雄山閣
『古代刀と鉄の科学(考古学選書 39)』石井昌國著、佐々木稔著 雄山閣 2006/1/1
全国「別所」地名事典(上) 大型本 – 2007/11/1柴田 弘武 (著) 彩流社
古代史の真相に迫る、かつてない「地名」事典!「別所」―全国に遺る621ヵ所の地名を悉皆調査。「蝦夷征伐にともなう俘囚移配の主目的は、彼らを製鉄をはじめとした金属工業生産に従事せしめる為であった」という説を実証。古代王権に敗れ、歴史に埋もれた産鉄民の姿に光を当てる。621ヵ所の別所地名を中世の国別区分で編集。地図(約500点)、写真(約1250点)収載。巻末資料として「平成の大合併」により失われた地名と現在の地名対照表、全国別所地名一覧表を付す。