これは長らく古墳時代の石棺の材質について研究を進めていた間壁 忠彦が、熊本県宇土市の市役所職員、高木恭二に話を持って行ったことから明らかになったことであるという。
[新雑年鑑] 東アジアの古代文化 50号 (1987年早春) 創刊50号記念特大号
所収 「棺を運ぶ」 高木恭二
板橋旺爾『大王の柩』海鳥社 2007
大王のひつぎ実権航海実行委員会・読売西部本社編『大王のひつぎ海をゆく』海鳥社
↑この1000キロにも及ぶ熊本県から関西への石棺輸送の実現には、読売新聞西部支社と日本財団が資金を提供したという。
近畿の古墳の石棺のピンクの石って熊本産なんだろ?
これこそ東遷の証拠じゃねえか
おまえら、嫌いな国の、地方の産物に囲まれて死にたいと思う?
九州以外で確認された阿蘇ピンク石(馬門石)の石棺 5世紀後半~7世紀前半(築造年代は推定)
〈1〉岡山市・造山古墳 〈2〉大阪府藤井寺市・長持山古墳 (伝・允恭天皇陵陪塚2号棺)
〈3〉大阪府羽曳野市・峯ヶ塚古墳 〈4〉奈良県天理市・鑵子塚古墳 〈5〉奈良県桜井市・兜塚古墳 〈6〉桜井市・慶雲寺
〈7〉桜井市・金屋ミロク谷 〈8〉岡山県瀬戸内市・築山古墳 〈9〉奈良市・野神古墳 〈10〉滋賀県野洲市・円山古墳
〈11〉野洲市・甲山古墳
〈12〉大阪府高槻市・今城塚古墳
〈13〉奈良県天理市・東乗鞍古墳
〈14〉奈良県橿原市・植山古墳
・なぜ、大王のひつぎという重要な石棺に、九州のピンク色の石が使われているのか?
関西でとれる石ではなく、わざわざ赤い石を熊本から運んで来た理由は何か?
阿蘇ピンク石石棺の謎は「何故、九州から遙か東方へ運ばれ、使われたのか」ということのほかにもまだあります。
その一つに、地元の九州では石棺材として使われた形跡が現在のところ見つかっていないのです。
ここで石棺がある程度加工されて、近畿に運ばれて行ったそうです。
何せ古墳時代です。
この石を知っていたことも驚きだし、
あんな遠くまで運んでも、この石の中に眠りたかった情熱に驚かされます。
馬門 阿蘇ピンク石が切り出された所に行って来ました …
何故阿蘇のピンク石の石棺が近畿に運ばれたのか?
案1・近畿の人間が九州で死んだから、ピンク石の石棺に入れられて運ばれ埋葬された。
案2・九州ゆかりの人物だったので、特注して送らせた。
案3・ピンク石は近畿では神聖なもの …
ここで石棺がある程度加工されて、近畿に運ばれて行ったそうです。
何せ古墳時代です。
この石を知っていたことも驚きだし、
あんな遠くまで運んでも、この石の中に眠りたかった情熱に驚かされます。
美しいものを求める欲望と、それに応えようとする人々の
不可思議な連携のようなものに思いは巡らされ、
それが文化を創りだす原動力になったという人間力のたくましさに感動さえ覚えます。
日本古代の国家形成: 征服王朝と天皇家 (講談社現代新書 128) 1967/10/1水野 祐 (著)
この関係の数冊を読んだが、わざわざ熊本からピンク石を運んだのは一体誰だったのかについての考察がないのが残念である。
私はこの事実を知って、水野裕先生の「狗奴国、九州の覇王になった」説を思いだした。
狗奴国は女王卑弥呼の邪馬台国と長らく対立してて、以降の文献に記載はないが、けっきょく狗奴国が勝利して東遷を開始したのではないかとの説である。
石棺から古墳時代を考える: 型と材質が表わす勢力分布 1994/間壁 忠彦 (著)角川書店(同朋舎)
もの言わぬ石が何を語るのか。石棺の石材の産出地とその移動から当時の権力の様子を解明する。石棺調査の集成がこの一冊に収められた。石棺から古墳時代を考える。考古学ファン必見の興味深い一冊。