「古代国家と道教」(重松 明久)1985における、「大卒」発見について

どきどき古代史

前から気になっていたことを書こうと思う。

重松明久という半ば忘れ去られた歴史家がいた。

重松明久 - Wikipedia

 

邪馬台国論争は相変わらず盛んで、一時ほどではないにしても、毎月なにがしかの邪馬台国についての本が出版されている。

主な論点は周知のように、邪馬台国は果たして、九州にあったか、はたまた畿内ヤマトにあったのかという点である。

 

魏志倭人伝の中にでてくる「一大卒」という言葉、それを中国古典のなかに発見した人として、私は重松明久を高く評価している。

それは墨子のなかにあると重松明久は言う。

分かりやすく、訳文をあげる。

 

迎敵嗣条より 城郭の防備兵の配置について述べているところ

 

城上には、1歩ごとに甲士一人と、戟を持った一人の士がおり、
中略
城の四方には、大卒という各方面の将師がおり、中央には大将がいるとしている。

↑事実、伊都国に配置された大卒は、壱岐、対馬、奴国、不弥国など沿岸諸国におかれた軍事指揮官としての夷守の上に臨み、恐らく、政治・外交・軍事上 の指揮権を持っていた最有力ポストであったと思われる。

大卒の出典が「墨子」にあったとすれば、この点からも、墨子を教祖といただくシナの鬼道を、卑弥呼が採用していたことを裏付けるようにも思われる。

私も重松明久の影響で、墨子を読み始めた。

墨子(ぼくし、拼音: Mòzǐ)は、中国戦国時代に活動した諸子百家の墨家の開祖、墨 翟(ぼく てき、拼音: Mò Dí、紀元前470年頃 – 紀元前390年頃[1])の尊称。
およびその人物に仮託された書物の題名。

平和主義・博愛主義を説いた。中国の科学技術史の先駆者にも位置付けられる。

 

「墨」という姓から、墨(すみ)を頻繁に扱う工匠・土木業者だった、入れ墨を施された罪人だった、あるいは褐色の肌だった、など諸説ある。

司馬遷『史記』孟子荀卿列伝では「蓋し墨子は宋の大夫なり」(恐らく墨翟は宋の高官であろう)として憶測の文章になっており、前漢から早くも謎多き人物だったようである。

 

墨翟は、当初は儒学を学ぶも、儒学の仁の思想を差別的な愛であるとして満足しなかった。

そこで、無差別的な愛を説く独自の思想を切り拓き、一つの学派を築くまでに至った。一方で、その平和主義的な思想は、軍拡に躍起になっていた諸侯とは相容れず、敬遠されがちであった。

墨子は不思議な人で、明らかにテクノクラートであろう。

武器開発に独特の才能があったようだ。

優れた武器をたくさん開発製造しながら、戦争に反対し、万人への愛を説いた。

何やらダイナマイトの発明者、アルフレッド・ノーベルを想起させるではないか。

 

「非攻」、「兼愛」

やがて墨子の思想はシナの道教と習合し独自の発展を見せる。

江南一帯にその勢力を及ぼして10年に渡って短期間とはいえ、独自の王国を築いていた五斗米道がそれである。

 

九州北部に、大宰府を取り囲むように造られた謎多き神籠石の遺跡のことは知っているだろう。

山口県や四国にまで発見されたが、なぜか、古事記・日本書紀には一切記述がないというアレである。

ズバリ、これが卑弥呼の居城ではないかというのが重松明久の説である。

墨子以来の中国道教の影響を一番受けているのが邪馬台国だとする。

 

10.邪馬台国

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月

官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸

南(行)して、邪馬壹(臺の誤り)国(やまとこく)にいたる。女王の都とするところである。水行十日、陸行一月である。

官に伊支馬(いきま)がある。次(官)を弥馬升(みまと)という。

(その)つぎを弥馬獲支(みまわき)といい、(その)つぎを奴佳(なかて)という。

七万戸ばかりである。

↑この、奴佳(なかて)というのがズバリ中臣氏のことではないか?

 

豊後国風土記(8世紀前半)にも豊前仲津郡中臣村とあり、倭名類聚抄(931年 – 938年)にも中臣郷とある。

出身地が鹿島だの能勢だいうのも彼らの攪乱工作ではないだろうか。

中臣氏は、ここに、九州北東部に確かにいて、邪馬台国の高級官吏だったのではないか。

 

大分県出身の重松明久氏が勤務先の広島大学から車で帰省するたび、不思議に感じていたことがあるという。

それは福岡県京都郡(みやこぐん)の名前のこと。

こんな寂れた場所が、なんで京都(みやこ)なのかと。

不審に思って調べてみたら昔から(神代の昔から)、そこは美夜古といっていたことを知り驚く。

そこから、重松氏は邪馬台国は豊前一帯にあったとの説を唱えることになる。

 

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すでに明治時代に「神代帝都考」(狭間畏三)という名著がある。

古事記、日本書紀に出てくる建国神話の部分、地名の重なりが豊前一帯に多すぎるという疑問から本業が医者の地元出身の著者がこつこつと書き上げたものだという。

こぼれ話になるが、この狭間畏三という人は、歌手・森山良子さんのおじいさんだと!!

 

松本清張の推理小説「鴎外の婢」に「神代帝都考」が登場し、物語展開に重要な役割を演じている。

『近畿地方に成立した古代王朝の前身が、その東遷以前に、北九州の部族連合体であったことは、三世紀半に編纂された三国史東夷伝倭人の条の記事を見ても明らかである。

(中略)記紀には人名にも地名にもトヨの字が多く出てくるが、魏志倭人伝の「台与」がその音を写したものとすれば、後代に「豊」の漢字をあてはめた地名は北九州にずっと以前からあったものとみなければならない。

ツクシが奈良朝期にできた九州の広い呼び名で、豊の国がその中の狭い地域の呼び名であったことから、豊のほうが古い名であり、大化後の行政区画である豊前豊後のうち、豊前がその原体である。

それも豊前平野を占める京都郡(旧仲津郡を含む)が中心であったことは、従来史家のいずれも認めるところである。(後略)』

 

「海柘榴市は大和磯城郡(今の三輪町付近)にもある。

これが豊前の地名の東漸であることは、ツバキ市に関連する古地名が長門、周防、阿波、因幡、伊勢の経路に分布していることでも知られる。

地名の移動が民族の移動に付随することは、アメリカにおけるイングランド移住民の故郷地名の例をまつまでもない。

また、大和の海柘榴市がその地名の本来の由来を喪失していることは、日本紀略、枕草子に地名しか載せていないことでも分り、これも豊前の うたがきがはるかに古い証である。」

 

併せて読みたい

『邪馬台国の研究』重松明久 白陵社 1969

 

『古墳と古代宗教 古代思想からみた古墳の形』 重松明久 学生社 1978

 

『日本神話の謎を解く 神話形成のプロセスが古代日本及び日本人を浮き彫りにする』PHP研究所(21世紀図書館) 1983

『古代国家と道教』 重松明久 吉川弘文館 1985

『古代国家と宗教文化』 重松明久 吉川弘文館 1986

 

豊日別宮 女神信仰と邪馬台国 田中了一著・2000年 自費出版 邪馬台国だけではなく、「倭国」の実態も、もしかしたら、この辺りにあったのではないか?

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