大阪生まれの頑迷固陋な邪馬台国畿内説論者だが、邪馬台国を除けば、この人の仕事は誠に大きなものばかりだ。
日本の成り立ちについて、根幹に触れる事ばかりだ。見事な人生であったと快哉を送りたい。
本書は私が持っている版で19刷り、佐原氏の最大のヒット作ではないかな。
内容にも同意できる。
本書では「去勢」という文化が日本になかったことを文学作品はじめ、色々あげて論証してる。
とにかく博引傍証、私の愛読書であるツルゲーネフの「猟人日記」まで出して論証してるところは感心した。
日本における、馬の育成方法が諸外国とはまったく違うという話もある。
端的に言えば、日本人は「去勢」を知らなかった?
だから、明治時代、例えば、1900年(明治33年)に北京近郊で発生した義和団事件において、諸外国の馬が参集した場で、日本の馬だけが興奮して暴れまわって手が付けられなったというエピソードがある。
こんなことが、「騎馬民族の末裔」にあり得るだろうか?
騎馬民族は来た来ない (小学館ライブラリー 78) 新書 1996/江上 波夫 (著), 佐原 真 (著)
↑本書より数年前に行われた当の騎馬民族説の江上 波夫との素晴らしい対談本。
この中で、佐原氏があげているこの事実が、日本に騎馬民族は来なかったことの最高の例証になり得ると私は思う。
日本陸軍が軍馬の去勢を始めたのが、信じられないことだが、この事件以降のことだという。
くわしくもっと知りたいという人はこのブログの後半を読んで欲しい ↓
豊日別宮 女神信仰と邪馬台国 田中了一著・2000年 自費出版 邪馬台国だけではなく、「倭国」の実態も、もしかしたら、この辺りにあったのではないか?

佐原氏の最大の偉業は、紫雲出山遺跡(しうでやまいせき)という香川県にある弥生時代の高地性集落遺跡の分析である。
「高地性集落(こうちせいしゅうらく)は、日本の弥生時代中・後期に、平地と数十メートル以上の標高差がある、標高100メートルを超える高地の山頂部や斜面に形成された集落である。」
「高地性集落の分布は、弥生中期に中部瀬戸内と大阪湾岸に、弥生後期に近畿とその周辺部にほぼ限定されている。
古墳時代前期には、西日本の広島・鳥取に、北陸の富山・石川・新潟に分布する。
しかし、北部九州にはみられない集落である。
集落遺跡の多くは平地や海を広く展望できる高い位置にあり西方からの進入に備えたものであり、焼け土を伴うことが多いことから、のろしの跡と推定されている。
遺跡の発掘調査からは、高地性集落が一時的というより、かなり整備された定住型の集落であることが判っている。
また、狩猟用とは思えない大きさの石鏃(石の矢尻)も高地性集落の多くから発見されている。
佐原眞のかつての高地性集落分析で、後期へいくほど、東へ行くほど、石鏃の重厚感が増す傾向があり、それは殺傷能力の増大が瀬戸内東部から河内にかけて有事体制を強化したことを指し示している。
高地性集落遺跡については、倭国大乱の時期とほぼ同じ時期(弥生後期の第二期)のものが顕著な形で近畿地方に残っており、これは神武の近畿侵入に対応する可能性がある。
森浩一氏は、その争乱の深刻さは自身で遺跡を踏破した人しか理解できないほどで、>集落の分布状況から、弥生中期~後期にかけて、北部九州~瀬戸内沿岸~畿内の地域間で軍事衝突を伴う>政治的紛争が絶えなかったとの推測もなされている。
>豊中市勝部遺跡の木棺から石槍が背に刺さった遺体や石鏃を数本打ち込まれたらしい遺体も発見されている。>これらの遺体は争乱の犠牲者とみられる。
>紫雲出山遺跡(しうでやまいせき)は、香川県三豊市詫間町に所在する弥生時代中期後半の高地性集落遺跡である。
本遺跡は、燧灘(ひうちなだ)に突出する岬上の先端にそびえる標高352メートルの紫雲出山山頂にあり、絶好の視野と眺望とに恵まれている。
本遺跡は、弥生時代中期の初めごろから始まって、出土遺物の量から判断して、中期も終わりに近づくにつれて集落の規模が拡大し、人口も増加したらしいが、中期をもって終わっている。政治・社会の変革は、もはや不便な山頂に居住することを必要としなくなったのであろう
本遺跡から出土の石の矢尻や剣先が豊富な事実と矢尻の重さから、弥生時代に戦いがあったと佐原は考えた。
@香川県善通寺市・旧練兵場遺跡 九州地方からの移住者住居跡
九州地方からの移住者の存在を県内で初めて確認した。
同遺跡は、弥生時代中期から古墳時代にかけての竪穴住居跡が多数発見されている県内最大規模の集落遺跡。
@紫雲出山遺跡(しうでやまいせき)は、香川県三豊市詫間町に所在する弥生時代中期後半の高地性集落遺跡
↑直線距離で8キロくらいだから、いい感じじゃね? 時代もぴったり合う
香川県善通寺市・旧練兵場遺跡に九州勢力が橋頭堡を築き、紫雲出山遺跡に籠もった原住系・銅鐸民との血みどろの戦いが行われていた証拠だよ
「高地性集落(こうちせいしゅうらく)は、日本の弥生時代中・後期に、平地と数十メートル以上の標高差がある、標高100メートルを超える高地の山頂部や斜面に形成された集落である。」
「高地性集落の分布は、弥生中期に中部瀬戸内と大阪湾岸に、弥生後期に近畿とその周辺部にほぼ限定されている。」
しかし、北部九州にはみられない集落である。
佐原眞のかつての高地性集落分析で、後期へいくほど、東へ行くほど、石鏃の重厚感が増す傾向があり、それは殺傷能力の増大が瀬戸内東部から河内にかけて有事体制を強化したことを指し示している。
高地性集落遺跡については、倭国大乱の時期とほぼ同じ時期(弥生後期の第二期)のものが顕著な形で近畿地方に残っており、これは神武の近畿侵入に対応する可能性がある。
↑ここまで、状況証拠があり、自身で分析しているのに !!
これが九州勢力の東遷を何より物語っている。
なのに、この人はどうして邪馬台国畿内説なのか? 不思議で仕方ない…
高地性集落と倭国大乱―小野忠熈博士退官記念論集 1984/雄山閣「高地性集落」を追いかけて…
