昭和天皇伝 伊藤之雄 (著) 文藝春秋 2014/3/10 まさしく、救世主としての昭和天皇…

健康 古代史 時事一般

冒頭、2つの昭和天皇観が語られる。

中曾根康弘とアメリカ人歴史家・ハーバード・ビックスである。

中曽根元首相の昭和天皇礼賛はいいとしても、対比するのに旧敵国の学者を持ってくるのは穏当ではない。

というのは、ビックスは当時のアメリカ人支配層の中には、今日ではありえない人種差別思想の持ち主がいたことに全く触れていないからだ。

 

冗談抜きで、先の大戦で日本は滅んでもおかしくなかった。

それを救ったのが、昭和天皇その人である。

昭和20年9月27日。

昭和天皇とマッカーサー、二人が初めて会ったとき、昭和天皇が言ったことについて様々な声がある。

「マッカーサー回顧録」(1964津島一夫訳)によれば、

「私は天皇が、戦争犯罪人として起訴されないように、自分の立場を訴えはじめるのではないかという不安を感じた。

……しかし、この私の不安は根拠のないものだった。天皇の口から出た出たのは、次のような言葉だった。

『私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした』

私は大きい感動にゆすぶられた。

死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきでない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまで揺り動かした」

 

ジョン・ガンサーという内幕ものを得意とするアメリカのジャーナリストがいて、「マッカーサーの謎リドル1951」という興味深い本がある。

1950年(昭和25年)、来日し、GHQの後押しもあったのだろうが、昭和天皇との単独会見もやってのける。

その中で、マッカーサーから聞いた話として、こんなやりとりを昭和天皇との間でしたという。

「わたしの国民はわたしが非常に好きである。

わたしを好いているからこそ、もしわたしが戦争に反対したり、平和の努力をやったりしたならば、国民はわたしをきっと精神病院か何かに入れて、戦争が終わるまでそこに押し込めておいたに違いない。

また国民がわたしを愛していなかったならば、かれらは簡単にわたしの首をちょんぎったでしょう」(木下秀夫訳)

 

さらに、昭和天皇は戦後の回想(昭和天皇独白録1990)の中で、このように述べている。

「私がもし開戦の決定に対して、『ベトー』をしたとしよう。

国内は必ず大内乱になり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない。それは良いとしても結局、凶暴な戦争が開始され展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、果ては終戦もできかねる始末となり、日本は亡びることになったであろうと思う」

『ベトー』とは、ラテン語の拒絶を意味し、もし、自分が戦争に反対すれば、殺されていただろう、戦争を押しとどめることは、誰にもできなかったというのである。

↑これは本当かもしれない。というのは、東条英機の娘さんにインタビューした田原総一朗が言っていたが、日米開戦直前、山ときた国民からの手紙で圧倒的だったのは、断固即時に日米開戦すべしというものだったというから。

 

我が国の戦後社会では「ハル・ノートを受け入れても開戦すべきではなかった」という人たちがいる。

そうしていたら300万人の犠牲も、全土を焦土とすることもなく済んだ、というのである。

当時の世界の経済機構はブロック経済である。各国の経済活動は自らが支配する経済圏を基盤になされていた。

もし我が国がハル・ノートを受け入れてたら、どうなっていたであろうか。

資源もない日本で、原料輸入にも製品輸出にも、食料輸入すらにも不自由するブロック経済機構を背景にくらさねばならないのである。

腰をかがめて貧しい生活に耐えていくか、不満分子が暴発するか、暴力革命でも起こってソ連の手下になったか、
いずれにしても社会的混乱は避けられなかったであろう。

社会主義国にでもなっていたら、その過程で幾百万の生命が絶たれ、幾千万が収容所に送られたか想像もつかない。

大東亜戦争の結果、アジア植民地の19世紀的構造は破壊された。それは欧州のブロック経済機構の崩壊を意味する。

勝利した連合国すら世界経済機構へ進まざるを得なくなったのである。

『帝国海軍「失敗」の研究』 佐藤晃 芙蓉書房出版 2000/8/1

 

見事な分析である。これに付け加えて、マッカーサーの胸中を推察したい。

マッカーサーは厚木に降り立ったときから、とにかく、相当ビビっていたに違いないと思う。

「マッカーサーは厚木に降り立ったとき、失禁していた」(高山正之氏エッセイ)

バターン死の行進なども、いつの間にか、日本軍が悪いということになってるが、もとはと言えば、マッカーサーがコレヒドールの戦闘を放棄して自分だけで逃げ出したことに由来する。

オキナワ(バックナー中将爆死)、カミカゼ、硫黄島、タラワ、ペリリュー島……。

キチガイじみた戦いぶりの、昭和天皇は何といっても最高司令官様である。

キル・ジョンウンか臭菌平を数等倍上回る悪魔キャラを想像してたに違いない。

ところが、会ってみて……。

混乱して信じられなかったに違いない。

あと、大切なこと。

人種差別の世界だったということ。

みんな忘れてるが、人種差別というもの厄介なもの。

昭和天皇は戦後の回想(昭和天皇独白録)の中で戦争の遠因として以下のように述べています。

「この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦後の平和条約の内容に伏在している。

日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州(カリフォルニア)移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに十分なものである。又青島還付を強いられたこと亦然りである。

かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がった時に、之を抑へることは容易な業ではない」

人種偏見、差別の強い白いアメリカで黒人の次に日系米人は強い差別を受けていた。

大正13年5月31日 アメリカ大使館に隣接する空き地で割腹の自刃を遂げた無名の青年がいました。
アメリカ国内では「反日機運」が強くなり、その年の4月に「排日移民法」が成立したことに対して、「生きて永く貴国人に怨みを含むより、死して貴国より伝えられたる博愛の教義を研究し、聖基督の批判を仰ぎ、併せて聖基督により、貴国人民の反省を求め…」と遺書を残しアメリカに抗議しての自決でした。

↑黒人の大統領が出てきたり、今じゃ考えられないだろ、こんなの。騙しだまし、やってきたけど、堪忍袋の緒が切れったってところか。

 

日露戦争に日本が勝ったことは、その後の世界情勢に大きな変化をもたらした。

米欧諸国が日本に対して本気で牙を剥き始めたのだ

■有色人種とは、白人に跪く家畜である――。二〇世紀初頭、米欧列強は大真面目にそう考えていた。

南北アメリカを押さえ、アフリカを制圧し、アジアはほぼ掌中にあった。問題は白人国家がどういう形でアジアを分割支配するかだけだった。

ところが思わぬ日本の反撃に遭遇し、米国は特に過敏な反応を示した。

大正時代から昭和十年代にかけて実施された『オレンジ計画』がその代表的なものだ。

「排日土地法」「対日法案」「対日絶対法案」――。

これらの法案は日本を家畜扱いした異常とも思える差別思想で構築されている。

まずは米国人に帰化した日本人の帰化権を奪い、土地を奪い、絶対的に日本人を締め出した。

挙げ句の果てにルーズベルト大統領は、「劣等アジア人種の品種改良計画」を提案する。

――アジア人種はヨーロッパ人種との交配により品種を改良させる。ただし、日本人だけは品種改良計画から除外し、日本という島国に隔離して衰退させる――。
ルーズベルトのこの計画は、本気で実行に移された。

↑得意げに語るルーズベルトのことをイギリスの(人種差別の先駆者 笑)キャンベル公使が驚きをもって手紙に書き残してる

駐米イギリス公使ロナルド・キャンベル(Ronald Hugh Campbell)との私的な会話で、ルーズベルト大統領は、スミソニアン博物館の研究者であるアレス・ハードリチカによる、

日本人の頭蓋骨は「われわれのより約2000年、発達が遅れている」という見解を紹介した上で、

「人種間の差異を重視し、人種交配によって文明が進歩する」などと語り、「インド系やユーラシア系とアジア人種、欧州人とアジア人種を交配させるべきだ。

だが日本人は除外する」、「日本人が敗北した後は、他の人種との結婚をあらゆる手段を止めて、日本という島国に隔離して衰退させる」などとキャンベルに語ったという。

↑アメリカ白人はリーダー自らがこんなだから、まこと呆れる…

ヒトラー・ナチスと寸毫も変わりはない。

大東亜戦争は人種解放戦争だった! ヒトラーのモデルはアメリカだった――法システムによる「純血の追求」 (みすず書房) 2018/ジェイムズ・Q・ウィットマン (著)
https://dokidokitenkataihei.com/hitler/

こういう狂人を相手に「日米交渉」とかやってた、近衛内閣の人たちの努力には頭が下がる。

真珠湾攻撃のあとも、あれはドイツ人パイロットが操縦してたんだ、ジャップは近眼なので戦闘機なんか操縦できないはず、といったことをアメリカ高官が大真面目にしゃべってた。

 

今のアメリカからは想像もできませんが、有色人種が人間であることが認められたのは大東亜戦争が 人種解放戦争だったからだ。

先人の偉業に感謝…

靖国神社にいきましょう。

日本は、「東亜百年戦争」を戦ったのである。(「大東亜戦争肯定論」林房雄)

日米は、まったく別の戦争をした…

アメリカ    → 人種差別戦争

大日本帝国 → 亜細亜解放戦争(聖戦)

 

>真珠湾攻撃の翌日(1941年12月8日)、フランクリン・ルーズベルト大統領は、日本に対して宣戦布告を求める議会演説(恥辱の日演説)を行った。

>ハミルトン・フィッシュは、米下院の共和党議員で主導的政治家だったので民主党のフランクリン・ルーズベルト大統領の政敵だったが、

>国家の一大事に際して、ルーズベルトの演説に続いて、それを容認する演説を行った。

>特にフィッシュが問題にしたのは、ルーズベルトが「ハル・ノート」の存在を議会に隠していたことだった。

>私たちは、日本が、和平交渉の真っ最中にわが国を攻撃したものだと思い込んでいた。

>ワシントンの議員の誰一人としてそのことを知らなかった。

>民主党の議員も共和党の議員もそれを知らされていない。

>私はルーズベルトを許すことができない。
>彼はアメリカ国民を欺き、全く不必要な日本との戦争にアメリカを導いた。

>日本は、面積がカリフォルニアにも満たない人口八千万人の比較的小国であった。
>天然資源はほとんど保有せず、また冷酷な隣国であるソビエトの脅威に常に直面していた。

>天皇は名誉と平和を重んずる人物であり、側近の攻撃的な軍国主義者を制止するために、できるかぎりのことを行っていた。

>日本はフィリピンおよびその他のいかなる米国の領土に対しても、野心を有していなかった。

>どうしてイギリスが極東における数多くの領土を保有する絶対的な権利を持つべきであり、その一方で日本が近隣諸国からコメ、
>石油、ゴム、錫その他の商品を購入することさえもできないくらいの制限を米国によって課せられなければならないのか。
>こんな理不尽な話はあり得ない。

>しかし、ルーズベルトはすでに対日戦、対独戦を行うことを決意していたというだけの理由で日本首相との話し合いを拒否した。

>日本との間の悲惨な戦争は不必要であった。

>これは共産主義の脅威をより恐れていた日米両国にとって、悲劇的であった。

>我々は、戦争から何も得るところがなかったばかりか、友好的だった中国を共産主義者の手に奪われることとなった。

>イギリスは、それ以上に多くのものを失った。

>私はルーズベルトを許すことができない。
>この大戦は米国に三十万人の死亡者と七十万人の負傷者、そして五千億ドルの出費を米国にもたらした。

>日本には軍人、民間人合わせて三百万人以上の死亡者をもたらした。
>日本の物的、人的、精神的被害は計り知れない。

>その責任はルーズベルトが負っているのだ。

ちなみにフィッシュは戦時中も「米国の敵は日独ではなくソ連だと」 主張し続けていた為に、アメリカに潜入していたチャーチル首相が放った英国の対米プロパガンダエ作機関「イントレピッド」による中傷工作を受けて1944年に落選に至っている。

リンドバークとかハミルトンフィッシュとか、全米母親連盟とか、戦争を避けるために会った方がいい人たちを、当時の日本政府が相手にしたということは聞いたことがない。

チャーチルが、日米戦争反対のハミルトンフィッシュ(当時のアメリカ共和党の重鎮)を追い落とすために、対米プロパガンダエ作機関「イントレピッド」を組織して暗躍させてた事実とは大違いである。

日本外交のなんと淡白なことよ!!
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Version 1.0.0

『日米・開戦の悲劇―誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ著、岡崎久彦訳(1992年12月)

この本は、大東亜戦争開戦当時、外交委員会において大統領の欧州戦争への参戦を防止することに努めていた、非介入主義者で共和党議員であったハミルトン・フイッシュが介入主義者のルーズベルトが、日本に開戦を仕向けたことを批判した本(原書名:悲劇的欺瞞)の1985年8月に出版された訳本である。

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ルーズベルト大統領は日本を本気で滅ぼそうと考えていた。

だからこそ原子爆弾を使うことを決断したし、 当初は18発の原爆を投下する予定だった。
(15年位前のワシントンポストでスクープあり)

1943年、秘密予算で議会に内緒で製造が開始された原爆投下の目標がトラック島の日本連合艦隊であると判明
これに対し、亡命ユダヤ人物理学者らが猛抗議

ナチスドイツに対抗して協力してるのに日本の軍艦が投下目標とはどういうことだというわけである

けっきょく、テニアン島に3発目の原爆を運搬途中の米海軍重巡インディアナポリスが日本海軍のイ号潜水艦に
撃沈されなどして2発に落ち着いたらしい

部品を運搬してただけ… 広島原爆はじつはナチス製(実験してない!)…  諸説あるが…

国家統合に「民族」を使えず、 実質的に白人優位の社会だったアメリカにとっては
「有色人種の開放」を訴えた日本は危険な存在だったんだよ。

優性思想にはヒトラーだけでなく、フランクリン・ルーズベルトもハマってたから。

人種をもとにした内乱ほど恐ろしいものは無い。

第一次大戦の「人種差別撤廃条約」に反対したのも、 イギリスでありアメリカだった。

つまるところ、日本は最も痛いところを突いたという話だ。

↑バカチョンコ左翼の低能のみなさんは、こういうルーズベルトを相手に戦争を避けられたと思ってるの???

@@ みなさん、これはぜんぶホントのことですよ 自分たちがナチ以上のクズだから日本の目覚めが怖いんですよ

 

名著「大東亜戦争肯定論」の中で、著者は、明治維新以来の天皇制は、欧米白人勢力に対抗してやむを得ず、生み出されたもので(著者の言葉でいうところの、武装天皇制)、それ以外の日本の歴史においては、天皇は文字通り、象徴として穏健平和をむしろ代表していたと述べている。

400年前、モンテーニュは「随想録」の中で、

「1560年頃、モンテーニュはある航海者に連れられてきた3人のブラジル・インディアンにルーアンで出会った時、「お国の酋長の特権はどんなものか」と尋ねた。自分も酋長であったインディアンの一人が答えて言うには、「それは戦争のときに先頭に立って進むことである」と。モンテーニュはこの高潔な定義に感嘆して、「随想録」の名高い一章の中にその話を詳しく述べている。」

400年後、フランスの文化人類学者、レヴィ・ストロウスが著作「悲しき熱帯」の中で、

「しかし、あれから4世紀のあと、私もまた、ブラジル・ナムビクワラ族の酋長から同じ返答をされて、驚きと感嘆を久しくしたものだ。文明国は、政治哲学にこれほどの確固不動のものを持ってはいないのではないか!」

あとは言うまでもなく、「それは戦争のときに先頭に立って進むことである」ことと、我が国の武装天皇制は同じであるということだ。



当時、広島市総務課長だった小野勝氏が次のように書いている。

「水を売ったような静けさも御言葉が終わると同時に破れた、ドッと上がった万歳の声、再び飛ぶ帽子、舞うハンカチ、溢れる涙、
こんな国民的感激を、こんな天皇と国民との感情の溶け合いを、何時、何処で、誰が味わったであろうか」

市会議長寺田豊氏が唱えた万歳の姿も声も、眼に耳に入らぬ感激、興奮が渦巻いた。

寺田議長の万歳が終わっても、陛下はしばし台上に留ませられ、群集の熱狂振りを御満足げに見入られた、そして御帽子を高く差し上げられて、再三、再四遠く、近く、左に右にいとも御ていねいな御会釈を賜りながら御座所を降りられ御機嫌麗しく御召車に入られた、時に10時35分、万歳の歓呼は止みもせず、御名残りを惜しむ市民の群れは涙とほこりにまみれながら御車を取り囲み御後を追うのであった。

(小野勝「天皇と広島」広島文化社S24年)

天皇巡幸  全国を巡幸中の昭和天皇が被爆地の広島市を訪問した。護国神社跡広場を埋め尽くした7万人の市民は
人間宣言をした象徴天皇を万歳で迎えた。

帽子を振って応えるその先は爆心地方向で、原爆ドームが見える。

右は広島県商工経済会ビル=1947(昭和22)年12月7日 https://ironna.jp/article/1303?p=2

 

さいごに、ロシア人の映画監督がこんなことを言ってる。

映画『太陽』オフィシャルブック 2006/アレクサンドル ソクーロフ (著), Aleksander Sokurov (原名)太田出版

終戦前後の昭和天皇の葛藤を赤裸々に描いたロシア映画『太陽』。世界各国で絶賛されながら日本公開が危ぶまれた、この作品の全貌がついに明らかに!アレクサンドル・ソクーロフ監督へのロング・インタヴューから。

「天皇を国家の頂点に輝く特別な存在にして、国家機構から切り離したのは、非常に賢明なやり方でした。

だからこそ敗戦が決定的なものになって政府が壊滅したときでも、日本の国民は、自分たちの利益を擁護してしてくれる存在を失わずにいられたのです。

たとえば、ドイツの場合を見てごらんなさい。

しかし、日本には天皇がいました。

戦いではなく、話し合いの相手として……。

 

アメリカの歴史学者などの中には、「天皇は自分の命を救おうとしただけだ」という意見もあります。

しかし、自分を守るにもいろいろなやり方があるじゃないですか。天皇はその中で最も危険な方法を選んだのです。

いつ殺されてもおかしくない方法をね。

自分から現人神としての権限を剥ぎ取り、アメリカ人たちと対話を始めようとした天皇の決断は、国民を救う行為でした。

まさにこのために、天皇制という制度が長い間存在してきたのだと言っていい。

アメリカ代表のマッカーサーは、天皇と会って、彼の話を聞き、その考え方に触れて、天皇という人物に、理解できない狂信者ではなく、世界の文明の一部を担う一人の人間の姿をみたのではないか。

昭和天皇はじっさいにそういう人間であったはずです。」

 

日本が分割されなかったのは、沖縄と硫黄島と、カミカゼ、マッカーサーを心服させた昭和天皇(敗戦のご決断も昭和天皇)が大きい。

英霊たちに感謝…。

日本がアメリカに負けた時の君主が昭和天皇で本当に良かった。

まさに、キングオブキングス、諸王の中の王、それが私にとっての昭和天皇である。

 

チョンコの第2次帰還運動を再開して、

共産党を非合法にして、創価に当たり前の税を課して、朝日・岩波を廃刊に追い込んだら、この国は無憂になる

山崎三郎氏(独協大学教授)の『ユダヤ問題は経済問題である』には興味深い話が紹介されている。

日産自動車の実質的な創業者で満州重工業の総裁であった鮎川義介氏がドイツを訪れてヒトラーに面会した時のことである。

ヒトラーは鮎川氏に対し、次のような意味のことを語ったという。

「貴方の国が如何に努めてみても、我がドイツが作っているような工作機械は作れないだろう。

しかし、 ドイツがどうしても日本にまね出来ないものがある。

それは貴方の国の万世一系の皇統である。

これはドイツが100年試みても、500年頑張っても出来ない。大切にせねば駄目ですよ」。

 

併せて読みたい

無条件降伏は戦争をどう変えたか 新書 2004/吉田 一彦 (著) PHP研究所 無条件降伏要求というのは、一種の思考停止である。無条件降伏要求は、和平の大きな障害となったのである
https://dokidokitenkataihei.com/yosida/

アメリカ民主党(ルーズベルト大統領)のように、表向きアメリカ国民には、我が国は参戦しないといいつつ、裏でちゃっかりフライングタイガーを中国に派遣してて、日本になんとか最初の正式な一発を撃たせようとしていた姑息なアメリカ白人。

日本人差別主義者のルーズベルト大統領にとっては、真珠湾攻撃というのは文字通り、衝撃であったろう。

彼が頑迷固陋な「無条件降伏要求」というものを唐突に出してきたのも、ただただひたすら、悔しいという感情以外の何物でもないと思う。

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