明治十九年長崎。巨艦定遠などから成る清国北洋艦隊の水兵四百人が上陸し、日本人警察官との間で「小戦争」を繰り広げた。
日本人警官側は二十九名が殺傷され、清国側も五十名が死傷した。
事件は、被害者の日本が清国の海軍力を恐れ、喧嘩両成敗で処理された。
当書は、当時の新聞記事や裁判記録、外交文書などを分析・調査し、事件の詳細を再現。埋もれていた歴史に光りをあてる大冊。
「中国とその政治権力である中国共産党がもっとも恐ろしいのは、歴史もなく、文化も持ってない野蛮な集団だということだ。
中国は文化大革命や紅衛兵騒ぎによって、自分たちの文化も文化もすべて壊してしまい、共産主義という宗教も文化もない政治体制を作り上げてしまった。」
ジャーナリスト・日高義樹 米中時代の終焉 (PHP新書) 2020より
気息奄々たる上海の邦人工場 窮状を語る操業率 大阪朝日新聞 昭和6.11.15(1931)
上海にある各種工場は日貨排斥により、今や重大な危機に当面しつゝあるが、
二十四日上海駐在加藤商務参与官代理から外務省への入電によると、
何れも事業休止或は極度の縮小を余儀なくされ、この先排日貨が継続すれば
各工場軒並に休業するものと憂慮されている、
ttp://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?
↑土人は土人… 歴史は繰り返す…
前坂俊之オフィシャルウェブサイト 地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

『忘れ去られた近現代史の復習問題』―『日清戦争の引き金の1つとなった『明治19年の長崎清国水兵事件とは何か』
2017/04/23
長崎事件1
日清戦争前夜、清は旅順に要塞と軍港を作り,北洋艦隊(李鴻章)の根拠地にしていた。
1886年8月1日,北洋艦隊の新鋭戦艦「定遠」「鎮遠」と巡洋艦「済遠」「威遠」の4隻が,
日本政府には何ら予告なく,無許可で修理のためと称して突然,長崎に入港。
艦名の「遠」は外国,特に日本をさし、「定遠」「鎮遠」は日本鎮定の意味。
(ドイツ製で,排水量7,400t,当時世界最大の戦艦だった。ちなみに現在の日本のイージス艦あたご7700t)
日本海軍はイギリス製の「浪速」と「高千穂」(3000t)の小艦があるだけ。当時の日本海軍は、
中国主力艦『鎮遠』、『定遠』の2装甲艦にまったく立ち向かうことができない実力であり、
戦争など思いもよらないことだった。
8月13日には中国水兵が勝手に上陸開始。兵力は500人以上。
長崎市内をのし回り,商店に押し入って金品を強奪しました。酒を探して飲み,
市民の女性を追いかけるなど,散々に暴れ狂った。

巨大戦艦「定遠」
長崎事件2
急報により,日本人巡査が鎮圧に出動したが,多勢に無勢,袋だたきにあう。
やがて応援の巡査の一隊が駆けつけ,双方抜刀して市街戦になった。
斬り合いの結果,双方とも八十数人の死傷者を出した(中国水兵4人、巡査2人が死亡)。
その後、中国水兵は続々と200人ほども集まり、
つかまった仲間を助け出そうとして警察署の門前に押しかけた。
警察署も門を閉ざして警備を厳重にしたため、その日の水兵たちは引き上げた。
8月14日、上陸した中国兵の一部は骨董店などで古刀や古武器を購入、
これを日本に住んでいた中国人に預けて、翌日の騒動に備えていた。
上陸にあたっては武器の携行が許可されていなかったためだ。
日本に住んでいた中国人が内通して襲撃に加わったという情報もある

当時の清国の巨大戦艦「鎮遠」
長崎事件3
8月15日、清国水兵数人が交番の前でわざと放尿した。
交番の巡査が注意すると、彼らはその巡査を袋叩きにした。
これを見ていた長崎市民が激昂し、清国水兵に殴りかかった。
すると、清国水兵の一団が加勢し大乱闘となった。
そして、止めに入った警察官と清国水兵が斬り合う事態に発展し、それぞれ死傷者を出した。
夜になって、仕返しをしようとして300人ばかりの水兵が数十人ずつ隊をなして上陸、
広馬場町の飲食店にたむろして、一部が通りかかった巡査を侮辱して挑発、
周辺の飲食店などにたむろしていた刃物や仕込杖で武装する水兵たちが、
3人の巡査によってたかっての暴行を加えた。
3人の巡査は、一人がその場で死亡、二人が重傷を負い、
うち一人がかろうじて囲みを破って、付近の警察署に危急を告げた。

長崎事件発生当時の明治時代の長崎港
長崎事件4
ここから騒ぎはさらに大きくなり、水兵たちは80人ほどが一隊となって
梅ヶ崎や濱野の警察署へ押し寄せようとし、道すがら通りかかりの住民へも暴行を加えた。
巡査たちは道路を大八車で遮断し、水兵たちを迎え撃つ。
道端の家々も門戸を閉ざすと、住民は石を持って屋根に上がり、石や瓦を投げて水兵たちを攻撃した。
負傷者が続出すると、もともと大半が酩酊している水兵たちは総崩れとなり、
追い散らされて、一部は逮捕された。
これにより、中国人士官1名が死亡、3名が負傷、水兵も3人が死亡、50人余りが負傷した。
日本の警察も警部3名が負傷し、巡査2名が死亡、16人が負傷し、住民にも十数名の負傷者が出た。
この長崎事件は当時、日本全国に一大ショックを与え、
中国に対する日本人の敵愾心が、烈火のように燃え上がった。
「長崎事件」後日談
長崎事件を起こした敵国のシンボルである中国北洋艦隊の定遠は,
日清戦争の黄海海戦で火災を起こし,軍港の威海衛に退避。
日本海軍は水雷艇による夜襲(夜間の魚雷攻撃)を爆沈。
「定遠」に乗っていたイギリス人軍事顧問によれば,
日本の水雷艇が距離二百メートルに接近して始めて攻撃に気付いたときには
「定遠」は魚雷によって艦が傾き、ようやく浅瀬に乗り上げて転覆を免れたという。
「定遠」の装甲鉄板だった門扉が太宰府天満宮に残っている。
中国北洋艦隊といいながら、艦隊顧問はイギリス人、威海衛の軍港建設の指導はドイツ人。
中国軍といいながら、その実、イギリス、ドイツなど西洋諸国が多数加担。
日清戦争は,西洋の列強が中国の戦力を利用して行った日本侵略を阻止し、
さらには朝鮮から南下してくるロシアとの国境線を画定させるための防衛戦争だった。
西洋の列強の侵略戦争を勝ち抜くために多くの国民の命が犠牲に。
もし,日清戦争に負けていれば,今頃は,確実に中国の属国として中国をしゃべっている。

【3DCG再現】清国水兵の暴挙!「長崎を火の海に 」小戦争と評され日清戦争の原因の一つとなった暴動事件
歴史の物語 チャンネル登録者数 14.4万人
6.1万回視聴 9 か月前
@朝日-r3h
1 か月前
あまりにも今日と同じ構図で……民度って変わらんのか?
@ryuryumaxful
4 か月前
福沢諭吉先生が言った通り関わってはいけない民族なのかもしれない
@jpcz_yt
6 か月前
彼の国が一生信頼できない理由。民族単位で何世紀も性根が腐ってるんだね…関わりたくない
@mioyudono4852
6 か月前
敗戦後の「朝鮮進駐軍」の悪行三昧と同じく、義務教育の歴史の教科書に掲載すべき
↑素晴らしすぎる!! 是非ともすべての日本人に見て欲しい。
日本の近代はここから始まった。
何度も書いているが、先に殴ってきたのはシナだからな…
あまりにも過少に忘れ去られている。
危険である。
尖閣をめぐるシナの言いぐさ、行動にそっくりである。
何度、殴られてもわからない、バカ人種である。
日清戦争時の総兵力、
日本は24万人に対して清国は98万人。
軍艦は、日本28隻に対して、清国は82隻。
GNPは日本の約10倍!!!
日露戦争も似たようなもんだが、こんな巨大な敵を倒してるもんだから、真珠湾攻撃したくなる気持ちもわかるというもの、
↑まったく結果をみれば奇跡のような、両国の差である。当時の清国は決して小国ではなかった。
むしろ、この事実を全面に出して子供たちに教えるべきではないだろうか。
↑圧倒的なこの戦力差のまま、8年後、日清戦争でシナを打ち負かしてしまうのだから、ただただ、ひたすら凄いというほかない。
日清戦争は、完全にシナから殴ってきたものだ。
シナが殴ってきた → それすなわち、長崎事件である。
反日バカ左翼のこのテーマの本、30冊ばかり読んでいるが、一つの重大なポイントに気が付いた。
反日バカ左翼は、いつも日清戦争を取り上げる際、けっして「長崎事件」には触れないということ。
長崎事件は全く知られていないが、1886年(明治19)その当時、清帝国と呼ばれた中国の北洋艦隊が突如長崎に来襲し、水兵の大集団が大暴動を起こした侵略事件だ。
長崎事件(長崎清国水兵事件)
1886年8月1日、北洋艦隊の新鋭戦艦「定遠」「鎮遠」と巡洋艦「済遠」「威遠」の4隻が、日本政府には何ら予告なく、無許可で修理のためと称して突然、長崎に入港した。要するに、弱小国、日本を舐め切っていた。
艦名の「遠」は外国を意味し、特に日本を指していました。
「定遠」「鎮遠」は日本鎮定の意味です。
この僚艦はドイツ・フルカン社製で、排水量7,400t、主砲は30cm×4、当時世界第一の大戦艦でした。
その頃、日本海軍は英国アームストロング社製の「浪速」と「高千穂」(3000t)の小艦があるだけでした。
当時の日本海軍は、時の清国主力艦『鎮遠』、『定遠』の2装甲艦にまったく立ち向かうことができない実力であり、戦争など思いもよらないことでした。
8月13日には清国水兵が勝手に上陸を開始しました。
兵力は500人以上。長崎市内をのし回り、商店に押し入って金品を強奪しました。
酒を探して飲み、市民の女性を追いかけるなど、散々に暴れ狂いました。
結局、清国水兵は警察官と衝突。
死者10人、重軽傷者70人以上という大暴動に発展しました。
この長崎事件は当時、日本全国に一大ショックを与え、清国に対する日本人の敵愾心が、烈火のように燃え上がりました。
この事件の背景には、朝鮮問題を巡る日清両国の紛争がありました。
そこで日本を脅かすため、清国海軍が計画的に長崎に殴り込みをかけたのです。
当時の弱小国、日本は歯噛みしながら、なす術もなかったのです。
李鴻章は日本に謝罪するどころか、 日本との戦争も辞さずという強硬な態度を取る。
日本政府はその圧力に屈し、3万7千円の賠償金を払い日本側関係者の処罰まで行う。
これは出来レース、はじめから日本に因縁ふっかけるつもりで連中は日本に来ていた。
なぜこのような理不尽な処理をしたかというと、当時の清国の兵力108万人に対して日本は7万8千人であり、もしこの事件がきっかけで戦争になったら簡単に東京を制圧され、九州を取られていただろうと予測されていた為だ。
事件の後、日本人はプッツン切れた。あのクリスチャンの内村鑑三でさえ、
「文明国として不実のシナに対しては鉄血を以って正義を求めるしかない永久平和の為に戦え」と言ったほど
そして日本は軍備増強を行い、8年後、清国を打ち破るのであった。
この長崎事件を契機として、日本人の防衛思想の根底に、大陸を国防の第一線とする考え方が生まれたのです。
売国サヨクの歴史観にはこの歴史認識(長崎事件)が抜けてる 無垢なる中国に一方的に悪いことした… アホか
売国サヨクの歴史観にはこの歴史認識(長崎事件)が抜けてる 無垢なる中国に一方的に悪いことした… アホか
参考論文といっても以下のたった2つしか書かれていないという惨状!!
安岡昭男「明治十九年長崎清国水兵争闘事件」法政大学文学部紀要36、1990年
朝井佐智子「清国北洋艦隊来航とその影響」愛知淑徳大学現代社会研究科研究報告4、2009年
「1891年、明治24年、再び北洋艦隊は今度は横浜へ入港する。
作家・石原慎太郎は正宗白鳥が握り飯を持って横浜港まで北洋艦隊を見物に出かけたことを書いている。
北洋艦隊の来航は日本人にとって、清国に対する意識を大転換させるきっかけとなった未曾有の事件であった。
日清戦争開戦への世論が整う条件として、様々なものが考えられるが、少なくともその一つに北洋艦隊の来航が考えられるのではないだろうか。それ程、当時の日本人に大きな衝撃を与える事件であったのである。」
朝井佐智子「清国北洋艦隊来航とその影響」愛知淑徳大学現代社会研究科研究報告4、2009年。
朝井氏の論考はわずか16ページだが、内容豊富で福沢諭吉や右翼団体・玄洋社への影響など盛りだくさんなので読まれることをすすめる。
参考文献はたったの2つしか書かれてないということは知っていたが、その後、自費出版でこんな素晴らしい大部の本が存在することを知った。
著者は、NHKで記者、ジャカルタ特派員などを、その後は大学教授も務めたジャーナリストである。

いまから130年余り前に、長崎でおきた重大な主権侵害事件の全貌を、詳細に記録した歴史書である。
ロシアのウラジオストクからの帰途、船底の修理という名目で長崎に寄港した清国(現中国)北洋艦隊の4隻の軍艦から上陸した、400人の清国海軍の士官・水兵が長崎市内で暴れまわり、日本人警察官や市民を襲い、市内の警察署を3度にわたって襲撃した。
明治19年(1886年)8月15日の夕方から深夜まで続いたこの“市街戦”で、日本側は、警察関係では巡査2人が死亡、27人が重軽傷をおった。
警察官を助けて清国水兵と戦った大勢の長崎市民のうち、20人も重軽傷をおっている。
一方清国側も、士官1人の他、水兵7人が死亡、42人が重軽傷をおった。
長崎市内では、定遠、鎮遠など清国軍艦が市街地を艦砲射撃するという噂が流れ、長崎市民のなかには家財道具を大八車に乗せて避難する者もでる混乱ぶりであった。
事件発生を受けて――
当時の長崎県知事・日下義雄は、蔡軒駐長崎清国領事に厳重に抗議し、関係者の処罰を要求する。
だが清国側は、清国水兵にも多数の死傷者がでており、原因は日本の警察・人民が非武装の清国水兵を襲ったからだと、加害者と被害者を逆転した主張を展開した。
事件解決のための日清両国間の外交交渉は、東京で井上馨外務大臣と、清国の徐承祖公使との間で続けられるも、決裂してしまう。
最後はドイツに仲介を依頼し、翌明治20年2月8日に、喧嘩両成敗の形で日清両国が合意した。
その結果両国が、相手方の死傷者に弔意・見舞金を支払い、事件関係者はそれぞれの国の法律で裁くことになった。
死傷者数が多い清国側が計5万2,500円を日本政府から受け取ったのに対し、日本側が清国側から受け取った金額は、死傷者数が少ないこともあって1万5,500円であった。
明治政府の使命である「条約改正」交渉を清国とも進めなければならない、という言い訳はあるにせよ、清国の砲艦外交に対して日本が敗れたことは明らかであった。
当事者の長崎県の警察官だけでなく、市街戦に参加した長崎市民、広く言えば日本国民は、この妥結結果に屈辱を感じた。
その後開かれた日本側の裁判では、若い巡査4人が重禁錮という判決を受けている。
本書が基にしているのは、当時の長崎の新聞「鎮西日報」や、日下義雄長崎県知事が政府にあてた報告書、井上馨外務大臣と徐承祖公使との交渉を記録した外交文書、等々である。
680頁という量に躊躇される向きもあろうが、本書は堅苦しい学術論文ではなく、著者が言う「記者が歴史記事を書いた」ものであり、内容は読みやすい。
日清両国が喧嘩両成敗で合意したあと、朝野新聞は次のような記事を掲載している。――
「支那は自ら中華帝国と称し、傲然と外国を軽蔑している。
外部からの刺激があるときには隣国に友好を求め、機会があればまた己の威力を欲しいままにするのは支那政府のいつものやり方である。
この国と一葦水(一衣帯水)を隔てて相対峙し、長くその平和を全うせんと欲すれば、彼をして毎(つね)にわが国を忌憚せしむる他に方略はない」(本書394頁)
130余年前に朝野新聞が指摘したことは、今おきていることにそのまま当てはまる。
中国による尖閣諸島の領海侵犯が連日伝えられ、中国の行動が注目されるこんにち、近代日中関係の原点ともいえる「清国水兵暴行事件」を詳述した本書を、一読することをお薦めする。
支那、清国、中国と呼び方こそ変われ、中国のやり方は不変である。
世界のリアルを感じた長﨑事件【CGS ねずさん 日本の歴史 10-6】
ChGrandStrategy チャンネル登録者数 51万人
44,954回視聴 2017/06/16
明治19年に起きた事件から一体なにか変わったのだろうか?
是非御覧ください。
清国人士官1人死亡、3名負傷、そして清国人水兵3名死亡、50人余りが負傷。
日本人側も警部3名負傷、巡査2名が死亡、16名が負傷。
長崎市民も十数名が負傷という、長崎の街にとっては、大迷惑な大事件となった。
今の中国も、この時代の清も武力を前面に出して、力で周辺国を押さえようとしていたのです!
130年以上経っているのに、この自意識の高い考え方は変わってない。
中国、韓国に対峙する時、日本の紳士的な考えは、もう止めた方がいいだろう!
時間探偵 日中韓の歴史

清国の暴挙 長崎事件を知っていますか : 2020年8月11日 artworks
長崎で暮らしていて、長崎の歴史はある程度知っていたつもりだったのだが、この長崎事件は知らなかった。
先生も教えてくれなかったし、テレビでもやった事はないと思う。
知らなかった事がとてもショックである。
現実に起こった事件なのに、この年まで知らなかったのが悔しく思うので、資料を基に書いていきたいと思う。
↑長崎県出身で現在も長崎に住んでいるフォト・ジャーナリストが語る「長崎事件」 貴重です。
この人、戦後、ちょうせんじんが大暴れしたことまで書いてくれてる。必読です。
日清・日露戦史の真実 ――『坂の上の雲』と日本人の歴史観 (筑摩選書) 2022/渡辺 延志 (著) なぜ、日本の近代史から長崎事件が消されているのか?

村上宗隆選手の活躍が止まらない!!彼のベルトに燦然と輝く「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の4文字こそは、まさに我が国が日清戦争、三国干渉をはねのけた魔法の4文字である。

日清戦争の講和条約の下関条約では、一旦清国から日本への遼東半島の割譲が決まったが、ロシア・ドイツ・フランスの三国は、日本は清国に遼東半島を返還するようにと要求した。これを三国干渉(さんごくかんしょう)という。この三国干渉に日本政府は従い、日本は清国に遼東半島を返還した。多くの日本国民は三国干渉に反発し、国民たちの間に「臥薪嘗胆」の言葉が流行して、特にロシアへの反発心が強まっていった。
臥薪嘗胆!三国干渉とは

とはいえ、3年後の明治31年(1898)、ロシアは清国と李鴻章・ロバノフ協定を結んで、遼東半島の旅順・大連をまんまと租借します。強まるロシアの脅威を念頭に置いて、明治政府は軍備拡張に力を注ぎました。清国から得た賠償金はほとんどが軍事費に回されましたが、それだけで足りるはずもなく、増税によってまかなうことになります。
国民は「臥薪嘗胆」という言葉とともに、その負担に耐えていきます。この忍耐とロシアへの強烈な危機感が、やがて日露戦争につながっていくのです。
在日という病――生きづらさの当事者研究 2023/朴 一 (著) 明石書店 これだけのことをしといて、日本人を殺しまくって、生きづらさもないだろうに(笑) 皆さんはどう思いますか??

■拝啓、反日テロリスト集団で罪日記者うじゃうじゃの毎日新聞さま、こういう史実も紹介してよ■
昭和20年8月末、わたしは所用の帰途、女の悲鳴をきいた。
人通りもすくない神戸東山病院の裏手である。白熱の太陽がキナくさい焼跡に照りつけていた。
一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。
途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。
「どないしたんや」 「おかあちゃんが、おかあちゃんが」
少女はわたしに泣きじゃくりながらしがみつく。
この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。
「ここにいるんやで。ええな」
私は少女をその場において一目散に走った。
少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。朝鮮人の男たちだった。
彼らは不適な薄ら笑いで女の手足をおさえつけ、一人がその上に乗っている。
女は狂ったように絶叫していた。
「汚ねえ・・・・」
うめくと、わたしは遮二無二彼らに突進していった。(p194)
飯干晃一 著「山口組三代目 田岡一雄自伝」(1971年初版 徳間書店)
2014/11/04【社会】村上春樹「日本人には自分たちが戦争加害者でもあったという発想が基本的に希薄だし、その傾向はますます強くなっている」★5(c)2ch.net
6:40 2014/11/05 【社会】村上春樹「日本人には自分たちが戦争加害者でもあったという発想が基本的に希薄だし、その傾向はますます強くなっている」★8(c)2ch.net
2014/09/30 【神戸新聞/社説】「ヘイトスピーチ」規制、少数者の人権を守る手だてが必要[09/30]
↑これだけのことをしといて、日本人を殺しまくって、生きづらさもないだろうに(笑)
