―キリマンジャロは、高さ19,710フィートの雪におおわれた山で、アフリカ第一の高峰といわれる。
その西の頂きはマサイ語で「ヌガイエ・ヌガイ(神の家)と呼ばれ、その西の山頂のすぐそばに、ひからびて凍りついた一頭の豹の屍が横たわっている。
そんな高い所まで、その豹が何を求めてきたか、今まで誰も説明したものはない。
ヘミングウェイ「キリマンジャロの雪」(龍口直太郎訳 角川文庫)
常世田という自分の名字について、学校の先生にまともに読んでもらえないから悔しかったとの記憶から始まる。
とこよだ、と読む。千葉県銚子市の一部にしかない希少名字だという。
銚子市のすぐそば、西南の海側に、隠れ里のような素敵な窪地があって、そこに常橙寺という古い寺があり、薬師様の古い仏像がある。
昭和30年に、まさに「発見」された秘仏だったようである。
それまでは年に1回だけ、御開帳されていたみたいだ。
常世田という姓はその土地に集住しているらしい。
どれだけ古いかは、藤原時代辺りに造られたであろうとのこと。
鎌倉期の修理の墨書きがみつかったことから、100年さかのぼっての判断とのこと。
いろいろ調べてみると、仏様は初めそこにはなく、今あるところから北西に10キロほど行った織幡という場所から何らかの理由で移転してきたようである。
佐原市の下あたり、香取神社のそばである。
別 所
織幡区内の東北部に、「別所」という小字があります。
地続きが、旗鉾の小字「別所」になっています。工場団地の西側にあたるところです。 けわしい山林と、水田が少しある所です。
織幡別所の真中に、離れ小島のように、ポッンと、寺屋敷という小字があります。上ノ池、下ノ池とよぷ池があり、上ノ池に大蛇がいると、本当に思われていました。
別所研究の大家、武蔵野史談会・会長・菊池山哉先生が、織幡に別所の地名があると聞いて、何回も調査に来られました。
菊池先生の研究によれば、別所は、全国どれも伺じように特殊にできた、エゾの天然の牢獄だというのです。
山の問や、谷などの人の出入りしにくい所に、和名抄(わみょうしょう)の古郷に対し、一力所だけあります。
岩座に立つ白山神社を鎮守とし、薬師堂、阿弥陀堂、観昔堂、子安神も祀ってあります。別所と名づけられたのは、平安朝の初め、六、七十年だけで、そのころ地名を音読するのは、官に関係あるものだけだったそうです。
延暦(782~805)年間の坂上田村麻呂のエゾ征伐のころが盛んで、編戸の民__おとなしく、百姓化した人たちもあり、俘囚料__正税がつくので、延喜式主税式により、全国で1万人以上、下総で220人のエゾが、三力所の別所にとらわれていたのがわかります。
織幡別所は、大槻郷の別所で、七十数人のエゾがいておとなしい百姓となったことがわかるそうです。
別所の村は、古い村だとハッキリ判り、二、三軒の草分けを伝えています。
銚子の常世田常燈寺の薬師様は、織幡の者が背負って行き、常世田へ止まったのだから、織幡から鍵を持って行かなければ、お開帳にならなかったと、織幡と、常世田に全く同じように、信ぜられている云い伝えがあります。
菊池先生は、織幡薬師は、織幡別所の寺屋敷の丘の上北側の四角に切りならした地に、堂を設けて蔵められ、松林の西の高い所に白山神社が祭られ、中心の千坪ばかりの畑地に、七十数人の住居が群れ、上の池から飲料水を求めていたといいます。
もとより、薬師は、国家が別所の人々のために造立したものですから、織幡別所のエゾの人たちが、おそらく香取神官の忌みに触れ、大移転が行われ、共に動座したのを、朧気に伝えられたと、思われるといいます。
常世田の常燈寺は、墓地がないお寺で、信仰一本で今まで続いたのがよくわかります。
境内に、桃山風の流れ造りの見事な白山権現の社殿があり、両手で竜神を捧げる、仁治(にんじ)頃と思われる一尺二寸ばかりの、桧の一木造りの岩座に立つ白山神が、村の氏神なのは、元別所の人々であることを無言に物語っています。
住民の姓は、小池、永井、星野に大体わかれ、これが草分けのようです。
常世田薬師の修理に寄進した者の中に、胤方より多額の鳥取氏や、東北を思わせる安倍氏や、奴婢(ぬひ)の名のあるのは注目されます。
また、台座や、光背が京都風であったり、胎蔵大日如来が、普通は一尊だが、これは三尊をあらわしたのは例がなく、特別の配慮と思われ、左足上結跏(けっか)はまれといわれます。
源義経が、兄頼朝に追われて、奥州に落ちた時、銚子で愛犬が吠え慕って大吠岬と名づけ、千騎群がったので千騎岩と呼んだ伝承の、数十年後に修理したわけですから何か、心に残るものがあります。
多田村旧記に、別所は昔、別所千軒といった。
征夷大将軍坂上田村麻呂が、延暦20年(801)、エゾ征伐の析、花見寺に十七日の祈願をこめ、護摩堂で怨敵退散、悪魔降伏の護摩修行し、護国院と称したのが今の織幡薬師であると、あります。
菊池先生は、私と二人でよく草の上にねころんで、いろいろの話をしました。
「織幡はいい所だなあ。」
と、目をつぶり、「別所の人たちが、出てくるような気がするなあ。」
と、くり返していました。」菊池先生が調査に釆て、私と道端で話している時、近所の老人が、汗をふきふき来て、
「あの別所のサンガで、すっかり汗をかいて・・・・。」
と、話しかけました。菊池先生は、「あ?お爺さん。今云ったことを、もう一ぺん云って下さい。」
と、間き直して「やはり、どこでも、別所では、坂を、サンガと発音するんですねえ。」
と、感心したように云いました。民俗学の一言にもそのような意味があると聞いて、ビックリしたものです。
〔採話)日下武重 〔原話〕石圏茂作 今井福治郎 平野元三郎 篠崎四郎 菊池山哉 日下部禎亮 小林平
小見川の昔話
『別所という地名について、菊池山哉の唱えた「俘囚の移配地」説が最も妥当だと考えている。
>山間僻地に多く、そこに東光寺、薬師堂、白山神社(本地仏十一面観音)を祭り、
>また慈覚大師円仁の伝承を伝えるなど、多くの共通要素を備えている。』
>『白山信仰は奥羽において一般的なものであり、奥州俘囚長の藤原基衡が建立した毛越寺・吉祥堂の本尊は、京都大原の別所にあった補陀落寺の本尊を模したという事実(『吾妻鏡』)からみて、別所と奥羽俘囚の関係は明らかである。
>蝦夷征伐は東北の鉱産資源、なかんずく産鉄労働力の確保にあったといえる。』
>蝦夷征伐による捕虜を俘囚と呼び、全国各地の産鉄地において労働者として従事させた、その地が「別所」だというのである。
鉄と俘囚の古代史 《増補版》 蝦夷「征伐」と別所 柴田弘武 (著) 彩流社 (1989) が、1989年に書かれ、2007年に「全国「別所」地名事典(上) 大型本 – 2007/柴田 弘武 (著) 彩流社」となって結実する。
20年かけて、こつこつと全国を巡り、写真に収め、解説を加えるという地道な作業。
それを、高校教師をやりながら、成し遂げたという偉業!!
いわゆる正統な日本史のセンセー達からは無視されているが、私はこれが真実と思う。
方向が間違っていれば結果は悲惨になるが、「坂上田村麻呂の蝦夷「征伐」は、歴史書で流布されている現実とは違っている。鉄をめぐる五百年戦争で大和朝廷の捕虜となった東北の産鉄民の移配地=別所説」はまったく正しい。
全国「別所」地名事典(上) 大型本 – 2007/11/1柴田 弘武 (著) 彩流社
古代史の真相に迫る、かつてない「地名」事典!「別所」―全国に遺る621ヵ所の地名を悉皆調査。「蝦夷征伐にともなう俘囚移配の主目的は、彼らを製鉄をはじめとした金属工業生産に従事せしめる為であった」という説を実証。古代王権に敗れ、歴史に埋もれた産鉄民の姿に光を当てる。621ヵ所の別所地名を中世の国別区分で編集。地図(約500点)、写真(約1250点)収載。巻末資料として「平成の大合併」により失われた地名と現在の地名対照表、全国別所地名一覧表を付す。
↑久々に開いてみたが、まさに圧巻。上下巻で1700ページ!
上巻、208ページにあった。
4,千葉県香取郡小見川町織幡別所、千葉県銚子市常世田
常世田町に、鍛冶ヵ入、タタラト、火ノ沢、金糞台の小字があり、鉄滓や火口(ほくち)が発見されているし、付近は時代は不明ながら産鉄地であったことは明らかである。
つくられたエミシ (市民の考古学) 2018/8/15 松本 建速 (著) 同成社