神宮はいかにして日本美の象徴となったのか 明治初年、「茅葺きの納屋」とされた伊勢は、20世紀に入り「日本のパルテノン」として世界的評価を受ける。民族意識、モダニズム、建築進化論の交錯を読解する
おもしろい!!!
さすがは建築学科出身だけのことはある。
面白いが結論はよくわからなかった。これは、井上章一氏が悪いわけではなく、さらに日本の建築学会の体質かなとも思った。
日本の神殿建築はいかに始まったのか、いかなる土地からやってきたものなのかをめぐる考察の数々である。
揺れ動くということに尽きる。
著名建築家、建築評論家が総登場する。
セレベスに、雲南にルーツを求めての評論が繰り返される。
江戸時代、京都北郊・雲ケ畑村に残る農家の一般住宅に神殿建築に特有の千木と勝男木が残っていることから、それを巡って交わされる江戸時代の論客の議論が面白い。
けっきょく、激しい過酷な環境に適応して生み出された千木と勝男木だったというのが正解だったというオチ。
明治初期、スコットランドに実業家で世界建築史のファーガソンという権威がいた。
日本に来たことはない。
そのファーガソンの「世界建築史」は当時、世評が高かったものらしく当時、東大でも教科書として使われていたという。
その本のなかで、日本を酷評する部分がある。
曰く、「日本に大した目ぼしい建築物はない…」
そんなものをわざわざ教科書に採用するなよと今なら思うが、明治時代、開国したてで弱気になっていたのかな。
他にも我が国への神殿建築への西洋人の酷評がこの時代目立つらしい。
ここでまったくの建築のど素人の意見。
生まれて初めて関東人が宇佐神宮に行ってみたときの衝撃は忘れられない。
神社に入ってからの距離が長いのも期待を抱かせ、いいものである。
濃い緑のなかに、朱塗りの壮麗な建物が現れた。それはじつに目に眩しいものであった。
そして出雲大社である。
なぜ、白木なのか。
一説では、海洋民出身のお宮は朱塗り、それ以外は白木だという。
簡素さと壮麗さが渾然一体となってそれはそれは見事なものであった。
あの長大なしめ縄をみて、やはり思い出すのは、俳人・高浜虚子の絶唱。
去年今年(こぞ、ことし)、貫く棒のごときもの
安芸の宮島も忘れ難い。
夕刻に行ったのも良かった。
ふと、ここは古代ギリシャかと……。
たまたま3つの神殿を挙げたが、いずれにも共通するのは、荘厳さということだ。
外人が何と言おうと、どうでもいいのではないか。
日本の神社建築が優れているのは、ルーツがどうあれその独自性、孤立性だ。
見る人がみればそれは一目りょうぜんだ。
昭和42年に来日したイギリスの歴史学者トインビーは、真っ先に伊勢神宮に参拝して、千古の神宮林の繁る神域に立ち、「すべての宗教の基底になるものが伊勢神宮にあると感じる」と毛筆で神宮に記帳した。
伊勢神宮の建築様式は現代の建築家にも高く評価されている。
昭和初期に神宮正殿を拝観したドイツの建築家ブルーノ・タウトは、当時の日記に「伊勢神宮は、独創的な真の日本だ。日本固有の文化の精髄であり、世界的観点からみても、古典的天才的な創造だ」と絶賛し、その感銘を著書「日本美の再発見」に綴っている。
「私は、ここ、聖地にあって、諸宗教の根源的統一性を感じます」。
(人間と文明の行方 日本評論社 トインビー100年記念論集 P-250~)
豊臣秀吉の <バテレン追放令(全五ケ条)> からの抜粋 天正15年(1587年)6月19日
一、 日本は神国であるのに、キリシタン国から邪教を伝えたのははなはだけしからぬ 一、 彼らが諸国の人を帰依させ、神社・仏閣を打ち破らせたのは前代未聞のこと
一、 伴天連はその知識をもって自由に信者を獲得してもよいと考えているが、
日本の仏法を破壊するので、まことにけしからぬ。・・・帰国すべきである。
いいぞ! 秀吉!! その通り!!
風向きが変わってきたのは(外国人が日本の神殿建築のユニークさを褒めるようになったのは)、皆さんもご存じの昭和初期に伊勢神宮正殿を拝観したドイツの建築家ブルーノ・タウトあたりからだ。
あとがきに異例な記述を見つけた。弱気になった井上章一氏が面白い。
「私はこれまでに、建築史とかかわる本を、いくつか書いてきた。そして、そのいずれにも、既成の建築史学への反省をせまるところがあると、自負している。もちろん、この本にも。
だが、建築史の学会は私の仕事を黙殺した。あたかも、そんな本はなかったかのよう顔をして、やり過ごしたのである。
私の筆は、しばしば学説の成り立ちにも、触れていた。学会そのものが、学問をゆがめるからくりにも、迫っている。
私は、学会に、自らをかえりみて欲しいと考え、本を書いてきた。しかし、ことは思うように運ばない。こまったことを書いてくれたもんだ。そう煙たがられているだけで、おわってしまったようである。」
神殿建築のルーツにまつわる話に関連するが、私は、世界最古の木造建築・法隆寺がどこからやってきたかについては昔から大いに興味を持ってる。
法隆寺への精神史1994/2/1井上 章一 (著)弘文堂
ギリシャ神殿のエンタシス柱がユーラシア大陸を越えて法隆寺の丸柱になった、という伝来をはじめ数ある法隆寺論の歴史的変化を追い、近代日本の夢の跡を復元する。美人を論じるように法隆寺を論じた日本文化論。
↑これを読み込んでも、隔靴掻痒の感は否めない。
それはなぜかと言えば、やはり、法隆寺移築説を認めれば(言及すれば)、九州王朝説を取り上げざるを得なくなる。
「法隆寺再建非再建論争」なんか、一瞬で吹き飛んでしまう可能性が出てくる。
日本の歴史にまつわる根幹が揺らいでしまう可能性がある。
私は現在、そういう結論に達している。
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法隆寺移築説に現在私が知っているだけで以下の3つがある。
1 法隆寺のものさし―隠された王朝交代の謎 (シリーズ・古代史の探求) 2004/2/1川端 俊一郎 (著)ミネルヴァ書房

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川端 俊一郎(かわばた しゅんいちろう、1939年 – )は、日本の経済学者、北海学園大学名誉教授。学校法人北海学園理事。北海道生まれ。
法隆寺の再建は新築か移築かの論争が展開されている。
本書は建立に使われた「ものさし」で新説を展開する。法隆寺は中国南朝尺で寸法が合う。
日出処天子の太宰府は、もと南朝の都督府で倭国の首府、その遺構も南朝尺だ。
遣隋史のころ筑紫で落成し、大和へ移築された法隆寺は、隠された王朝交代を測る「ものさし」でもある。
2 法隆寺は移築された―太宰府から斑鳩へ 1991米田 良三 (著) 新泉社 世界最古の木造建築、法隆寺の五重塔や金堂は九州大宰府から移築された。

法隆寺の資材帳や昭和の解体修理工事報告書などを詳細に検討、三十三間堂・観世音寺の謎も解明。倭国の文化と聖徳太子の原像を描き出す。
建築家である著者の結論は、法隆寺は九州大宰府から移築されたというもの。
名高い法隆寺の再建・非再建論争のことは知っている人も多いと思うが、それを圧倒する結論、それが法隆寺移築説である。
著者略歴・米田良三 建築家、古代史研究家。1943年三重県松阪市に生まれる。
1968年東京工業大学建築学科卒業。
建築から日本古代史を見直す研究をつづける一方、古代建築の基礎構造をヒントに耐震技術の開発を行っている。
最近の研究で、五重塔の心柱の用材は年輪年代測定によって確認できる最も外側の年輪が594年のものであり、この年が伐採年に極めて近いと発表されている。
伐採年が『日本書紀』における法隆寺の焼失の年(670年)を遡ることから、九州から解体されて運ばれた用材が40~80年余りも現・法隆寺の近辺に置かれていたという推察が成り立つ。
現在のJR法隆寺駅の南方の川岸周辺に寺院資材が大量に積み上げられて置かれた。
そこの地名が「置留(おきどめ)」→「興留」として残ったのではないか著者は推察する。
他にも法隆寺金堂の「昭和大修理」で解体された際、「六月、肺出」という落書きが残っているのが発見された。
肺とはハレー彗星のことで、617年6月に地球に大接近したときに符号する。金堂建築中に目撃した大工が、稀に見る自然現象を書き留めたものと推定される。
心柱の伐採年が594年で、617年6月に九州観世音寺(現・法隆寺)を組み立てていたとすればつじつまが合う。
3 1962年に宮大工の棟梁の家系に生まれた11世伊藤平左衛門もまた、建築に使われる尺度の歴史的違いに着目することで、法隆寺は後世の再建で、別の場所から移築されたと結論付けた。
古建築秘話 / 伊藤平左エ門著 鳳山社 , 1962
文化勲章受賞者で、輝くばかりの経歴を持っている人だが、この本は、家族が重版を拒否して、知る人ぞ知る本になってしまっていることが惜しい。
↑2と3は成り立たないらしい。「高麗尺」というものを持ち出して移築説を論じているが、「高麗尺」ではどうしても端数が出るとのこと。
『南朝尺のモジュール材と分による法隆寺の造営』(学術雑誌、2002年)川端 俊一郎
『法隆寺のものさしは南朝尺』(学術雑誌、2004年)川端 俊一郎
2の、九州大宰府、観世音寺からの移築説も成り立たないと川端 俊一郎氏。
「観世音寺の塔は、四天中の間隔が、221センチほどであるが、法隆寺では268センチもある。観世音寺の中心柱を受ける心礎抗は90センチもあり、法隆寺の中心柱82センチを受けるには大きすぎる。」
九州の八女あたりの何処かから移築されたのではないかと、 川端 俊一郎氏。
3者の素晴らしい移築説は完全に無視されているが、法隆寺がどこかよそから・北部九州からに確信!!移築されたのは間違いないと思う。
これだけある移築説を完全無視する、日本建築学会もどうかと思う。
川端 俊一郎氏の論考に至っては、査読拒否、掲載拒否という不当な対応。
3人のうち、2人は物故者だが、川端 俊一郎氏は健在である。
九州王朝信奉者からみた、「法隆寺を支えた木」(西岡常一)2019

1934年に法隆寺棟梁となる。
20年間にわたった法隆寺昭和大修理で、古代の工人の技量の深さ、工法の巧みさに驚嘆したという。法隆寺金堂、法輪寺三重塔、薬師寺金堂、薬師寺西塔などの復興の棟梁として手腕をふるった。
素晴らしい本だが、私の関心は一点、法隆寺は移築されたのではないかということ。
1934年に法隆寺棟梁となる。20年間にわたった法隆寺昭和大修理で、古代の工人の技量の深さ、工法の巧みさに驚嘆したという。
法隆寺が移築されたなら、この人が気づかないはずはない。
現実に実際に、米田良三氏の問いかけに対して、和紙に毛筆で「法隆寺移築を認める」手紙を送ってきたと。
『続・法隆寺は移築された YONEDA’S 建築史学入門』 10ページ部分。
西岡常一氏は云う。
飛鳥時代人の「ひらめき」と「やり抜いた」行動力がなかったら、こんな古い建物を、いまのわたしたちは見られなかったのではないでしょうか。
それは、建物の掘立柱式を、礎石式にしたことです。
何百年と続いてきた古代人の掘立柱方式を法隆寺創建にあたって急に礎石式にきりかえたのは、どういういきさつと、だれの力によるものなのでしょうか。
46ページ 飛鳥人のきらめき 法隆寺を支えた木
じつは法隆寺以前に近畿地方に大寺院は多い。
飛鳥寺西方遺跡、川原寺、山田寺、若草伽藍(法隆寺の前にその場所に建てられていた。発掘で明らかになった)、四天王寺。
684年に起きた白鳳大地震ですべて倒壊してしまったと地震建築の専門家でもある米田良三氏はいう。

実際に、山田寺の発掘で明らかになったことだが、液状化現象で倒壊してそのまま放置されたことがわかっている。
だから、畿内勢力(仮にこう名付けておく)は、九州王朝の現・法隆寺を移築した際に、九州王朝の礎石式が優れていることを理解して、法隆寺を移築した際も礎石式にしたということが真相だと米田良三氏はいう。
聖徳太子と法隆寺の謎: 交差する飛鳥時代と奈良時代 2005/倉西 裕子 (著)平凡社
聖徳太子と法隆寺をめぐる古代史の二大論争点に決着を迫る問題の書。日本書紀に内在する、飛鳥と奈良の時代をつなぐ隠された年代列を手がかりに、残された謎を合理的に解く。
↑法隆寺移築説を考えるに当たって、この本が欠かせない。著者は公平な人で、何もこの本が法隆寺移築説に立っているということではない。
これまでの、聖徳太子と法隆寺の謎、論争をを明確に簡潔に述べている良書である。
684年に発生した白鳳地震がすべてのきっかけだという気がしてる。
つまり、法隆寺が移築されたのは、684年に大地震が発生した後、すべての畿内勢力が作り上げた大寺院が倒壊した後だということだ。
「法隆寺はやはり移築されたんではないの、井上はん…」
併せて読みたい
新井宏『まぼろしの古代尺―高麗尺はなかった』一九九二年 吉川弘文館