〈徳川家康こそが知りたい「伊賀越え」成功の全容〉〈明智光秀を裏切ったのは誰だ!〉
天正10年(1582)6月2日未明に起こった「明智光秀の乱(本能寺の変)」の真相に迫るには、その時、堺にいた徳川家康がど のようなルートで本領・三河国岡崎へ帰還したのかがカギとなります。
本書では、関連する物事をキーワードとして、時間を追っ てその真意をひもとくとともに、家康に随行していた甲斐国の武将・穴山梅雪が影武者となり、従者二百名も犠牲となった「伊賀越え」が行われたことを立証していきます。
津田宗及によって開かれた茶会の真意、光秀の盟友・長岡(細川)藤孝の思惑、 羽柴秀吉による策略など、奇術ともいえる、仕組まれた謎を解き明かします。
【天正10年(1582)6月2日未明に起こった「明智光秀の乱(本能寺の変)」の真相を、徳川家康による「伊賀越え」から読み解く。】
この本は一読、大いに不満が残った。
タイトルに「伊賀越え」とあるのに、その部分の記載が少なすぎないか?
余計な、というか「無駄な」周辺知識が多すぎるのだ。
それでも、徳川家康の「伊賀越え」というのは、本能寺の変直後、忍者に先導されて、明智光秀から命からがら逃げることに成功したぐらいの知識しかなかったので、それなりに面白かった。
家康の従者二百名も犠牲となって(しんがりの、おとりの役目を引き受けて)、家康本体に、木津川を渡らせたのがすべての勝因らしい。
その差、4時間。
明智勢も家康探しに、血眼だったということがよくわかった。
だから、言うまでもなく、徳川家康と明智光秀は仇敵である。
この件、「伊賀越え」だけ見ればそうなる。
2023-02-27
(討つ相手は)家康様とばかり思っておりました 【本城惣右衛門覚書】天理図書館報、『ビブリア NO.57 昭和49年6月』所収
本能寺の変の現場にいた明智光秀配下の武士が残した唯一の記録として有名な「本城惣右衛門覚書」。惣右衛門の晩年の回想録(聞き書き)。
その理由は、信長様に腹を召させようとするとは、夢にも知りませんでした。
山崎(京都府乙訓郡)の方に向かおうとしておりましたが、意外にも、京へ(向かう)との指示がありました。
我等は、その頃、(徳川)家康様が御上洛中とのことでしたので、(討つ相手は)家康様とばかり思っておりました。
本能寺がどこにあるかも知りませんでした。
↑本書でも1,2行だが触れられている 【本城惣右衛門覚書】
我等は、その頃、(徳川)家康様が御上洛中とのことでしたので、(討つ相手は)家康様とばかり思っておりました。
ところが、現実に実際に、じつに不可解なこと…
それは、徳川幕府における、明智光秀人脈の重用である。
ここが不可解である。
だから、そういう考察は江戸時代はご法度で、明治大正時代になってから、そういう声が出始めた。
1916年(大正5年)、天海の伝記『大僧正天海』を著した須藤光暉は、天海は船木兵部少輔景光と妻の蘆名氏の子であると推定しているが、一部の考証家に「光秀が天海となり、豊臣氏を滅ぼして恨みを晴らした」という「奇説」を唱えるものがいると記述しており、この頃にはすでにこの説が唱えられていたとみられる。
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天海・光秀の謎―会計と文化 1993/岩辺 晃三 (著)税務経理協会 「天海・光秀同一説」 大いにあり得ると思ってる…

注目したいのは、初期徳川幕府を支えた人たちの、明智光秀人脈とでもいえる人の多さである。
まずは、春日局がいる。
春日局/斎藤福(かすが の つぼね/さいとう ふく、天正7年〈1579年〉 – 寛永20年9月14日〈1643年10月26日〉)は、安土桃山時代から江戸時代前期の江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号である。
3代将軍・家光の乳母である。
ところが彼女は、明智光秀の筆頭家臣、なんとあの本能寺の変で陣頭指揮を執り、のちに豊臣秀吉によって処刑された斎藤利三の実の娘である。
家光の子の徳川家綱の乳母には、明智光秀の重臣の溝尾茂朝の孫の三沢局が採用されている。
それだけではない。
斎藤利宗:春日局の実兄もまた、明智家滅亡後は、加藤清正に仕えていたが、後に徳川家光に5千石の旗本として、取り立てられている。
ふくの息子の稲葉正勝も家光の小姓に取り立てられ、元和9年(1623年)に老中に就任、寛永9年(1632年)には相模国小田原藩主となった。
明智光秀の孫の織田昌澄は大坂の陣で豊臣方として参戦したが、戦後に助命されている。
山崎の戦いで明智側についた京極家は、関ヶ原の戦いの折に西軍に降伏したにもかかわらず戦後加増された。
一方、光秀寄騎でありながら山崎の戦いで光秀に敵対した筒井家は、慶長13年(1608年)に改易されている。
↑こうしてみるとにかく、明智光秀人脈を選んで引き立てたと考えざるをない。
もちろん当然、徳川家康は天海僧正が明智光秀であること知っていたからこそのこの人選ではないだろうか。
なぜ、仇敵であった明智光秀人脈を重用しなければならないのか?
それは、天海僧正が明智光秀だったから、というのがいちばんしっくりくる回答ではないだろうか?
該博な知識をお持ちの著者にあっては、この謎の解明にぜひ務めて欲しい。
追記
「恩義を感じて」の部分、言い足りてなかった。
天海僧正は徳川幕府の栄光を風水面から作り上げた人物として知られる一方、徳川家康の「ニセ系図」まで作ってる。
この部分が大きいし、明智光秀(天海僧正)に頭が上がらなくなった、明智光秀人脈を登用する理由ではないか??
松平家は少なくとも清康の時代から新田氏支流世良田氏系統の清和源氏であると自称していたが、
↑履歴を固めるために、あの天海僧正が暗躍している。にせ系図を作っている。
この論点、掘れば掘るほど深い闇がある…
家康の正妻 築山殿: 悲劇の生涯をたどる (平凡社新書 1014) 2022/黒田 基樹 (著) 平凡社 著者が幻の奇書『史疑・徳川家康事蹟』をどう思っているのかに興味が湧く
