岩宿遺跡から旧石器発掘捏造事件まで、石に魅せられた者たちの天国と地獄。
「世紀の発見」と言われた岩宿遺跡を発掘した在野の研究家、相澤忠洋。
「旧石器の神様」と呼ばれ、相澤を支えた気鋭の考古学者、芹沢長介。
二人の歴史を塗り変える「新発見」に、巻き起こる学術論争、学閥抗争、誹謗中傷――彼らに続いた藤村新一の「神の手」は、学界を更なる迷宮に。日本のルーツを巡る考古学界の裏面史を壮大に描く。
素人が関与できる学問分野として「天文学」と「考古学」が挙げられている.
考古学ではあまたの捏造?が世界中でなされている。
素人が関与しないと遺跡の発掘など出来ないだろう。
たまたま岩宿で奇跡が起こったので日本中の考古学ファンは“第二の岩宿”を目指したのだろう。そこに藤村氏がつけいる隙があった。
学会の権威が認め、教科書にも載った藤村新一氏の仕業をこれも“素人”である新聞社に見破られるまで解らなかったとは“考古学”って一体何を勉強する学問なのかという疑問が生じる。
「岩宿」の発見 : 幻の旧石器を求めて (講談社文庫 あ 16-1) 1973/相沢 忠洋 (著)

ひとつの土器片が、少年の目を黎明期時代に向けさせた。
行商のかたわら赤城山麓周辺の遺跡を踏査し、遂に関東ローム層中の石器文化(岩宿文化)を発見、日本における旧石器文化研究の新分野を開拓した男の不屈の人間記録。
1961年群馬県功労賞、1967年岩宿発見の功績により吉川英治賞受賞。
行商のかたわら赤城山麓周辺の遺跡を踏査し、遂に関東ローム層中の石器文化(岩宿文化)を発見、日本における旧石器文化研究の新分野を開拓した男の不屈の人間記録。
著者について
1926年東京生まれ。小学生の頃より歴史に興味をもち、東京四枚畑貝塚を踏査。戦後桐生に住み、行商で赤城山麓を訪れるかたわらその周辺の遺跡を踏査し、ついに「岩宿石器文化」を発見した。1961年群馬県功労賞、1967年吉川英治賞を受賞。著書『岩宿の発見』講談社刊。1989年5月没。
↑しかし、何度読んでも、どんな角度から見ても、この人の人生は感動的だ。
旅芸人の息子として、東京・羽田に生まれ、9歳の時、母親が家を出てゆく。
妹の死… 一家離散…
その後、成長した相沢が海軍に応召した際、まったくの偶然から鎌倉で母親と再会した話は、あまりにも感動的だ。
当時、群馬県の桐生市に住んでいた相沢が、東京の芹沢教授のもとへ、7時間かけて行商で使ってる自転車をこいで何度も通ったというエピソードは何度聞いても泣ける。
考古学崩壊 前期旧石器捏造事件の深層 2014/竹岡俊樹 (著) 勉誠出版

告発者が語る世紀の大失態とその日本的「解決」。そして考古学の現在
2000年11月に発覚した「神の手」藤村新一による旧石器捏造事件から14年、発覚に重要な役割を果たした「告発者」が当時の体験と膨大な資料から、事件の全貌を明らかにする。
なぜ学界は20年間にもわたってひとりの「超能力者」を信じてオカルト的説を論じたのか、その理由を岩宿遺跡発掘以来の旧石器時代研究史と当時の社会状況から解き明かす。
そして、今、再び、考古学協会による検証作業と考古学の現状を問う。
考古学関係者・ファン必読の書!
↑この人の「糾弾」と、角張 淳一氏の「藤村新一あやしい説」の集大成がホームページに記載されて、それを毎日新聞取材班が目にとめて大スクープにつながったのだという。
ただなあ…
竹岡氏の本も複数読んでみたが、その感想として、ひとつの石器が人工物かそうでないかを判定するのは極端に難しいということだ。
竹岡氏は、藤村新一の掘り出したものには、まこと、数万年前の人工物が含まれていると言ってるが、そういう声も無視されたと述べている。
竹岡氏の言ってることで面白いのは、山形県寒河江遺跡からでた石器は確かに13万年前のものだとのこと。しかし、そんな竹岡氏の声も、主に、藤村新一を持ち上げた勢力の反対意見で立ち消えになってしまったという。
旧石器時代の石器判定には、明確な基準が存在しない。
ここに、藤村新一みたいな根っからの捏造男が付け入る余地が生まれる。
↓この人もまた、捏造犯・藤村新一の被害者だと言えるかもしれない…
藤村新一の怪しさに気づき、自身のホームページでそのことを論じ始めてからこの捏造がばれた。
その後、酒に逃避して、ワインを1日3本飲んで、52歳で亡くなってしまったという。
旧石器捏造事件の研究 2010/角張 淳一 (著) 鳥影社

日本考古学再生のために 2001年11月5日、日本考古学会は崩壊した「かくも長き捏造」はなぜ発覚しなかったのか?
捏造犯の藤村新一やその周囲と20年来の付き合いがあり、発覚以前から疑問を呈し毎日新聞のスクープのきっかけを作った、考古学を愛し埋蔵文化財分析に携わる著者が、半世紀にわたる大がかりな捏造事件の真相にあらゆる角度から分析して迫る渾身の一冊。
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旧石器遺跡捏造 (文春新書 297) 2003/河合 信和 (著)

学会もメディアもなぜかくもたやすく騙されたのか
あまりにもお粗末だった捏造の手口。その検証のプロセスをたどって、考古学史上最大の汚点とも言われた事件の全容を明らかにする
朝日新聞出身の科学ジャーナリスト。先史人類学、考古学、民族学に強い。
藤村新一と交遊もあったという。
荒唐無稽な論が大真面目で通っていた考古学界 100ページ
最後に指摘すれば、特に90年代後半の藤村新一による「世界的大発見」は、当時でも批判的に検証すべき対象だったが、旧石器時代考古学者にその知識が乏しかった。
考えても見てほしい。仮に上高森の「埋蔵遺構2」が真実だとすれば、60万年前という太古に、旧世界の辺境の日本にホモサピエンスが暮らしていた、と考えなければ「埋蔵遺構」を説明できないではないか。
南アフリカで古くとも20万年前くらいまでしか遡れないホモサピエンスが、どうしてこんな太古に地球の反対側にいたのか?
↑これが私の感じてることの核心を突いてる鋭い指摘だ。
私は、人類アフリカ発生説というのは誤りだと思ってる。
理由の一つは、アフリカ黒人とアジア人の骨格が違うこと…
あのアフリカ黒人が「進化して」、アジア人になったということが私には信じられないのだ。
嘘だらけのヨーロッパ製世界史 2007/岸田 秀 (著) 新書館 人類文明の母としてのアフリカ

最初の人類は黒人で、アフリカに発生したと一般に考えられている。
何万年前かは知らないが、黒人から白子(アルビノ)が大量に発生した。
この白子は、毛色が違っていたので、黒人から差別され、疎外され、肥沃なアフリカの地から北へと、貧しい寒冷の地、ヨーロッパへと追っ払われた。
2003年以前か以後か、それほど重要な著作、 「竹内文書」の謎を解く―封印された超古代史 2003/11/1布施 泰和 (著)成甲書房

【日本は宝石のような国です】日本列島に最初に来た人類/人類アフリカ起源説は間違い、人類同時多発説が正しい

なかで言ってる、「4,5万年前に」というのがポイントである。
なんと、岩手県遠野市の金取遺跡 9万年前 !!
島根県出雲市の砂原遺跡 12万年前 !!
長崎県 平戸市 入口遺跡 10万年前 !!
これらはすべて、4万年前にアフリカを出て世界に人類が拡散したという、いわゆるアフリカ単一起源説を完全に否定するものである。
現に、日本旧石器学会のホームページにはこれらの遺跡は記載されていない。
まだ、学界から認められていないということだ。
いわゆる、「渡来人史観」批判…【今回は重要です】渡来人は倭人だった 渡来人が何万人も朝鮮半島から渡ってきたというの無理ではないか?? その狭間を埋めるもの、それがまさに九州王朝説である

考古学崩壊 前期旧石器捏造事件の深層 2014/竹岡俊樹 (著) から引用する。
捏造事件にもみられた「インチキ性」は、日本の考古学を覆う現象であるという。
80年代にはじまるソフトウェア経済(経済縮小)の中で、町おこしとマスコミにすり寄って、日本の考古学は学問としての考古学を失った。
このようなケースは旧石器時代に限らない。
邪馬台国畿内説や、狗奴国の所在地論争をめぐって、恣意的な解釈や強引な主張、仮説に仮説を継ぐ論議がいかに平然と行われていることか。
考古学の学問性は、じつは今や、風前の灯火なのである。(朝日新聞、宮代栄一)
表立って誰も言わなくなったが、私は、邪馬台国畿内説というのはインチキの中でも最悪のインチキだと思ってる。
邪馬台国はどこにあったかを問えば、素人の約8割が、九州を推し、考古学、歴史学者たちは9割がた畿内説を支持していると何かの調査で読んだことがある。
邪馬台国九州説を支持する私でも、畿内説の学者が書いた本にも目を通している。
中で、近頃、最悪だった本を取り上げたい。
罵詈雑言になるので、著者の実名は控える。
まず、そもそも論として、箸墓古墳は、ヤマトモモソヒメの墓だと日本書紀にも記されているのにそれを卑弥呼の墓とするのはいささか強引ではないか?
それから、そもそも、日本書紀に卑弥呼の記述がない…
畿内からあれほど出土する銅鐸もない。魏志倭人伝にもない。だから、邪馬台国をみたシナ人は九州には行っていても、畿内には行っていないというのがまず挙げられる。
この最悪の著者の邪馬台国畿内説の本は比較的、近年、出版されたものであり、大部の本で、全国どこの図書館でもみられる。
中で、私がいちばん引っかかったのは、「コメの生産」に関するあれこれ。
4,5ページ費やして、コメの増産に成功したから、畿内は優越しているのだとの説を展開している中で、私がアレッ?と思ったのは、延喜式を引用してる箇所。
何やらよく分からない延喜式を引用してるが、私も延喜式を引用してるが、端的に言って古代は九州の方が農業生産は抜きんでていた。
邪馬台国畿内説の人がよく言うことに、「あの田舎の九州」に7万戸はおかしいというもの…
しかし、我が国でもっとも早い時期の延喜式を見た方がいい。
【稲作の分布】古代は九州のほうが圧倒的に大きい。ほぼ、3倍!!!
旧国 『延喜式』出挙稲数(束)
◆畿内 2,087,126
山城 424,070大和 554,600河内 400,954和泉 227,500摂津 480,000
◆西海道 5,990,581
筑前 790,063筑後 623,581豊前 609,828豊後 743,842肥前 692,589肥後 1,579,117
延喜式は10世紀だから、古代3世紀ごろはもっと差が大きいんじゃない??
弥生時代の農業生産はおそらく畿内全域と九州で10倍くらいは差があったでしょう。
延喜式 出挙稲数
畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000
西海道 5,990,581
筑前 790,063
筑後 623,581
豊前 609,828
豊後 743,842
肥前 692,589
肥後 1,579,117
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3920
この人たち(邪馬台国畿内説論者)は、延喜式を知らないのだろうか、不思議な気分になる…
詭弁の最たるものである。
九州王朝論者からみた、纒向学からの発信~纒向遺跡から14人のメッセージ 2023/3/4桜井市纒向学研究センター (編集)

まず、何よりも邪馬台国畿内説論者たちがダメダメなのは、その狗奴国の場所の比定についてである。
3世紀(弥生時代末期から古墳時代初期)の倭国で邪馬台国の尽きるところである南に位置する。
魏志倭人伝には「女王国の東の海を越えるとまた倭種の国」とある。
畿内説だとこの部分が全く説明がつかない。畿内説では琵琶湖を無理やり「東の海」としているようだが・・・
さらに言えば、>參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里(魏志倭人伝)
一周が5千里(約400km)余りの島だってんだから、九州島以外にはあり得んだろ、近畿説とか頭おかしい…
『魏志倭人伝』には、倭人は、「鉄の鏃(やじり)」を使うと記されている。
「鉄の鏃」は、福岡県から398個出土している。 奈良県からは、わずか4個しか出土していない。
圧倒的な差がある。
それでも、『魏志倭人伝』に、なんの記載もない「土器」の話などをもちだし、複雑な理論構成をして、「邪馬台国は、畿内説できまりだ。」などと主張する考古学者がいる。科学に必要な簡明さにおよそ欠けている。
いかなる矛盾にも目をつむってよいのであれば、どんな議論でもなりたつ。
数々の状況証拠からして、現・熊本県以外ありえないのに、邪馬台国畿内説論者たちは、尾張にあったとか、三重県にあったとか言ってる。
まず、この段階で読む気をなくすが、我慢して読み進めるが、邪馬台国畿内説は相変わらずダメダメである。
埋もれた銅鐸 (1970年) (紀伊国屋新書) 1970/ 森 秀人 (著) 人口500万未満だった日本列島、その400年の間に20万!! これを異常と思わない不思議…

言うまでもなく、小林行雄のこうした文章の詭弁は、苦しい言い逃れであり、学者として恥ずべき欺瞞である。
それでは、なぜこんな珍妙な(小林行雄の)伝世鏡説ができたのかといえば、
ヤマタイ国 畿内 自生論者の小林行雄にとっては、北九州の弥生墳墓からは前漢時代の古式の銅鏡がたくさん出るのに、
畿内のそれから出てこないことは、畿内文化が鏡と縁がなくなってしまうからであり、そのために畿内の弥生人だけは、銅鏡を尊重するあまり伝世し、子孫に伝えたと主張したのである。
↑邪馬台国畿内説の根幹ともいえる小林行雄氏の説が、いかに詭弁に満ち満ちたものであるか明白であろう。こういう森秀人氏のような、まっとうな論がかき消されている !!
土偶を読む――130年間解かれなかった縄文神話の謎 2021竹倉 史人 (著) 晶文社

人類学者・中沢新一 372ページ
「日本のなかでは、考古学が、茶道や華道のような家元制度とよく似た発展をしているなと思いますね。
ひとつひとつの所作にものすごく重大な意味を持たせて分類されていくんだけども、それは閉じられた世界のなかだけで意味を持つことで…」
↑すごく共感する。現状の日本考古学に対する至言ではないか。
邪馬台国畿内説なんか、完全に家元制度だ。
>これに対して、この数年間に調査のおこなわれてきた大和古墳群での中山大塚、下池山、黒塚などの前期古墳の埋葬はいずれも木棺を壮大な竪穴式石室で囲みこんでいたし、若い日の僕が発掘に加わった櫛山古墳は石棺を竪穴式石室のおさめていた。
今回発掘されたホケノ山古墳では、木棺の外側に木槨と石室との2重の外部施設を備えていて、倭人伝が記している倭人の葬法には合っていない。森浩一「関東学をひらく」より 2001 朝日新聞
「魏志倭人伝」には、倭人の葬式は、 棺あって槨なし。」 と、明記しているのだ。
木槨のなかに木棺があったのでは、「魏志倭人伝」の記述に合っていない。<
ではなぜ、「はじめに邪馬台国畿内説」なのか。
それはそのように教育されたからである。京都大学を中心として、その伝統にもとずき、考古学の分野で、そのような徒弟制度ができあがっているからである
その徒弟制度(いや、家元制度かな 笑)からはずれれば、就職も生活も出世も不利となる可能性がある。
こんな連中(邪馬台国畿内説派)に税金を使うのは無駄である。

