この人の経歴が面白い。
1923年生まれ。出征、シベリア抑留を経て帰国。サンケイ新聞大阪本社社広告部に長く勤務。
シベリア抑留を経験しているから、古墳がらみの強制労働の話が多いかといえばそんなことはなく、
上質紙でこれまで探訪した古墳の数々の図が載っているが、これがやはり何度みても不思議である。
3世紀から6世紀、7世紀にかけて造営されたにもかかわらず、形が皆、前方後円(なかには多少、前方後方墳もあるが)なのだ。
これは、古墳に関しては、数(人口500万人足らずだった日本列島におよそ20万!!)のほかに、非常に不可思議な点だ。
おまけに、内部から墓誌が出たことがないという更なる不思議。
どちらかと言えば、邪馬台国畿内説に反論する記述が多い。
たとえば、地名遷移 邪馬台国だ。
図7 大和郷のまわりの地名

邪馬台国東遷説 第三章 神話のなかの地名
図8 九州 夜須町のまわりの地名

移住した人たちが出身地の地名を新しい地名につけるのは、古今東西かわらぬ人情である。
いま由緒ある地名が失われてゆくが、もともと地名は長く伝承される傾向が強い。
三氏の指摘に対して(地理学者・鏡味完治1964年、安本美典、考古学者・奥野正男)、歯切れのいい反論は寡聞にして知らない。あるいは論争に巻き込まれないよう無視を続ける賢明な策を選んでいるのかもしれない。 39ページ
■ホケノ山古墳・西殿塚
2000年3月、箸墓に近いホケノ山古墳の発掘調査の結果が発表された。
「邪馬台国、やはり機内」「邪馬台国畿内説強まる」「最古の前方後円墳か、邪馬台国畿内説を補強」と邪馬台国畿を畿内に持ってくるオーバーヒート文字が新聞紙上に踊っている。
ホケノ山古墳には全く新しい発見として、石室に前例のない木槨構造を持っていた。
これは魏志倭人伝にいう「棺ありて、郭なし」と全く相違するが、ほとんど報じられなかった。
219ページ
>これに対して、この数年間に調査のおこなわれてきた大和古墳群での中山大塚、下池山、黒塚などの前期古墳の埋葬はいずれも木棺を壮大な竪穴式石室で囲みこんでいたし、若い日の僕が発掘に加わった櫛山古墳は石棺を竪穴式石室のおさめていた。
今回発掘されたホケノ山古墳では、木棺の外側に木槨と石室との2重の外部施設を備えていて、倭人伝が記している倭人の葬法には合っていない。森浩一「関東学をひらく」より 2001 朝日新聞
「魏志倭人伝」には、倭人の葬式は、 棺あって槨なし。」 と、明記しているのだ。
木槨のなかに木棺があったのでは、「魏志倭人伝」の記述に合っていない。<
表紙にもある相島積石塚古墳群の考察が興味深い。
私も6年前に1度だけ現地を訪れたが、とにかく壮観である。
筆者も言うように、だれがこの200を超える積石塚をこの離れ小島に築いたのかに関しては何も分かっていないという。

相島積石塚群(あいのしま、つみいしづかぐん)は、
福岡県糟屋郡新宮町相島の長井浜にある4世紀代~7世紀代にかけての古墳群である。
全長100メートルの海浜部に254基もの積石塚が拡がる。こうした遺跡は全国的にも珍しく、2001年(平成13年)8月7日に国史跡に指定された。
概要
数多くの副葬品や鉄製品、人骨など、様々な遺物が出土している。
海に臨む立地からの海洋民、海人族の古墳群と考えられている。 また、同時代に作られた対岸にある福岡県福津市、宗像市にある津屋崎古墳群の石室に使用された石材はここから運ばれたとされる。

「海浜型前方後円墳の時代」という地味だが非常な良書がある。
海浜型前方後円墳の時代 2015/(公財)かながわ考古学財団 (編集)同成社

いったいどこの誰がこのような僻地に、このような壮大な古墳を築いたのか?
海上から目視可能な交通の要衝に造営された海浜型前方後円墳を集成し、その立地の意義や築造背景、古墳時代の海民統治などの実態を、新たな視点から追究する。全国の海浜型前方後円墳分布図と一覧表を収録。
長柄桜山古墳群は、相模湾と東京湾を画する三浦半島北西部の付け根に位置し、現在の逗子市と葉山町に位置する。

近所に住む東家洋之助氏が散歩中に偶然、埴輪を発見したところから、この大発見につながった。
1号墳を500メートル離れた場所に2号墳がある。
現地へ2度行ったが、断崖絶壁にそそり立つ大古墳である。地上から見ても、ああ小山だな程度にみえる大古墳である。
よくぞ、発見したものだと大いに関係者を称えたい。
2000年に発見されたいうから最近発見されたともいえる。
しかし長柄桜山古墳群には大きな謎もある。
墳長90メートルという大きさは、前期古墳としては関東地方の中でも有数の規模であるが、三浦半島周辺では、長柄桜山古墳群以前の古墳は知られておらず、長柄桜山古墳群の造営が終了した後も、約1世紀後の5世紀半ば以降にならないと古墳は造営されていない。
つまり長柄桜山古墳群はある日突然造営が開始され、そして2基の古墳が造られた以降、後が全く続かなかったということになる。
長柄桜山古墳群は前期古墳としては関東地方の中でも有数の規模であり、また畿内の定型的な前方後円墳に近い要素が多いなど、前期の前方後円墳としては関東地方では数少ない特徴を備えた古墳であるという点から学術面で高い評価がなされ、更には1999年(平成11年)まで未発見であったこともあって、墳丘の保存状態が良いという点も評価され、2002年(平成14年)12月19日、国の史跡に指定された。
第1章が素晴らしい(広瀬和雄)
④ 魏志倭人伝の「一支国」で有名な壱岐島には6世紀後半7世紀前半にかけて古墳が300基つくられている
…可耕地が乏しく、玄武岩の大地に覆われた壱岐島にこれだけの有力古墳を支持するだけの食料増産は望むべくもないから
…いっそう海浜型前方後円墳の「不自然さ」が際立つ
…農耕生産が保証されない地形、可耕地が少ない地形環境だけが領域であるならば、大型墳丘をつくる力量をどのようにして首長層は蓄えたのか
…たとえば、新羅や伽耶からもたらされた鉄素材に対して、倭国から運ばれた「もの」の痕跡が彼の地ではほとんど認められないという事実がある。「もの」が南部朝鮮から一方的に日本列島に運び込まれている。
倭王に「徳」を下賜したとみなせるなら事情は異なってくるが、そうしたことを表す証拠はない。
…中央からもたらされたり、そこを経由したとすれば、見返りは何であったのか。格別の特産物も今のところみあたらない。
畿内に存在する初期の古墳、たとえば和歌山県岩橋千塚(いわせせんづか)古墳群とか、岡山県にある群衆墓などは誰が見ても、一族類縁者が築いたものだ。だが、そのほかの古墳に関しては、私は大部分、墓ではなかったとの見方である。
高地性集落と倭国大乱―小野忠熈博士退官記念論集 1984/雄山閣「高地性集落」を追いかけて…

「高地性集落(こうちせいしゅうらく)は、日本の弥生時代中・後期に、平地と数十メートル以上の標高差がある、標高100メートルを超える高地の山頂部や斜面に形成された集落である。」
「高地性集落の分布は、弥生中期に中部瀬戸内と大阪湾岸に、弥生後期に近畿とその周辺部にほぼ限定されている。
古墳時代前期には、西日本の広島・鳥取に、北陸の富山・石川・新潟に分布する。
しかし、北部九州にはみられない集落である。
九州王朝論信奉者からみた「前方後円墳」 (歴史文化ライブラリー 616) 2025/2/26 下垣 仁志 (著)吉川弘文館 前方後円墳は墓ではない、墓も初期にはあったが…

@香川県善通寺市・旧練兵場遺跡 九州地方からの移住者住居跡 九州地方からの移住者の存在を県内で初めて確認した。同遺跡は、弥生時代中期から古墳時代にかけての竪穴住居跡が多数発見されている県内最大規模の集落遺跡。
@紫雲出山遺跡(しうでやまいせき)は、香川県三豊市詫間町に所在する弥生時代中期後半の高地性集落遺跡
↑直線距離で8キロくらいだから、いい感じじゃね? 時代もぴったり合う
香川県善通寺市・旧練兵場遺跡に九州勢力が橋頭堡を築き、紫雲出山遺跡に籠もった原住系・銅鐸民との血みどろの戦いが行われていた証拠だよ
1000キロの海を渡った「大王の棺」: 九州から大阪、実験考古学の航海が解く古墳の謎 2008/澤宮 優 (著)現代書館 近畿の古墳の石棺のピンクの石って熊本産なんだろ?おまえら、嫌いな国の、地方の産物に囲まれて死にたいと思う?これこそ東遷の証拠じゃねえか

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