九州王朝論者(法隆寺移築説)からみた、卑弥呼の居場所: 狗邪韓国から大和へ (NHKブックス 919) 2001/高橋 徹 (著) 邪馬台国畿内説についてつらつら思うこと…

どきどき古代史

 

高橋 徹氏に関してはむかし、道教と日本の宮都: 桓武天皇と遷都をめぐる謎 1991/高橋 徹 (著) 人文書院という名著があり、以来、愛読している著作家だ。

1938年、九州生まれ、朝日新聞記者。学芸部に所属して、1970年辺りから一貫して日本の古代史報道に携わってこられてる方だ。

卑弥呼の居場所: 狗邪韓国から大和へ (NHKブックス 919) 2001/高橋 徹 (著)が面白かったので取り上げたい。

卑弥呼の居場所のあいだに、コラムが挟まっており、それが異常に面白い。

コラム1では、古代史報道に関わる、古代史にハマるきっかけとなった古田武彦先生に触れている。

それでは、高橋徹氏が邪馬台国九州説に立つかと言えば、邪馬台国畿内説に立つとのこと。

そこが面白いところだ。

邪馬台国畿内説についてつらつら思うことを述べたい。

 

すべて面白いが、中でも特筆すべきなのは、「11章・論争に考古学を参入させた遺跡ー畿内」である。

椿井(つばい)大塚山古墳に触れている章だ。

この古墳から出た32面以上の三角縁神獣鏡の存在が考古学者・小林行雄の「三角縁神獣鏡 伝世説」の根拠となった、いわば邪馬台国畿内説の原点ともいえる古墳である。

 

椿井大塚山古墳 「卑弥呼の鏡」が見つかったとされる古墳 京都府木津川市

 

しかし、この謎解きも強固な邪馬台国九州論者の私から言わせれば簡単である。

先にいたニギハヤヒも「九州人」の物部族だったから、そのあたり古事記でも歯切れが悪い。

やがて、侵入してきた神武天皇の勢力と協調して生きていこうと決めた勢力(内物部)と、そうでない勢力(外物部)に分かれた。

たとえば、伊福部氏の祖先は、はじめ銅鐸を作っていたが、鏡づくりに方針転換して生きることになった。

それでたくさん作られて配られたのが三角縁神獣鏡だと思う。

とにもかくにも、畿内説はすでに破綻しているのではないか。

三角縁神獣鏡が現在まで600枚以上も出土している。

小林行雄が分配説、伝世説で畿内説を補強して一世を風靡したが、卑弥呼が100枚しかもらってないのに(笑)、すでに600枚、700枚を超える説もある。

正式な手続きを踏まず古物商などに流れたものを含めれば優に1000枚は超えていよう、とはおかしいではないか。

三角縁神獣鏡はまちがいなく国産だよ。

あと、鏡の埋葬状況が、弥生時代後期の九州の墓と、畿内の古墳時代の鏡の埋葬状況では明らかに「ぞんざい」に扱われているという現実が実際にある。

これは、明らかにシナの「威信」を借りて、鏡が日本で作られ、九州を真似て、畿内の古墳にたくさん配られたからではないだろうか。

 

考古学者・小林行雄の「三角縁神獣鏡 伝世説」の胡散臭さについては、このブログを読んでもらいたい。

 

埋もれた銅鐸 (1970年) (紀伊国屋新書) 1970/ 森 秀人 (著) 人口500万未満だった日本列島、その400年の間に20万!! これを異常と思わない不思議…

埋もれた銅鐸 (1970年) (紀伊国屋新書) 1970/ 森 秀人 (著) 人口500万未満だった日本列島、その400年の間に20万!! これを異常と思わない不思議…
埋もれた銅鐸 (1970年) (紀伊国屋新書) 1970/ 森 秀人 (著) 人口500万未満だった日本列島、その400年の間に20万!! これを異常と思わない不思議…

 

あと、高橋徹氏に限らないことだが、邪馬台国畿内説論者が犯す致命的な欠陥、間違い、誤認識について触れたい。

何故か、この重要な点に触れない邪馬台国畿内説論者の考古学者、歴史学者が多すぎる!!

 

いずれにしても、倭人伝に記載された中では、もっとも人口が多かった国であることは事実であろう。

ともかく当時としては、邪馬台国は途方もない人口を抱えていた国ということになるわけだ。

それを思うと、卑弥呼のいた都の所在地は大和と呼ばれた狭い範囲だったにしろ、国としての規模は、畿内といった広い地域を考えるのがよさそうである。 178ページ

 

邪馬台国畿内説の人がよく言うことに、「あの田舎の九州」に7万戸はおかしいというもの…

しかし、我が国でもっとも早い時期の延喜式を見た方がいい。

【稲作の分布】古代は九州のほうが圧倒的に大きい。ほぼ、3倍!!!

旧国 『延喜式』出挙稲数(束)

◆畿内 2,087,126
山城 424,070大和 554,600河内 400,954和泉 227,500摂津 480,000

◆西海道 5,990,581
筑前 790,063筑後 623,581豊前 609,828豊後 743,842肥前 692,589肥後 1,579,117

延喜式は10世紀だから、古代3世紀ごろはもっと差が大きいんじゃない??

弥生時代の農業生産はおそらく畿内全域と九州で10倍くらいは差があったでしょう。

延喜式 出挙稲数

畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000

西海道 5,990,581
筑前 790,063
筑後 623,581
豊前 609,828
豊後 743,842
肥前 692,589
肥後 1,579,117
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3920

この人たち(邪馬台国畿内説論者)は、延喜式を知らないのだろうか、不思議な気分になる…

 

あと、ツッコミどころ満載の邪馬台国畿内説論だが、とくに弥生時代における絹の出土地について触れたい。

天理市成願寺町の下池山古墳から出土した絹の断片を根拠にしてるが、下池山古墳の★築造年代:4世紀初~中頃である。

弥生時代前期の九州・有田遺跡からでた絹とは比較にならないというか、比較してはダメでしょうと言いたい。

本書は、2001年の出版である。25年も経ってその後、関西に絹が出たかと言えば出ていないらしい。

「弥生の絹の出土は、北部九州に限定されている―この事実が、すべての始まりです」

事実、日本最古の絹が出土した有田遺跡を筆頭に、福岡市だけでも6つの遺跡から絹が出土していて、うち4つは糸島市と福岡市の境にある日向峠付近である。

いずれも弥生時代のもので、本州、四国、南九州からは一切出土していない。

本州の大和(奈良)や出雲(島根)からは、その後の古墳時代になってから。

「出典は布目順郎さんの『倭人の絹』という著書です。

布目さんは京都工芸繊維大学の名誉教授で古代絹を長年研究されてきた第一人者で、全国の遺跡を調べてこの結論に至っています。

つまり弥生時代後期に存在したと言われる邪馬台国は、絹を出した遺跡の分布からみるかぎり、北九州にあった公算が大きいと。そして、日本へ伝来した絹文化は、北九州で醸成され、近畿地方や日本海沿岸地方に伝播したものと考えられる」

 

「邪馬台国は北九州以外、考えられない…」 倭人の絹―弥生時代の織物文化 1995/1/1布目 順郎 (著)

「邪馬台国は北九州以外、考えられない…」 倭人の絹―弥生時代の織物文化 1995/1/1布目 順郎 (著)
「邪馬台国は北九州以外、考えられない…」 倭人の絹―弥生時代の織物文化 1995/1/1布目 順郎 (著)

 

考古学者 森浩一氏

ヤマタイ国奈良説をとなえる人が知らぬ顔をしている問題がある。(中略)

倭人伝では、”養蚕をおこない、糸をつむぎ、細やかな(けん)や緜(めん)を作っている”。

作っていただけでなく、魏へ二度めに派遣された使者が献じた品物のなかに、”倭錦、青、緜衣、帛布”などがある。
(中略)

布目氏(布目順郎氏、京都工芸繊維大学名誉教授)の名著に『絹の東伝』(小学館)がある。目次を見ると、

『絹を出した遺跡の分布から邪馬台国の所在地等を探る』の項目がある。

簡単に言えば、弥生時代にかぎると、絹の出土しているのは福岡、佐賀、長崎の三県に集中し、前方後円墳の時代、
つまり4世紀とそれ以降になると奈良や京都にも出土しはじめる事実を東伝と表現された。

布目氏の結論はいうまでもなかろう。

倭人伝の絹の記事に対応できるのは、北部九州であり、ヤマタイ国もそのなかに求めるべきだということである。

この事実は論破しにくいので、つい知らぬ顔になるのだろう。

 
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おしまいに、邪馬台国九州説の決定的根拠と私には思われるが巷間あまり流布していない事実を述べる。

女王国の東、海を渡る千余里、復(ま)た国有り、皆倭種なり。又侏儒(しゅじゅ)国有り、其の南に在り、

人の長(たけ)三・四尺、女王を去る四千余里。

海を渡る千余里 ← 関門海峡のこと

復(ま)た国有り、皆倭種なり ← 関西人 近畿のこと

又有侏儒國在其南

↑侏儒国は、高知県沖の、沖の島だよ

石切で有名な 強制労働でじっさいに小人が多かったらしい

江戸時代の地誌「沖の島記」にそれらしき描写がある

横山やすしの母方の故郷

 

『新説伊予の古代』合田洋一著 2008年11月 創風社出版

七、侏儒国しゅじゅこく — その痕跡を沖の島(宿毛)にみた

「魏志倭人伝」に、

「女王国の東、海を渡ること千余里、復た国有り。皆倭種。又、侏儒国有り。其の南に在り。人長三、四尺。女王を去ること四千余里。」

とあり、「侏儒国」(中国では小人のことを侏儒という)について、古田氏はその地として足摺岬近辺から豊後水道の四国側の東岸領域を比定しております。

そこで私は、この中で近世までは周りと接触が少なく隔絶していたであろう閉鎖的土地柄、そのような地に侏儒の遺伝的形態が保存されているのではないかと考え、実地調査をしたところ、その痕跡を宇和海と黒潮がぶつかる周囲23キロメートルの孤島「沖の島」(高知県)に発見しました。

島在住の人や島から転出している人、また先祖を含めて家族のことを証言してくれた年配の人の中には、身長が140~150センチメートル、あるいはそれ以下の極めて背丈が低い人が少なからずいましたし、「この島は身長が150センチ以下でも、恥ずかしくない土地柄です」との証言もありました。

このように比定地を具体的に提示したものの、何分にも身体的特徴を調査・検証することは、差別・人権侵害に繋がる恐れがあるため、未だ統計学的な論証はできていないことをお断りした上で、更に論述を進めます。

魏使は「投馬国」(薩摩国)へ行く途中、この「侏儒国」を己が目で見て確認したものと考えます。従って、「倭人伝」に登場する国々の中で、読んで字の如く「侏儒(小人)国」は全く特殊な国です。また「倭種」との記載はないので「異人種」です。

この「侏儒」は遺伝的形態のピグミー(男子の平均身長が150センチメートル以下の人種の総称 — 『広辞苑』)であったと考えました。

そこで、小人種すなわちピグミーについて『日本大百科全書』では、

ピグミーには、アフリカ系のネグリロとアジア系のネグリトの二種がいて、この内フィリピンにはネグリトに属する先住民族「アエタ」がいる。このアエタは(中略)山岳地帯に住み、焼畑農業や弓矢を使っての狩猟・漁労が生業である。

と記しています。
この記述から私は、侏儒の人々はフィリピンから黒潮に乗ってやって来たであろうと推測しました。というのは、江戸時代の地誌『沖島の記』 14 に、島人の習俗について次の記述があるからです。

「人物常ニ月代セズ、着用短ク紐帯ナリ、色黒ク目多ク丸シ、夜ナドハ男女見別ガタキコトアリ、

人物ヲ難シタルコト他言無用トゾ、水田子薪ハ頭ニ置キ往来ス、

雨中ニ傘ナシ下駄モ不用石ノ上ヲ往テ不濡、岩ノ上嶮岨ノ所ヲ走リ廻ルコト猿ノコトシ。」

この著者は対岸の幡多地方小尽浦こづくしうらの庄屋浜田魚臣ですが、同じ幡多郡内にありながら、島人をまるで異人種であるかのように描写しております。

この中には背丈の記述はありませんが、「色黒ク目多ク丸シ」は、私も多く見知っているフィリピンの低身長の人たちの特徴を良く現しています。

そして、「岩ノ上嶮岨ノ所ヲ走リ廻ルコト猿ノコトシ」は正に山岳地帯に住む狩猟民族を思わせます。従って、これは「アエタ」の名残に違いないと考えました。

そして、この書には多くの「沖の島」の言語が収録されています。同じ幡多郡内にありながら、言語が土佐弁・幡多弁とは違うことから、ここに収録したものと思われます。

また、地名にも母島もしま地区に「アシロクロミ山」 15 と言う意味不明な如何にも不思議な名前が遺っており、「沖の島」の言語と「アエタ」語との共通性を検証することが今後の課題となるでしょう。

さて、古代に立ち返って、「侏儒国」の比定地とその範囲を考えて見ます。

海流の動きを考えれば、太古の昔、彼らがフィリピンから幡多地方一円にやって来て定着していた可能性は否定できません。

つまり、「沖の島」にある痕跡を見る限り、魏使の見た「侏儒国」は幡多地方西岸一帯であったと見做します。

そのように考えると、弥生時代にあって体格の上で不利な侏儒が、その騒擾・動乱の時代をとても乗り切れなかったと思われることから、やがて次第に追詰められて九州王朝の支配化に入り、その一部が「沖の島」に封じ込められたという見方もできるのではないでしょうか。

ただ時代を経るにつけ、四国や九州からも人々が入島して混血も進み、背丈も伸びてきたものと思われます。現在その痕跡は認められるものの、若い人は普通と変わりません。

 

【衝撃】将軍の身長124cm?江戸の日本人が小さすぎた理由


江戸ふしぎ解説図鑑 チャンネル登録者数 1290人

2万 回視聴 1 日前
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「肌色」の憂鬱 – 近代日本の人種体験 (中公叢書) 2014/眞嶋 亜有 (著)中央公論新社  読んだ感想…だから今こそ、「脱亜論」に還れと言いたい。

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史話・日本の古代〈別巻〉古代人のコスモロジー 2003/谷川 健一 (著)作品社 物部の東遷・東遷は2度あった

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YouTubeには色々と不満がある(特にちょうせんじん関係のコメント削除)がこういうものを無料で見られるというのは感謝感謝だ……畿内ではありえぬ「邪馬台国」 — 考古学から見た邪馬台国大和説 関川尚功

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