誰が「南京大虐殺」を捏造したか 2015/古荘光一 (著)ワック アメリカ白人限定、対応集もあるよ…  fake Nanjing

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これは大いに読み応えがあった。

まえがきに、著者の怒りが集約されているように思えた。

かつてシナの蔣介石政権は、志那事変(1937~1945)に独力で勝つことは不可能とみて、様々な内容のプロパガンダをアメリカで繰り広げ、対日参戦を促した。その一部が「南京大虐殺」の捏造と宣伝である。

プロパガンダの最終目標は、アメリカを利用して日本人の「心理的武装解除」を実現することにあった。

現実には日本が大東亜戦争に負けた後、アメリカは卑劣な手段で、日本人を洗脳し、蒋介石の野望を実現した。

南京でのアメリカ・プロテスタント宣教師団のことを終始、「デッチ上げ団」と呼称していることも印象的だ。

作家の児島襄が研究、分析して書いた「日中戦争」の中で、日中戦争を通して、陸上での大きな会戦・作戦だけでも79戦中、日本は引き分けたが一回、後は完全勝利だったと。

番外で、中共軍が日本の補給部隊を襲ったってのがあるが、あまりにも規模が小さすぎと。

 

アメリカ、プロテスタント宣教師団の南京での暗躍に的を絞った良書がこれである。

一次史料が明かす南京事件の真実―アメリカ宣教師史観の呪縛を解く 2020/1/22 池田 悠 (著) 展転社
「アメリカ・プロテスタント宣教師団の呪縛を解く」

↑素晴らしい!  わずか156ページの小さな本だが、悪質な創作インチキウソ話の「南京大虐殺」なるもの、いかにでたらめなものか完璧に解き明かしている。
よく南京関係の本に出てくる、安全区の人間が実質、アメリカ、プロテスタント宣教師団であり、こいつらが安全区に逃げてくるシナ人を助け、間接的に日本軍に盾ついてたことを完膚なきまで解き明かしている。

プロパガンダは、当事者国とは違う第三国の人間が発信すると信憑性が高まる。

利害関係がないと思われるからだ。

だが、著者が研究したように、一見色々な西洋人が発信していると見せかけて、実は皆プロテスタント教会の宣教師だったのなら、「日本軍を貶める」という共通の利益が見えてくる。

宋美齢の父がメソジスト教会の宣教師から浙江財閥を起こしたのは事実で、国民党の蒋介石も、彼女と結婚する際に改宗した。

宋美齢は、中国大陸で、日本陸軍と国民党などが小競り合いをしていたとき 、西側諸国で「日本軍はこんな非道なことをしている!」と触れ回り、軍事支援や巨額の資金集めを行った。研究で明らかにされている通り、捏造された写真だった。

 

戦争してみて初めて日本人が知った、特異なシナ人の性格に触れたい。これは近年めったに見られなくなっているから、得と読んでいただきたい。ぜんぶホントのことですぞ。

2点あげたい。

中国には、「督戦隊」というものがありました。

これは戦いを督促する中国人部隊で、背後にいて、戦場から逃げ出す中国兵を見つけると撃ち殺す兵士たちなのです。

逃げる中国兵を撃ち殺す中国兵です。そんな非人間的な部隊が、中国にはありました。

実際に、中国督戦隊に撃ち殺された中国兵たちが多くいました。

NYTのダーディン記者は、南京城壁の北側の門において、高さ1メートル半にも積み重なって小山を形成していた

中国兵の死体を目撃しています。これは日本軍が殺した中国兵ではなく、中国督戦隊に殺された中国兵だったのです。!!!

なぜならダーディン記者は戦後、こう語っています。

「これは、この門から脱出しようとした中国兵の死骸です。中国兵はあちらこちらで城壁によじのぼり、
脱出を試みました。これらの死体の山は、日本軍がここを占領する前にできたように思うのです。

この地域で(日本軍の)戦闘はありませんでした」(1987年8月14日のインタビュー、質問者は笠原十九司、伊原陽子。
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『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』P571 青木書店)

つまり、それは中国督戦隊によって殺された中国兵らの死骸だったのです。
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↑チョンコとバカサヨのねつ造連合軍は、督戦隊とか「清野作戦」とか、シナ独自の特異な前提があったことを知った方がいいよ

質問者は笠原十九司 ← こいつ、南京大虐殺インチキウソ話あった派の首魁

↑戦後、この南京防衛司令官・唐生智はなんと、中国共産党の要職についてる。ホント、わけわからん。

 

最近の北京市の大洪水をみて、かつての黄河決壊事件を想起せざるをない。

端的に言えば、シナ人の為政者はダメである。

北京市を守るために、上流のダムを複数、突然、住民に通告なく解放したとのこと。

あの流量はただ事ではない。あれはただの豪雨ではない。

私はかつての黄河決壊事件を思い出す。

黄河決壊事件。

蔣介石が日本軍の通路を防ぐ目的で苦し紛れで黄河の堤防を破壊し、九州に匹敵する面積の地方を水浸しにして中国人民に多大な損失をもたらした。

↑復旧は(住民の救出を含めて)、進軍を止めてすべて日本軍が行った。

住民を救出中の日本軍にたいして、蔣介石の国民党軍は、機関銃を撃ってきたと(これホントの話)。

歴史の闇に飲まれて(反日バカサヨクが大きな顔をして、のし歩いている現代日本では)、知らない人も多いのではないか。

名監督、山中貞雄はこのとき泥水を飲んだのが原因となり亡くなっている。

現在の中国共産党は今の政権を手にするため、数千万単位の中国人を殺してきました。

その史実を中国国民の目からそらすために、日本を仮想敵国とし過去の戦争で日本軍が残虐行為をしたなどの偽造をして宣伝を続けているのです。

黄河決壊事件. 2.洪水. 商震将軍は蒋介石から日本軍前衛部隊の背後を突くように堤防爆破を命じられたが、国民党軍の …
水没した範囲は11都市と4000の村におよび、3省の農地は農作物ごと破壊され、水死者100万人、被害者600万人と言われる …
恐るべし蒋介石 >我が日本帝国軍人は支那人民を助けたのである

蒋介石の”以水代兵”―黄河決壊事件

黄河が決壊したのは1938年6月7日だった。

河南省の花園堤防が切れて満々たる水が黄河から溢れだし、河南省ばかりか安徽省から江蘇省の平原まで冠水した。

水死者だけで60万人とも百万人とも言われる。

これは蒋介石が命じて堤防を爆破したからで、被災は以後水没地域に干ばつ、飢餓などをもたらし、1943年には大飢饉に繋がる。

ところが、蒋介石の副官だった何応鈞は『八年抗戦之経過』(1938年)のなかで

「日本軍が飛行機で爆撃した」と書いた。『中華年鏡』(1948年)のなかにも「日本軍の砲撃で破壊された」と嘘が書かれた。

真実はこうだ。

日本軍に追われた蒋介石は水攻めの奇策を思いついた。

黄河花園堤防爆破が国民党の自作自演であったことは、1976年になったから関係者が暴露した。

しかも爆破直後に「これを日本軍の仕業として宣伝する」ことまで事前に決められていた。

6月7日爆破。6月11日からラジオなどを使って『日本軍の暴挙をわめき続けた。

これに疑問をもった外国人記者がいた。パリの「共和報」という新聞が自作自演説を伝え、世界のマスコミが疑念を抱いた。 こういう真実が明るみに出る。

以徳報恩などと欺瞞的な放言が得意だった蒋介石神話を信じていた人にとって、真実とは驚くほどのことであった

↑シナ人と、ちょうせんじんには、これは、これだけはやってはいけないという判断基準がもともとない。

自分さえよければ、基本的に、何でもありのミンジョクである。

■南京虐殺インチキばなし肯定派は有難がるが、ミニー・ヴォートリン女史のレポート自体、まったく信用できない

教授ミニー・ヴォートリン女史は1937年12月16日の日記に100名の少女が日本兵によってレイプされたと書き、またジョン・ラーベも1000人もの女性が強姦されたと17日の日記にしるし、ジェームズ・マッカラム医師もレイプ事件について19日にそう記されている。

しかし実際には、これらの強姦事件がラーベ、ヴォートリンや
マッカラムによって目撃されたわけではなく、中国人から聞いた話なのだ。
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これらの日記が記されてから約2週間後の1938年1月4日のニューヨーク・タイムズの紙面に、こんな記事が掲載されている。

アメリカ管轄の難民区に元中国軍大佐 彼は南京で自らの行為を日本軍の悪行と宣伝する。

EX-CHINESE OFFICERS AMONG U.S. REFUGEES Colonel and His Aides Admit Blaming the Japanese forCrimes in Nanking New York Times January 4, 1938 Wireless to the New York Times. SHANGHAI, Jan. 3.

アメリカ人教授たちのもとでかくまわれていた中国兵幹部らが、南京で強姦を繰り返していた
犯人であり、強姦を犯しては、「犯人は日本兵だ!」と言いふらしていた。
それを知ったアメリカ人教授らは「心底から当惑した」そうだ。

2月の大阪朝日新聞はこういった記事が載せられている。

「日本軍は南京市内で数多くの犯罪を起した11名の中国人兵士達を逮捕した。彼ら中国人は日本語に巧みで・・・日本人を装い・・・偽造した通訳の腕章を着用していた。」彼らが逮捕された後は、強姦事件や略奪等はほとんど見られなくなった。

中国人が主張する日本人兵士によるレイプ事件は、自分たち中国人が犯したものである。

1938年1月4日付のニューヨーク・タイムズ紙は、こう報じています。

「南京の金陵女子大学に、避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは、逃亡中の大佐一名とその部下の将校六名がそこでかくまわれていたことを発見し、心底から当惑した。実のところ教授たちは、この大佐を避難民キャンプで二番目に権力ある地位につけていたのである。

この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、それから女子大の建物に住んでいて発見された。

彼らは大学の建物の中に、ライフル六丁とピストル五丁、砲台からはずした機関銃一丁に、弾薬をも隠していたが、それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのものであると自白した。

この元将校たちは、南京で掠奪したことと、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には犯人は日本兵だと言いふらしていたことを、アメリカ人たちや他の外国人たちのいる前で自白した」

このように、安全区に逃げ込んだ中国将兵らはアメリカ人教授らのもとでかくまわれ、しかもそのうち中国人大佐は、避難民キャンプで二番目に権力ある地位を与えられていたという。

彼らは南京で、略奪や、少女たちの強姦などを行ない、それを日本兵がやったと、うそぶいていたのです。

この教授たちとは、マイナー・ベイツ、ルイス・スマイス、ミニー・ヴォートリン、ロバート・ウィルソンらです。

これはもちろん、安全区の中立を定めた日本軍との協定への違反でした。

それまで教授たちは、南京での非道な行ないのすべてについて、日本軍を非難してきたのです。

しかしそれら非道な行ないの多くが、じつは教授たちのもとでかくまわれていた中国兵たちのしわざだったのです。

『チャイナ・プレス』1938年1月25日付も、こう報じています。

「その報告書の主張するところによれば、彼らのなかには南京平和防衛軍司令官王信労(音訳)がいた。彼は陳弥(音訳)と名乗って、国際避難民地帯の第四部門のグループを指揮していた。

……また、前第八十八師の副師長・馬中将や、南京警察の高官・密信喜(音訳)もいると言われている。

馬中将は、安全区内で反日攪乱行為の煽動を続けていたと言われる。また、安全区には黄安(音訳)大尉のほか十七人が、機関銃一丁、ライフル十七丁を持ってかくまわれ、王信労と三人の元部下は掠奪、煽動、強姦にたずさわったという」(東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』p.277)

このように、安全区に逃げ込んだ中国兵らは、「掠奪、煽動、強姦」にたずさわり、それを「反日攪乱行為」として行なっていました。

すなわち、それらの犯罪を積み重ねたうえ、それらを「日本兵がやった」ように見せかける、あるいは被害者を脅して「加害者は日本兵だ」と言わせていたということです。
ここに「煽動」と訳されている言葉は、原文では「intimidating」(脅迫。おどして事を行なわせる)なのです。

 

★ 三光作戦とは、国民党軍や中共軍の得意技

自分がやったことを日本軍のせいにしてるシナ人および反日バカ左翼、

堅壁清野 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%85%E5%A3%81%E6%B8%85%E9%87%8E

堅壁清野(けんぺきせいや)は、焦土作戦の一種。中国では古来からの戦法とされ、

古くは『後漢紀』巻四にも現れるが、特に日中戦争(支那事変)期に中国国民党軍
によって行われたものを指すことが多い。

城壁に囲まれた市街地内に人員を集中させ(堅壁)、
城外は徹底して焦土化する(清野)ことで、進攻してきた敵軍は何も接収できないようにして疲弊させ、持久戦を有利に運ぶ狙いで行われる。

日中戦争時には、国民党軍は日本軍・中国共産党軍の双方に対しこの作戦を取った。

焦土化の対象は、軍事施設や食糧倉庫のみならず田畑や民家にまで及んだ。

南京攻略戦の際、国民党軍により南京城外の周囲15マイル(およそ24km)が焦土化された。
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三光作戦は堅壁清野作戦を日本軍の仕業として中国側が報道したものだ。

現地に居たアメリカ人宣教師ミニー・ヴォートリンの日記にも焦土作戦・漢奸狩りの様子が書かれている。

>12月4日、AP特派員によると市の東方の多数の樹木が中国軍に伐採され、東門から湯山にかけては殆ど無人村となっている。

>12月6日、中国軍は焦土作戦をやって村人を南京城内や北方に追い遣り、村を焼き払っている為、
包容は総て無人村状態となり、明孝陵への道路沿いの樹木は伐採された。

>12月7日、蒋介石達は午前4時に南京脱出。7時に下関方角から謎の砲声がした。難民が中国警察から立退きを命じられ、南門から安全区に入る。逆らえば家を焼払われ、スパイとみなされる。軍の作戦で孝陵衛が放火され、国営公園で樹木が多数伐採された。

>12月8日夜、初めての避難民受入。多くは南門付近や市の南東部の人達。中国軍からの即時立退き命令に従わなければ、反逆者として銃殺され、計画を妨害すれば家が焼き払われる事もあるらしいと、女史は心を痛める。

>12月9日、中国軍の清野作戦で、午後は北西以外の方角から煙が立ち昇り、南西隅の空全体を炎が照らしている。
AP特派員が中国兵がガソリンを掛けて家に放火していたのを目撃。

↑チャンコロがじぶんでやったことを日本軍のせいにしてるんだよw
↑チャンコロがじぶんでやったことを日本軍のせいにしてるんだよw

最後に2点、市井の「南京大虐殺インチキウソ話 評論家」(笑)として、指摘しておきたいことがある。

> 旧日本軍関係者で構成する親睦団体・偕行社が1984年に行った調査でも、南京虐殺は明らかに存在したものだった。

虐殺人数に>関してはここでも幾つかの開きが見られるものの、万単位の虐殺が行われたことは認めている。????

★陸軍将校の親睦団体「偕行社」の調査結果、あべこべの結論にしてるクズがいるが くぎを刺しておく

陸軍将校の親睦団体「偕行社」の結論は「数千人規模の虐殺があったことは否定できない」ではなく、

【南京市民虐殺=0人、不法な捕虜処断=0人~800人】『偕行』1985年5月号P8

南京戦に参加した畝本正己の集計では、不法処理の疑いがあるのは3千~6千人、全て便衣兵を含む兵士であり、虐殺と断定できないとした。

その後、畝本正己は、資料、証言を更に整理し検討し、1988年に発行した『南京戦史』(偕行社)で、

撃滅・処断推定約1万6千人、【うち不法殺害の可能性があるのは歩66第1大隊の捕虜処断最大約8百人の一例のみ】と結論している。

いずれも、日本軍による南京市民虐殺は0人だったとの認識だ。

『南京戦史』偕行社出版

●偕行の結論(1988年『南京戦史』)

南京市民虐殺=0人
不法な捕虜処断=0人~800人

 

捕虜は虐殺されなかった!

虐殺肯定派がよく引用するものに、第16師団長・中島今朝吾(なかじま・けさご)の日記があります。

とくに12月13日に捕虜にした7000~8000人の中国兵についての次の記述です。

「この7000~8000人、これを片づけるには相当大きな壕がいるが、なかなか見当たらない。一案として100人、200人などに分割してのち、適当な箇所に誘って処理する予定だ」(現代文に修正)

つまり、この大量の捕虜を殺害して壕に埋めてしまおう、という処理予定を考えたともとれる内容です。

当時はたしかに、ただでさえ食糧の調達など大変でしたから、このような大量の捕虜を一体どうしたらいいのか、ということは確かに大問題でした。
それで、中にはこうした考えを持つ者もいたようです。

けれども、中島日記をみても、彼ら捕虜を実際に殺害したという記述はありません。

また当時の日本軍の記録をみると、この7000~8000人の捕虜は結局殺害されず、捕虜収容所に送られたことがわかるのです。

当時の膨大な資料の集大成である『南京戦史』(偕行社)は、様々な資料を引用し、こう結論しています。

「これらを総合すると、堯化門(仙鶴門鎮)付近の捕虜約七千二百名を中央刑務所(第一監獄所)に護送し収容したことは明らかである」(P324)

また資料によれば、当時南京の捕虜収容所は、これら7200人の捕虜を含む、計1万人ほどの捕虜を受け入れたとなっています。

彼らの多くは、そののち釈放され、故郷に帰されました。
あるいは苦力(クーリー)として労役に雇われた者も多く、また後に上海の捕虜収容所に移送された者もいました。

さらに、そのうち約2000名は、のちに汪兆銘の親日政権の南京政府軍に編入されました。

その中に、劉啓雄(りゅう・けいゆう)少将もいました。

彼は南京安全区に潜んでいたところを摘発され、しばらく苦力として使われていましたが、1940年に南京に成立した汪兆銘政府において和平救国軍の軍長となった人です。

また中島今朝吾・師団長の言葉の中に「大体捕虜はせぬ方針なれば」というのがあったことが、よく指摘されます。

実際、大量の捕虜をかかえこむことは大変なだけですから、捕虜は少ないほうがいいわけですが、「捕虜はせぬ方針」について、大西 一 参謀はこう述べています。

「それは、銃器を取りあげ釈放せい、ということです。中国兵は全国各地から集っていますが、自分の国ですから歩いて帰れます」 (「正論」61.5 阿羅健一著「日本人の見た南京陥落」)

さらに大西参謀は軍命令、師団命令で捕虜殺害命令など絶対に出ていない、と断言しています。

資料をみても、捕虜殺害の記録はありません。また支那事変当時の日本の新聞にも、釈放されて故郷に帰る中国兵たちが荷物を持ち、ニコニコ顔で写真におさまっている姿などが載っています。

 

「もしかして、この人、南京大虐殺なんか信じてる??」 GHQは日本人の戦争観を変えたか 「ウォー・ギルト」をめぐる攻防 (光文社新書) 2022/賀茂 道子 (著)
https://dokidokitenkataihei.com/nankinn/

原爆の被害みて、鬼畜のアメリカ人も戦慄したんだよ。

東京裁判に臨むにあたって、さすがにまずいことになったなと感じて、

それで原爆に見合う被害を日本軍がやったものがないか探したら、そこに「南京大虐殺」があったってだけだから。

南京戦直後に、ティンパーリというオーストラリア人スパイによって書かれた「戦争とは何か」がすべてのタネ本だから。

勿論、ティンパーリは現場にはいない…

しかもこのティンパーリにそんな本書かせたのが中国国民党宣伝部だから、もうそこまで知られているから。

 

GHQ検閲官 甲斐弦 解説:上島嘉郎 経営科学出版2022/1/1

GHQ検閲官 甲斐弦 解説:上島嘉郎 経営科学出版2022/1/1
昭和21年(1946年)、占領下の日本であえて米軍検閲官となった英文学者が50年の沈黙を破り、当時の克明な日記をもとに、世相、苦脳と希望、峻烈な米軍検閲の実態などを生々しく描きだした敗戦秘史。 甲斐弦は家族を養うために1946年10月28日...

「だがどんなマイナスの仕事にも、プラスの一面もあるものである。私はその2か月の経験によって、アメリカの占領政策の一端を垣間見ることができた。
自由だ、解放だ、と謳歌していたーーそして今も謳歌している。
あの大東亜戦争は、決して1945年8月15日に終わったわけではなく、今もなお続いていることに気づいたのである。」

↑著者がたどり着いた至言であると思う。

 

最後に、皆さんにお願いがあります。片言の英語で「南京大虐殺インチキウソ話」の大嘘を暴きましょう!!

相手はアメリカ白人限定にしたいと思います。

どんな場でも構いません。片言の英語で、南京大虐殺インチキウソ話否定の単語を並べてください。

一人一人が「外交官」です。

やがて、シナ共産党は完全に立ち行かなくなるでしょう。その時に、今から備えましょう!

大切なことは、言いっぱなしに限るというところです。深く問われたら、日本人が書いたブログでそんなことを言ってるアホがいると言いましょう。そこは逃げて下さい。相手になってはダメです。

タイトルにある、fake Nanjing を教えてあげてください。宜しくお願い致します。

南京大虐殺 Nanjing Massacre  ナンジン マサカア

南京大虐殺インチキウソ話 Nanjing Massacre hoax ナンジン マサカア  ホークス

偽の南京 fake Nanjing

アメリカ・プロテスタント宣教師団 American Protestant Missionaries  アメリカン プロテスタント ミッショナリーズ

安全区 Safety Zone

便衣兵 Civilian soldiers

濡れ衣  False accusation  フォルサクゼイション

連中に嵌められた  I was tricked by a group of people.  アイワズトリックト バイア グループオブピーポー

日本兵 japan soljer ジャパンソルジャー  無罪  not guilty ナッ ギルティー

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