信濃安曇族の謎を追う―どこから来て、どこへ消えたか (近代文芸社新書) – 2007坂本 博 (著)

健康 古代史 時事一般

九州の博多で言う「おきゅうと」と東北の「エゴ」は同じものですか?どちらも海草から作るたべものらしいので。

山形県、秋田県、新潟県、長野県安曇野地方で食されている「えご」「いご」「えごねり」「いごねり」も、形は少し異なるが紅藻類の海藻を用いる点で共通しており、同様の食品である。

古代信濃安曇族の興亡を、西は九州の磐井の乱、東は陸奥のエミシ制圧、そして中央は内膳司長官安曇・高橋の熾烈な権力闘争と関連させて、詳細かつ全体的に描き出した意欲作!
安曇の字義、彼らの交易ネットワーク、赦免と復活への道、明科廃寺の創建背景、観松院の菩薩半跏像、さ迷える川会神社を追って。

福岡県出身の著者は長じて信州大学に勤務するようになってから、長野県安曇野地方で食されている「エゴ」をみて驚いたという。 それは故郷福岡県で食べられているオキュウトと同じものだったからだ。

関東在住の私はオキュウト、エゴというものを見たこともない。
ところが、福岡県や長野県安曇野地方ではスーパーで普通に売られ食されているものだという。
トコロテンのようなものらしい。醤油をかけて朝飯に食べるものだという。

ただ、不思議なことに安曇野地方のエゴは南へ20キロ下った松本市では食されていないという。

これは信州に、はたして安曇族はいつ入って、そして消えていったのかを追った実に興味深い書物である。

文献的には西暦646年、阿曇氏が定住し、律令制のもとで信濃国安曇郡が成立したとされる。

大化の改新の直後のことで、信濃国と安曇氏の関係について、近年の研究では、「6世紀以降、蘇我氏が東国に屯倉の設置を進める中で、蘇我氏と深い関係にあった安曇氏が信濃国の屯倉に派遣され、地域との関係を深めた結果、後の安曇郡域に安曇部が設置された(あるいは、安曇氏は中央に留まるままで、安曇部のみが信濃と関係を深めた)」と考えられている。

はじめは、まったく飲み水すら満足に確保できない不毛の土地だったらしい。

大化の改新をさかのぼるおよそ100年くらい前に安曇族は信州に植民を開始したようである。

安曇氏は全国の阿曇部を管掌した伴造として知られる有力氏族である。
発祥地については筑前国糟屋郡阿曇郷・志珂郷(現在の福岡市東部)説があるが関西に住む安曇氏はどうやら別系統であるらしい。

向こうは、アドと発音する。信州に入った時期も関西住みの安曇氏は遅いようだ。
信州に入った地域も先の安曇氏は北部から(だから、現・安曇野地方にその痕跡が残る)、関西安曇氏は南部からということだ。

律令制の下で、宮内省に属する内膳司(天皇の食事の調理を司る)の長官(相当官位は正六位上)を務めている。

当時、大量に遡上してきたサケの存在、その美味である加工品が預かって力があったと著者はみる。

 

時代は150年ほど下る。
時は延暦期に入って、蝦夷征伐が苛烈になる。

渦中、高橋氏が膳部(かしわで)氏とも称し、安曇氏と並んで内膳司であったが、安曇氏との間で主導権争いを生じ、しばしば衝突を起こしたため、789年(延暦8)、両氏がそれぞれ家記を奏上した。

このとき奏上された高橋氏の家記と認められるものが「高橋氏文」として引かれて残る。

そしてとうとう、安曇継成(あずみの つぐなり)という安曇氏を代表する奈良時代の官吏が、内膳奉膳(ないぜんのぶぜん)(内膳司の長官)のとき,高橋氏と神事の席次をあらそって職務を放棄したため,翌年佐渡へ流された。

正卜称シテ之ヲ別テリ、然ルニ桓武天皇延暦十一年、安曇氏、罪ヲ獲テ流ニ処セラレショリ、奉膳常二高橋氏. ヲ以テニ任ゼリ、

安曇族に代わって、平安末期より約500年にわたって安曇野地方を統治したのは名族・仁科氏(にしなうじ)。

仁科氏の祖先は、大和朝廷に深いつながりのあった畿内の阿部氏という説が有力視され、阿部氏も蝦夷征伐の命を受け、木崎湖(きざきこ)周辺に拠点を置いたと考えられている。

長野県大町市に館を築いた仁科氏は、大町に京都風の町割を敷き、近くには貴船神社、北野天満宮など京都の社を配します。
安曇野一帯には、高瀬川(たかせがわ)、木舟、定光寺、小倉、室町橋、吉野、大原といった京都を連想させる地名が多く、これも仁科文化の名残だろう。

安曇野一帯に残る八面大王退治の「伝説」について
魏石鬼八面大王 (ぎしき はちめんだいおう)は、長野県の安曇野に伝わる伝説上の人物。八面大王とは、魏石鬼(義死鬼)の別称である。南安曇郡穂高町大字有明を中心として周辺の市町村に広く伝承されている。
八面大王伝説は『仁科濫觴記(にしならんしょうき)』に見える、田村守宮を大将とする仁科の軍による、八面鬼士大王を首領とする盗賊団の征伐を元に産まれた伝説であると考えられている。

これを著者は仁科氏が先住の安曇氏を討った実録とみる。根拠は、

1. おとぎ話的要素を含まず

2. 昔のことなのに、実見したように詳細で

3. 歴史的整合性がある

「八面大王」という個人ではなく、8人の首領を戴く盗賊集団あるいはその首領の自称として「八面鬼士大王」の名で登場する。
概略は次のようなものである。

神護景雲(767年 – 770年)末から宝亀年間(770年-780年)にかけて、民家や倉庫から雑穀や財宝を盗む事件がおきた。
宝亀8年(777年)秋に調べたところ、有明山の麓に盗賊集団(「鼠(ねずみ)」、「鼠族」)の居場所を発見した。

その後、村への入り口に見張りを立てたが、盗賊は隙を窺っているらしく、盗みの被害はいっこうにやまなかった。
そのうち盗賊たちは、「中分沢」(中房川)の奥にこもって、8人の首領をもつ集団になった。

山から出るときは、顔を色とりどりに塗り「八面鬼士大王」を名乗り、手下とともに強盗を働いた。
これを憂いた皇極太子系仁科氏3代目の仁科和泉守は、家臣の等々力玄蕃亮(3代目田村守宮)を都(長岡京)に遣わして、討伐の宣旨を求めさせた。

延暦8年(789年)2月上旬、朝廷より討伐命令が下ったため、等々力玄蕃亮の子の4代目田村守宮(生年25歳)を追手(城郭用語)の大将とし、総勢200名ほどで偵察を行い、それに基づいて搦手(城郭用語)の大将高根出雲と作戦計画を立てた後、まず退治の祈祷を行った。

延暦8年2月23日、作戦決行。

まず、前々の夜から東の「高かがり山」(大町市)に火をたかせた。

田村守宮率いる部隊は、夜半に「八面大王」一派のいる裏山に登り、明朝の決行を待った後、翌24日(3月25日/3月29日)、夜明けとともにほら貝を吹き鬨の声をあげながら一気に山を下った。搦手も太鼓を打ち鳴らし鬨の声をあげた。

寝起きを襲われた盗賊団は驚いて四散したが、多くの者は逃げ切れなかった。

大将の田村は大声で「鬼どもよく聞け。お前たちは盗賊を働き人々の家の倉庫を打ち壊して財宝を盗んだことは都にも知られている。
勅命に従って討伐に来た。その罪は重いが、これまで人命は奪ってはいない。速やかに降参すれば、命だけは助けよう。手向かえば、一人残らず殺すが、返事はいかに」といった。

すると盗賊団はしばらく顔を見合わせた後、長老が進み出て、太刀を投げ出し、考えてから両手を付いた。
そして「貴君の高名はよく承知しております。私の命はともかくも、手下たちの命はお助け下さい」といった。
そして、抵抗を受けずに全員が縄にかけられ、城に連行された。

合議によって、長老一人を死罪とし、残りは耳をそいでこの地から追放することとなった。
すると、村の被害者たちが地頭(この職も平安末期以降であり、当時は無かった)とともに、私刑にしたいので彼らを引き渡して欲しいと嘆願に来た。

これを切っ掛けとし、等々力玄蕃亮は考え直し、もう一度合議して、長老の死罪を許し8人の首領を同罪として両耳そぎ、残りの手下は片耳そぎに減刑することに改めた。

耳そぎの執行の日、田村守宮は罪状と判決を述べた後立ち去った。
そのため、役人が耳をそぎだすと、恨みある村人が我も我もと争って、70人あまりの盗賊の耳そぎが執行された。そがれた耳は、血に染まった土砂とともに塚に埋められて、耳塚(安曇野市穂高有明耳塚)となった。

その後、盗賊の手下たちは島立(松本市島立)にて縄を解かれ追放された。
一方の残る8人の首領は、恨みを持った村人たちによって道をそれて山の方に連れて行かれた。

そして口々に、「これまでは公儀の裁きであった。これからは我らの恨みをはらすぞ。天罰であると思い知れ」といって、掘った大穴に突っ込まれた後、石積みにされて殺された。そのために、この場所を「八鬼山」(松本市梓川上野八景山(やけやま))というようになった。

その後追放された盗賊団の手下たちは、もともと安曇の地に産まれた者たちであったので、日が経つにつれて徐々に親兄弟、知人を頼って、秘かに故郷に戻りかくまわれていた。
そのことを聞き知った仁科和泉守は、延暦24年(805年)、父の仁科美濃守の100歳の祝いにあわせて彼らを免じ、八鬼山の地と3年分の扶持を与えて、開墾を奨励した。

↑如何であろうか。たしかに昔のことなのに詳しすぎる説話である。これは事実譚であろう。

起きた時期も安曇継成が高橋氏との争いに負けて、佐渡に流された時期にピッタリである。

仁科一族の直系の子孫であらせられる仁科宗一郎氏が1972年に書いた「安曇の古代」の中で、何度も、この時の信濃の守護職・安曇氏は不思議なことに姿を消していると言ってる。

冗談は顔だけにしてよ仁科さん、と小言のひとつも言いたくなる。

ゴッドファーザー顔負けのドロドロの血みどろの権力継承劇が繰り広げられていたのは間違いない。
僻遠の地での権力継承劇など、朝廷は興味がなかったのではないか。

紛らわしいことに討伐隊の、隊長の名が「田村」といい、例の征夷大将軍・坂上田村麻呂は実存してて、当然のようにこの討伐作戦には参加していなく、それでも、のちの文献では田村麻呂が参加していてたかのような混同が見受けられるとのこと。

それはもちろん、仁科氏側の策謀であった可能性…

 

著者は、御祭神が底津綿津見命であるところから、安曇野地方池田町にある川会神社こそが安曇族を祭る神社であると考える。

「私は昭和50年の夏に池田町に越して参りました。そしてこの町で2つほど懐かしいものに出会いました。
その一つはイゴであります。これは私の郷里の福岡ではオキュウトと呼びまして、日常茶飯で食用しています。

その後、必要がありまして日本全国のイゴ・オキュウト食用分布図を作成したことがあります。そして、その分布図を眺めているうちに、この安曇の古代の歴史がぼんやりと見えてくるように思えました。

私自身は信州安曇野郡の川会神社に祀られている底津綿津見神は、筑前糟屋郡の志賀海神社に祀られている底津綿津見神の分身であると考え、安曇郡内のイゴ食用分布図も詳細に検討しながら古代安曇の謎解きに挑んでみました…」

平成18年、川会神社、鳥居建立竣告祭での来賓としてあいさつより。

 

併せて読みたい

坂本博『信濃安曇族の残骸を復元する―見えないものをどのようにして見るか』 2007年、近代文芸社

仁科宗一郎著『安曇の古代 -仁科濫觴記考-』(柳沢書苑、1972年)

タイトルとURLをコピーしました